【詩の庭】  遠くなった言葉と風景Vol.9「指南」と「北針」
2008.6.9
荒波を越え、始皇帝から
逃れてやってきた徐福

「打瀬船」で太平洋を越え、米国に渡った漁師たち
磁石ひとつを頼りに航海をした人々の勇気
写真2
写真3
吉野ヶ里遺跡

 中国に秦王朝が確立されて、始皇帝の力が確保され、次第に圧政が強くなってきた。始皇帝は、このころ、李斯の提案を採用して、秦王朝の存在を脅かすような歴史書などを焼き払う「焚書」を実行し、また儒者の弾圧も行った。
 こうした流れを見ていた、徐福は、秦の系統の家柄であったが、始皇帝の政治による災難が、わが身にも襲ってくることを憂いて、一計を策した。


■蓬莱の国を目指して
 自分の力ではどうにもならない「人間の寿命」について悩んでいた秦の始皇帝に、徐福は蓬莱の国には「不老不死」の「仙薬」が存在する、と伝えて自分が始皇帝のためにその仙薬を探し求めてくる、と提案し、始皇帝から、許可を得る。
 このことについて、中国の歴史をまとめた司馬遷の「史記」は、徐福が「東方の三山に長生不老の霊薬がある」と、申し出て、始皇帝の許しを得、三千人の老若童男童女と、技術者を連れて、東方に向けて船出し、その際、徐福は五穀の種を持っていった、と述べている。
 さらに、史記は、この徐福の一団は、東方の地に「平原広沢」を得て、中国には帰らなかった、としている。


■実は、始皇帝の中国を脱出
 この史記が述べていることからみると、徐福は初めから、始皇帝の勢力圏からの脱出を図って、新しい土地で、暮らすことを考えていたと推察できる。童男童女をともにつれ、五穀も携えて、さらに「百工」(技術者)も従えていたわけだから、さしずめ新世界の開拓団である。


■「指南人形」をつけた船
 さらに、徐福たちが乗った船には、指南人形が船の舳先につけられている。これは、江戸時代に書かれた「徐福」の版画からも分かる。徐福の時代には、「指南車」という車があった。これは軍事用にも使われていたが、車の上に備えつけられた人形の指が常に南を指すように仕掛けられたもので、いわゆる磁石の役目をしていた。
 この人形が、徐福たちの乗った船につけられていたわけだ。「指南番」という、教え導く人のことをいう言葉の語源はここにあるといわれる。


 
写真1
徐福像(新宮市の徐福公園)

■吉野ヶ里遺跡が、その地か

 さて、史記に出てくる「平原広沢」の地は吉野ヶ里のことではないか、との説があるが、和歌山県の新宮にも徐福到来の伝説があり、「徐福公園」が造られている。新宮には「天台烏薬」という、不老長寿の仙薬の材料になるという、樹があり、訪れると「不老長寿の料理」が食べられるそうだ。
 このほかにも富士山の「富士」は「不死」に通じるとして、富士山の麓に徐福らが住んだとする説など、さまざまな見方がある。


■「北針」は北を指す磁石
 愛媛県の八幡浜市から南に行ったところに、「真穴(まあな)」という地区がある。真穴村と、かっては言われていたところだが、この土地では漁が盛んで、主として底引き網漁をしていた。その漁に使われたのが、「打瀬船(うたせぶね)」と呼ばれる漁船だった。全長15メートルほどで、帆がついている。
 この打瀬船には「北針」という磁石がつけられていて、船の進むべき方向を選ぶことが出来た。「指南」の逆だが、原理は同じことである。


■「打瀬船」で、太平洋を渡る
写真4
打瀬船

 この真穴の漁師たちは「北針」をつけた「打瀬船」で、なんと大正の初めころ、次々と米国に渡っていったのである。60日弱かかって、サンフランシスコのポイント・アレナに上陸したという記録などが残っている。
 もちろん途中、アラスカ沖で遭難して、イヌイットに助けられたという話もある。
 いずれにしても、このころの日本人は、海外に向けて、打ち出でていく強いエネルギーを持っていたようだ。

【写真出典】
徐福像:財団法人新宮徐福協会
吉野ヶ里遺跡:吉野ヶ里歴史公園
打瀬船:中央博デジタルミュージアム
    収蔵資料紹介 −故・林辰雄氏撮影写真集− 昭和30年代の東京湾岸より
 
 
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