【詩の庭】 遠くなった言葉と風景
2008.01.21
Vol.2 柴刈り縄ない
   

 心に浮かぶ連絡船についての記憶はかなり遠い距離を持つ。冬なのか、秋なのか、はっきりしないが、寒い季節であったように思う。
 父親と二人で走ったことはかすかに覚えている。そのあとを走りきれない母親と、2人の弟が離れて追ってきているといいう、家族の風景だ。荷物をみんなそれぞれ、いくつかさげている。


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 あの大惨事となった洞爺丸事故(1954年)よりも、もう少し前のこと。当時の青函連絡船は鉄道列車も積み込んで、運んでいたけれど、乗船する場所は人と列車は別だった。そのため客は、乗船名簿に記入して、急いで船に乗り、良い船室での場所を取らないといけない。そのために走ったのだ。

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 四国にわたるためには本州の宇野と四国の高松の間を結んでいた宇高連絡船を使うのだが、ここで大きな事故が起こっている。高松についた連絡船から降りた客が、列車の席を確保するために、スタート・ダッシュをかけ、たびたび将棋倒しになるということが起こった。

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 青森駅でもみんな走っていた。2等船客になると、座席があって風呂までついていたように思う。
 子供にとっては、船旅は楽しくて、出発の合図の銅鑼の音を聞いてわくわくしたり、デッキに出て舞い上がって飛ぶカモメを見たり、結構思い出として残っている。

 
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 連絡船で、航続距離がいちばん長かったのは青函連絡船で、113キロもあった。父親が転勤族で、滋賀県の坂田郡醒ヶ井というところから北海道の小樽にまで転勤ということになったのだから大変だ。
 母親は地の果てまで行くような気持ちになったそうだ。東海道線の米原の隣の醒ヶ井駅からとりあえず東京の上野まで行き、そこで東京見物のため2泊ほどして、再び汽車に乗って青森まで行く。急行列車だが、青森に着いたらもう汽車の煤で真っ黒になっていたから、2等船室ではなかったが、お風呂に入れてもらったように記憶している。

 
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 青函トンネルができたのは1988年で、それをもってこのような長い船旅をする必要はなくなった。けれど、トンネルの中は真っ暗で景色なんてものはない。
 宇高連絡船も、本四架橋ができて、消えていった。関門トンネルは早くから着工されて、1942年には下り本線ができて、営業を始めている。世界最初の海底トンネルとして日本自慢のものだった。それまでは下関と門司港の間に連絡船があった。
 本州と北海道をはじめ 四国、九州を結んでいた連絡船は消えて行ったが、瀬戸内海の島々を結んだりする離島の連絡船は、その役目をまだまだ終えることはない。

 


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