【詩の庭】 遠くなった言葉と風景
2008.01.21
Vol.2 柴刈り縄ない
   

 雑誌「少女号」に、大正9年に発表された、清水かつらの「叱られて」の歌詞は、高知県安芸市出身の作曲家、弘田龍太郎によって、曲になった。
この「叱られて」の曲を聴くと、子供のころの思いやいくつかの具体的な情景が次々と浮かんできて、いつの間にか感受性の強い子供時代に帰ってしまう。


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子供のころはよく怒られた。父親にぶん殴られたこともある。ワケがわからないような怒り方で殴られたことについては、いまだに父親に対して遺恨が残っているが、まあたいていのことは、特に母親に叱られたのは、「そんなことあったな」と懐かしくもある。

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 叱られるというのは、親子の間のじゃれごとでもあるのだが、時として、子供の意地が突き出てしまうことがある。
そんなときはやっぱり、家出となる。「それならもう家に帰ってやらない」。


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そう思い詰めて、家を飛び出すのだが、さて、田舎の街灯も無いようなところで家を出てしまうと、行くところがない。最初は学校に入って時間をつぶしていても、今度は学校自体が恐ろしくなってくる。どういうことかというと、子供にとっては人の誰もいない学校は巨大な化け物みたいなもので、その建物の存在自体が怖いのである。何が潜んでいるかわからない。子供の脳の中の想像の世界がその巨大な建物いっぱいに広がって、とてもじっとしていられなくなるのである。

 
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 暗くなった道を今度は、家に帰ろうとすると、道を横切る小動物のがさがさいう、音がまた大げさに響いて聞こえてくる。それはたかが、蛙とか、ねずみとか、蛇とかだろうけれど、姿が確認できないものほど恐ろしい。
今のように蛍光灯の街灯なんてものはまったく無い。頼りになるのは月明かりだけである。その月明かりもなまじっかあると、わずかに見えたものを、悪いものの方向に勝手に自分が想像を膨らましてしまって、恐ろしさが増してくる、ばあいもある。

 
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だから、狐の「こん」という鳴き声だって、震え上がってしまうことがある。ようやく飛び出してから、ようやく家にまで帰り着いても、意地があるからそう簡単には母屋には入れない。だから納屋の中で鍬や鋤といっしょに寝ることになる。
母親はそんなことは十分察知していて、既にアンパンとかが、納屋の片隅にそれとなく置いてある。「こんちくしょう」と、その配慮に思いつつも、腹の虫には負けて、泣きながら、涙をながしつつアンパンにくらいつくのである。
アンパンは涙で塩の味がついて、いつもよりさらに甘いのである。

 
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 でも、今の親は子供をさっぱり叱ってませんね。電車の中で子供が「きゃっ、きゃっ」騒いでいても知らん顔のときもあります。驚くことには土足で電車のイスに子供が立っても形式的におろす程度ですね。叱りませんね。家庭内でのしつけはどうなってるんですかね。
 聞くところによると、ある親は理由も調べずに「学校で自分の子供が叱られた」と、先生に苦情を言いにいったというではありませんか。これでは先生も叱れない。こんな風に育っていった子供で構成されてできあがる社会は一体どんな格好になるんでしょうか。

 
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