応募小説
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シュガー <3>
                          アギレ

 クッキーは決心した。
 ナタリーの事務所はホノルルにあった。散らかしたシュガーの部屋で彼女の名刺を見かけたことがある。正確なアドレスは覚えていないものの、カピオラニ・ブルヴァード沿いだということと、ビルの名前は記憶に残っていた。アラワイ運河に近い。
 思いつめたクッキーの表情に迷いはなかった。白い開襟シャツにジーンズ。その女(ひと)に会ったら、恐れることなく、言うべきことを言おうと心に決めていた。しかし、エレベーター・ホールで待っている間、いったい今の自分にとって言うべきことは何なのか、実はなにも明確になっていないことを思い知らされた。あることないこと頭の中を堂々巡りするばかりだった。歯がゆさはやがて自己嫌悪になり、十階に着くまでの数秒がまるで数時間にすら感じられた。むしろそう感じたいと思っていたくらいだ。
 『まったく。頭が悪いってことは、犯罪だわ。』
 妙な冷や汗が体中を襲い、わけもなく心臓が高鳴るのが自分でもよくわかった。
 ナタリーの事務所は、ビルの合間からダイヤモンド・ヘッドがよく見えた。若い女の秘書が取り次いだ。所在無げにクッキーは待っていた。すると案外すぐに部屋に通された。ナタリーはブロンドを後ろにまとめて、何か書類をチェックしているようだった。
 光彩のよくとれたオフィスは図面と写真があちこちに広げられている。足の踏み場もない。クッキーはソファに腰を落ち着かせることもできない。
 ナタリーはペンを走らせながら、チラッとクッキーのほうを見た。
 「ごめんなさい。少し待っててちょうだいね。」
 クッキーは返事もせず、ただ突っ立っていた。
 やがてナタリーは書類をまとめると、それを封筒に入れ、さきほどの秘書にことづけた。ため息をついた彼女は立ち上がり、まるでとってつけたようにクッキーに笑いかけた。
 『きれいだ。この(ひと)。・・・』
 クッキーはもう圧倒されていた。
 「クッキーね、あなた。どうしたの? 突然ね。シュガーのこと?」
 『わかってるくせに』。
 クッキーはにがにがしく思った。
 「黙っていたら、わからないわよ。」
 ナタリーは図面や写真を片付けて、クッキーをソファに促した。そして細い煙草に火をつけた。
 「どういうことなの?」
 クッキーは思い切って言った。
 「別れて。」
 ナタリーは思わず吹き出した。
 「何を初対面で言い出すのかと思ったら、まったく若い人はいいわね、。思い過ごしも羨ましいくらい。」
 「ごまかさないで。」
 クッキーは今にも泣き出しそうだった。
 「言っておくわ。シュガーはお友達。あなたのことはよく聞いているわ。相談に乗ったことだってあるのよ。けっこう悩んでいるみたい。あなたのことで。」
 クッキーは耳を疑った。ますます心は逸ったが、一瞬世界が広がるような明るさを感じた。
 「いいこと。わたしには夫がいて、子供がいる。仕事も大変。シュガーは偶然通りがかりに車を直してくれたの。それ以来のお友達。そのほかは何もないわ。それよりシュガーはあなたに自分がふさわしくないんじゃないかって悩んでたけど。いつも彼の背中を押してあげているつもりだったのに。彼、なにもそれらしいことをあなたに言わない?」
 クッキーは我知らず、目がうるんできた。唇を噛んだまま頭(かぶり)を振った。クッキーにとっては、シュガーが自分のことを考えて悩んでいる、それだけで十分だった。
 「彼のアパートに行ってあげなさいな。一晩ゆっくり話あえば、仲直りできるんじゃない? 何があったか知らないけれど。」
 「わたし、彼のアパートに泊まったことがない。」
 「彼は誘わないの?」
 クッキーは、『ノー』と顔を横に振った。
 「おかしな恋人たちね。もっと素直になれないのかしら。若いのに珍しいわね、二人とも。」
 クッキーはぎこちなく笑った。
 「ごめんなさい。お邪魔して。気を悪くしないでください。あまり心配したものだから。誤解してしまったんだわ、わたし。」
 「いいの、いつでもいらっしゃい。」
 ナタリーは爽やかに笑って立ち上がった。クッキーをエレベーター・ホールに送っていく間、二人はもう一度言葉を交わした。
 「わたしとシュガー、うまくいくと思います?」
 ナタリーは優しそうに言った。
 「不安になっているときほど、お互いの気持ちは一番近いところにあるものよ。それに気がつかないだけ。」
 クッキーは安心したように白い歯を見せて笑った。
 クッキーを送り出した後、ナタリーは深いため息をついた。額には汗をかいていた。シュガーのアパートに電話してみたが、留守番電話になっていた。・・・・・・

 午後遅く、パイプからカイルアに戻ったシュガーは、がらんどうのこの部屋が一番落ち着くと思った。椰子の並木があるNYか東京に成り下がったこのハワイで、ここだけが原色の空気を感じることのできる唯一の場所だった。とりたててハワイらしいものがあるわけではない。バス・ルームに転がっている無臭のマンゴー・ソープだって実はフィリピン製だ。
 シュガーは何事にも夢中になるということがなかった。サーフィンを除いては。そのくせ、現実の一つ一つ思いを巡らすより、人と人との狭間に落ちていく自分がいたたまれなくなる。学生の延長らしくかなり理屈っぽい。ある種の理性へのこだわりといってもいいかも知れない。行動を制約するものは、(彼の言葉を借りれば)『根源的責任』ということだった。『結果的責任』ではない。シュガーはときにそれをエゴという言葉に置き換えたりする。自分の中にエゴを激しく感じるとき、それと同じものが周囲の人間にもあるのだとそう信じていた。そしてそれぞれのエゴが予定調和することは決してない。ただ、淘汰があるだけだった。そのことに気づいてからシュガーはよく喉が渇くようになった。空のはるかを流れていく雲や、海に落ちてきそうな星たちを数えてはため息をつく毎日を送っていた。
 シャワーを浴びると、ナタリーから電話があった。少し声の調子が違っていた。何かそらぞらしいものを感じた。いわく、クッキーがホノルルの事務所に突然やってきた、何も言わずにただシュガーと別れてくれと訴えた、云々。シュガーは黙って聞いていた。
 「彼女、必死だったわ。悪い子ね。とりあえず言っておいたの。あなたたち二人でよく話し合ったら、って。わたしはそれに従うわって。・・・・・ねえ、聞いてる?」
 「聞いてるよ。」
 「どうするの?」
 「またはっきり言ったものだな。どうもしないよ、俺は彼女に自分からアプローチしたことはない。好きにする。」
 ナタリーの声は少し軽い調子になってきた。なんとなく、シュガーにはナタリーのことがあざとく思われてきた。自然、シュガーの口調もどことなくとげとげしいものとなった。
 「ねえ、こんな話の後でなんなんだけど。これからパーティがあるの。ボートでね。アラモアナのケワロ湾から六時に出港よ。来ない?」
 「服がない。」
 「かまわないわ。突っかけや、ショートパンツじゃなければ。じゃあ、来るのよ。」
 「わかった。」
 「それから・・・・クッキーのこと、怒っちゃだめよ。」
 「怒らないよ。」
 怒る以前の問題だった。
 「ならいいわ。遅れないでね。チャオ。」
 シュガーは電話を切っても、やはり頭のくるのを抑えることができなかった。クッキーの押し付けがましい思いにも、ナタリーのいやらしい使い分けを心得たやり口にも。シュガーはいまいましくなった。もちろんナタリーが、シュガーとは友達だといってごまかしたことを、シュガーは知らない。ただ、なんとなくナタリーの説明通りではないんだろう、とは感づいていた。
 シュガーは、ともかく白い綿パンをはき、革のデッキシューズを引っ掛け、アロハを取り出した。そのときまた電話が鳴った。もうシュガーは取らなかった。留守番電話が作動する。すると、クッキーの声が単語をかみしめるように流れてきた。
 「1・4・3、シュガー。・・・食事に行ってるの? わたし、今、パライソ。もうすぐ終わるの。今日は早番。・・・パパにウソついちゃった。だからカネオヘには帰らなくて平気よ。友達のところへ泊まるって連絡したの。・・・ちゃんとアパートで待っててね。今夜はわたし・・・・」
 シュガーは終わりまで聞かずにアパートを出た。『お仕事だ。』そう思い切るように独り言をつぶやいて、バイクのセル・スターターを押した。

 ケワロ湾を大きなボートが離れたのはちょうど六時半。百人がいっぺんに乗れるボートはゆっくりとホノルル沖へ向かった。デッキからはホノルルがこぢんまりとネックレスを束ねたように見えた。
 ナタリーは例によってベア・トップのドレスだった。今夜は白だ。パーティに来ているのはすべてといっていいほど白人だった。それも本土、とくに東部エスタブリッシュ然とした連中ばかりだ。もちろんたいていアロハで片付けていたが、それでもNYそのものが精一杯張り詰めたような雰囲気だ。いわゆる有色系(カラード)はシュガーとほんの数人で、あとはポリネシアンの給仕、それにフィリピン人のバンドがいるくらいのものだ。
 ナタリーはシュガーを見つけると、すぐやってきた頬を差し出した。ハワイカイにいるときとまるで違う。シュガーは軽く彼女の頬にキスした。この段階でもう彼は何かいわれのない力を体の中に感じてしまった。
 男たちは政治や株の話に興じていた。やれ一千万ドルをジョージ・ソロスのファンドに入れただの、この前のメキシコ通貨危機では大損しただの、やっぱりNAFTAは失敗だの、連銀は五月にもう一度政策金利を引き上げるだろう云々。・・・
 それがどうした、という感じだった。
 アルコールを飲む気になれなかったシュガーは、トマト・ジュースを給仕に頼んだ。シュガーの目は、デッキに集う人たちの中に、『あの男』を捜し求めた。時折ナタリーがシュガーを知り合いに紹介するのだが、ほとんど上の空で応対した。どうやら、それらしい人物はいない。
 『いないから、ペットのように俺を都合したってことか。』
 時間を追うごとに、自分という通貨が大幅に切り下がっていくような妄想を感じた。
 そのとき一人の中年の白人がシュガーにビールを頼んだ。シュガーは自分は給仕ではない、と言おうとしたが、なんだか面倒臭くなり、自分でカウンター・バーからビールを取ってきてやった。それを見たナタリーが慌ててその男にシュガーを紹介したところ、大いに驚いてみせたものの、しかし謝りはしなかった。ナタリーは心配そうにシュガーを見ていた。
 ともあれこれがきっかけとなり、二、三のナタリーの知人はシュガーを囲んで会話が始まった。みな、ナタリーと同業のデザイナーということだった。中にはシュガーとそう年齢の違わない者もいる。
 さきほどの中年男はまるで何事もなかったかのようにシュガーに話かけた。
 「デザイナーなんていうのは、ビジネスとはいえ、芸術性が必要なんだ。言わずもがな、だがね。センスが重要だから、場合によってはプロとアマの境界線が無いっていう瞬間もありうる。」
 ナタリーが応じた。
 「勉強したその日から収入に結びつくって、よく求人広告に出ているでしょう? 結構、安易に考えられがちよね。」
 「まったくだよ。思いつきのセンスだけじゃ、なかなか続かない。それにいい舞台を選ぶってことも成功する秘訣だ。」
 シュガーはなにもデザイナーになりたいわけじゃなかった。プライドをくすぐっておけば楽だくらいにしか思っていなかった。
 「なんにせよ、ビジネスに関しては、あんたたちアメリカ人には、誰もかなわないよ。」
 「自分で言うのもなんだが、その通りさ。アメリカ人っていうのは、きみも知っての通り、実に流動的なものの考え方をする。恐ろしく自尊心が強いくせに、何が一番見栄えがするか、使い勝手がいいか、あるいは面白がってもらえるか、この点に非常に注意をはらうんだな。芸術(アート)っていうのは、効用がすべてだ。実用性といってもいい。」
 「これからは、プリミティブなものが素材の中心になると思うわ。」
 「やっぱり、素材だね。新しい素材を見つけて、いけるモノに仕上げるってことだ。われわれの芸術(アート)っていうのは、素材が肝心だな。」
 シュガーが唐突に口を開いた。
 「世紀末にはいつもエコロジーが流行る。」
 男たちは驚いた様子だった。シュガーがこのテの話題に乗れるとは思わなかったのだろう。たかだ、学生くずれのサーファーなのだから。
 「ペーズリーの柄みたいにね。生物学に人々の関心は集まってくる。十九世紀末の流行と同じだよ。あの頃のデザインも(つた)に絡まるような熱帯の図案が基調だった。アール・ヌーボー(新芸術)なんていったって、なにも新しくなかったんだよ。また世紀末がこれからやってくる。同じことが繰り返されるだけだ。」
 「そうね。ピカソも言ってたわ。芸術(アート)はけして進歩しない、ただ変貌するだけだ、って。進歩を信じるのは人間の思い過ごしなのよ。」
 シュガーは会話が弾むのに反比例してなにやらむかついてきた。会話の中に頻繁に出てきた『芸術(アート)』という言葉に、嫌悪感を覚えたのだ。
 「でも、あんたたちはゴーギャンといっしょだよ、ある意味ね。」
 またもや唐突なシュガーの言葉に、ナタリーも男たちも聞き耳をたてた。
 「けっきょくゴーギャンは、原始に回帰しようとしても、フランスを捨てきれなかったのさ。タヒチの人間を描いてみせても、しょせん褐色のイエスだったり、半裸のマリアだったんだ。つまり、ゴーギャンは原始に染まろうとして失敗した。あんたたちは、しかし、ゴーギャンのその痛みや苦しみがない。けっきょくNYやLAに帰っていくんだから。楽なものさ。それが証拠に、あんたたちはここにも本土を思いっきり持ち込んでる。」
 これは男たちのカンに触ったらしい。横でナタリーがいつ割って入ろうかとハラハラしながら見守っていた。
 「きみは・・・・」
 くだんの中年男は落ち着きはらって話し出した。
 「これがビジネスだってことをわかってないようだ。デザインに痛みや苦しみを感じていたら、仕事にならん。」
 こんどはビジネスという言葉に、シュガーは過敏に反応した。
 「なら、芸術なんて言葉は使わなきゃいい。水と油なんだ。」
 「ビジネスと芸術は両立しないっていうのか?」
 「するわけがない。」
 「ほう?」
 石のように硬くなった無職の日本人は、にわかにパーティの耳目を集めた。
 「芸術の本質は悲劇だ。ビジネスは利益が目的だから、悲劇を感じない。あんたの言う通り、実用性っていうなら、楽しくあるべきものじゃないのかい?」
 「ビジネスの一方で、われわれも悲劇を感じることはあるさ。それともわれわれがビジネスライクなあまり、そういうことに不感症になっているとでも?」
 「感じているフリをしているだけさ。その方が、芸術の権威をカサに着れるからね。プライベートに戻っても、悲劇を感じ取ることができないとしたら・・・・」
 「としたら?」
 「ハワイにまで、ネクタイを忘れないただの野蛮人だ、ってことさ。」
 逆説的な皮肉だった。緊張の均衡はピークを迎えた。一瞬どよめいたが、ちらほらと軽蔑的な苦笑も聞こえてきた。
 中年のデザイナーはとうとう、ルールを逸脱した。
 「きみは働いてないからそう思うんだ。一度、社会でもまれてみれば、カネにならない芸術性など無意味だってことがわかるよ。」
 そうだ、と言うような声があちこちであがった。
 シュガーはきれた(・・・)。ピクリとも表情を変えず、メインデッキの大きなテーブルクロスをつかんだ。卓上にはシャンパンやら料理やら、盛りだくさんになっている。シュガーは男の顔をじっと見つめながら、そのままクロスをずるずると手繰り寄せるように引っ張った。酒やグラスがフロアに次々と落ちて爽快な音をたてる。シュガーはおかまいなしにクロスを引っ張り続けた。ロースト・ビーフも、フルーツも、バタバタと落ちていった。誰もが呆気にとられてシュガーを止めることもなかった。ナタリーは真っ蒼な顔をして、ただ顔を横に振るばかりだった。
 クロスを全部手繰りきったシュガーに向かって、中年の男は静かに言った。
 「Good night, Mr.Asshole.(おやすみ、ケツ野郎。)・・・・」
 シュガーは黙ってデッキの端まで歩いていった、どよめいていた人垣は自然に割れてシュガーを通した。手すりにまで来ると、アロハも、デッキ・シューズも、着ているものをなにもかも脱ぎ捨てて、全裸になってしまった。
 手すりに足をかけたシュガーは、半身を振り返り、右手で中指を立てて見せた。
 「Good night, everybody.・・・Fuck you, everybody・・・」
 一斉に野次とも怒号ともつかない声があがったとたん、シュガーは海に身を躍らせた。
 冷たい。まだそれほどワイキキから遠くへ来ていなかった。浮上して明かりをみると、この距離ならなんとか泳げると思った、鮫やクラゲのことは考えも及ばなかった。ただ、われながら爽快だと思った。途中振り返ると、ボートは表面的な生活を乗せてダイヤモンド・ヘッドの沖を滑っていった。全身がしびれるほど冷たく、感覚が麻痺しそうだ。それでも海の中で笑い転げたいほど愉快で仕方がなかった。
 波のとりわけ静かな夜。月明かりに弾ける波の面が星のように思えた。きっと夜空や星が呼吸をしていた。だから、海が輝いて見えた。
 ワイキキに泳ぎつくまで、ずっとシュガーは心の中で言い続けていた。
 『病気なのは俺じゃない。あんたたちの方だ。・・・・』
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 ニックはタンタラスの丘にほど近いあたりに小さな一戸建ての家を持っていた。その夜は大騒ぎだった。シュガーがなかなか来ないので、もうみんなで勝手に始めていたのだ。男はニックをいれて五人。サーファー仲間の白人が三人に、あとはニックの『ガールフレンド』でタイ人のファルンだった。
 ニックはその夜、女の調達には失敗したようだ。正真正銘の女は観光客のオーストラリア人二人だけだった。そのうち一人は、のっけからウォッカとマリファナで正体がなくなっていた。どこから手に入れたのか、阿片(オウピウム)の匂いがする。かなりの粗悪品だろう。マリファナに混ぜている。阿片はかなり甘酸っぱい匂いがするので、すぐそれとわかってしまう。だからめったに使うことはないはずだった。
 目が完全にイってしまったオーストラリア女の一人は、まったく動かなくなっていた。そうなるとただのモノでしかない。三人の男たちは、残りの一人に標的を定めた。輪姦(まわし)を始めたのだ。彼女は事態が予想外の展開になって大いに慌てたが、抵抗できないほど足腰が萎えていた。もう後は哀願とも悲鳴ともつかない声をあげながら、獣たちの餌になっていった。誰の言葉も、もはや人間の言葉にはなっていなかった。
 ニックはというと、はじめのうちファルンの口で、下半身を慰めていた。上目づかいにニックを見る表情は、自然の悪戯を呪っていた。そのうちにファルンを四つん這いにさせて、押し入った。そのときにはファルンは重苦しくうめくだけだったが、逆にニックが身を引くときには切なそうな声が長く尾を引いた。ファルンは鳥肌が立つような悪寒に見舞われながら、うつろに笑っていた。血が出るほど自分の指を噛んで、気の遠くなるような快感に耐えていた。ときどき体が痙攣を起こす。そのたびに、まるで持って生まれた現在に対する罰を受けているようだった。
 臓腑が腐ったような臭気が部屋中に充満し、舌を刺すような臭みに体は激しく燃えていた。グラスの割れる音、罵声、輪姦が行われているベッドの軋み、音という音のすべてが独立して彼らの鼓膜に襲いかかっていた。
 「へへへ、今夜は結構荒れそうだなあ。」
 ニックはそんな事を口走ったが、とっくに大荒れだった。
 そのうちに、呼び鈴が鳴っているのに気がついた。さっきからずっと鳴っていたらしい。
 ニックはやおらファルンを突き放すと、立ち上がってドアのところに千鳥足で向かった。
 「ニック? わたし。クッキー。・・・」
 「なんだ、きみか。早かったな。」
 早いか、遅いかも実はわかってなかった。
 ニックがドアを開けると、目を丸くしているクッキーがいた。なにしろニックも素っ裸。部屋の中では、無秩序なドラッグパーティだ。
 「シュガー、まだ来てないぜ。電話で言った通りさ。・・・・じき来るよ。カイルアで待ってたって無駄さ。入りなよ。」
 ニックは中の様子に言葉を失って身動き一つできずにいるクッキーを引きずり込んだ。
 「悪いけど、今、なにその、途中なんでね。・・・そこで待ってるんだな。」
 ニックは勝手なもので、さっさとファルンのところに戻った。快感が神経の細い糸を逆流する。視覚は距離を失い、熱を帯びた体が意識を無残に蹂躙していた。
 クッキーはなるべくその様子を見ることのないように、キッチンへ抜ける隘路に腰掛けた。ただ、目の前で繰り広げられている一部始終に、正直生きた心地がしなかった。火を噴きそうなほど紅潮し、冷や汗をかき、意識と記憶がずたずたに引き裂かれていくような嫌悪感を覚えた。
 突然、彼女はシュガーのカイルアのアパートの合鍵をキッチンフロアに投げつけ、一目散にニックの家を飛び出した。シュガーがここへ遊びにくるのだ、と思っただけで、もう自分が不潔でしかたなく思えたのだ。
 どこをどう走ったのか。ただ、無愛想な街灯を走りすぎるたびに、心の中で叫ぶのだった。
 『もう嫌。・・・お(しま)いだわ。・・・絶対に会うものですか。』
 クッキーは息が止まりそうなほど走り続けた。
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 シュガーはもとよりニックのパーティに行くつもりなど毛頭なかった。いったんカイルアに戻ると熱いバスにつかりながら長いこと時間を潰した。冷え切った体がひりひりと痛む。硬くなった筋肉が次第にほぐれていく。
 食器が片付いていた。留守番電話のメッセージ通り、クッキーが来ていたらしい。しかしだからどうなんだ、という感じだった。ただぼんやりとバスルームに充満する蒸気を胸いっぱいに吸い込みながら、まだ船上で繰り広げられているだろう日常という化け物のことを思い浮かべていた。そしていくら突っ張ってみたところで、ぐうの音もでないほど無力な自分を感じていた。
 夜半、シュガーはバイクでワイメア・ビーチに出かけた。沖は真っ暗で何も見えない。サンセット・ビーチを過ぎる頃、沖に出ればあの辺が大波の立つキャミーランドだと想像したりした。潮騒には何の距離感もない。かなり疲れていたのだろう。バイクを停めて、風のない、にじんだ色の夜が時を刻んでいくのをじっと見守っていた。めいっぱい砂浜に伸びた波は投げやりで透明な奇跡を残していく。
 すべては錯覚に過ぎなかった。誰も世界の中心にはなれない。ナイト・サーフをしているうちに、自分の中である微妙な変化が起こり始めていることを感じ始めていた。今、この時代に生きていく真実とは、奪っていくことだと、それまでは思っていた。『自己実現』や、『自我の解放』という言葉が疎ましくてならなかった。なにものにもつながっていないことが、どうしてそんなに尊いことなのか、ずっとその答えが見つからなかった。だから日常という錯覚の中で、なぜああも人間たちは自信を持っていられるのか、不思議でならなかったのだ。
 耳元でふと女がささやいた。
 「だめよ。神様のことを考えたりしちゃ。」
 ジョイスが背中越しにシュガーを覗き込んでいた。
 「どうして、ここだとわかった?」
 「お店に一人で残ってたら、バイクの音が聞こえたから。なんとなくシュガーじゃないかなって思ったの。」
 「神様だって?」
 「考えたりしてもだめってこと。啓示があるだけなんだから。」
 「手を差し伸べてくれるのは?」
 「悪霊。」
 ジョイスも隣に腰を下ろした。
 「自分が孤独だって思ってるんでしょう?」
 「ご明察。」
 「感傷的ねえ。」
 「そう、とってもね。」
 「自業自得ね。生命をなにかに役立てようとするからよ。」
 「芸術(アート)といっしょだな。役立てようとしたら、芸術じゃなくなる。」
 「そうよ。さもなきゃ、詩はただのスローガンになってしむし、絵画はただのポスターになっちゃうわ。」
 「どうしろってんだ?」
 「バランスよ。」
 「どういう意味さ?」
 「それがそうあるべき姿であるっていうこと。」
 「禅問答みたいだな。俺の肉体はまだ夢を見てる。」
 「せいぜい、田園詩ね。」
 自分の生き方を批判されるのには、シュガーは十分すぎるほど慣れていた。
 「忘れないことね。不安なとき、もうほとんどの問題は解決していることが多いってこと。気がつかないだけよ。」
 そうだった。空の青さに見とれているうちに、その広さのことをすっかり忘れてしまうことがある。目の前にあるハイビスカスの原色がこの手に欲しくて、それが翌年も、またその翌年も、繰り返し生まれてくることを信じることができないのだった。人間らしく生きることにとらわれて、人間であることを忘れてしまう。ジョイスはそれを現代人の病だと言う。
 シュガーは、議論になるのが怖かった。
 「知的な遊戯にはもう飽きたよ。溢れる知性。言葉の無駄遣いだ。俺たちは真理で生きていけるほど単純でも強くもない。どうしても見つからないのは動機だ。絶望にも行き着かない無力感は、考えるだけでぞっとする。エディのことだけど、あの日からすっと気になってた。死にたがってたとしか思えない。俺にはとても持ち合わせないものだ。俺には死の動機が明らかにない。逆に言えば、なにをして生きていったらいいのかわからない。馬鹿みたいだろう。欲求だけが膨れ上がってくるんだ。」
 ジョイスは、じっと聞いていた。そして改まったように重い口を開いた。
 「エディに勝ちたい?」
 「無理だよ。狂ってる。ただいっしょにヒートはしてみたい。」
 「自信がないんでしょう?」
 「あるもんか。プロだってやらないよ、あんなサーフィン。」
 「プロだからやらないのよ。それで生きているから。生命を失っては元も子もないわ。」
 「それはそうだ。」
 「自信が欲しい?」
 「・・・・・・」
 シュガーは静かにうなずいた。
 ジョイスは『来て』と促すように立ち上がった。そして父親のやっているサーフ・ショップ『バイパス』へとシュガーを(いざな)った。
 相当ガタのきている木造のショップは、それでも結構清潔だった。ジョイスは電気もつけずに、修理台からサーフ・ボードを片付けた。
 締め切った部屋の中は木造特有の甘いにおいと、塗料やセメントの機械的な臭気が混在していた。空気は澱んだように湿っていた。
 ジョイスはなんのためらいもなくシュガーの首に両手を回してキスをした。長い・・・一度のキスがやたら長く感じられた。熱い舌が伝わってくる。形のよい唇がシュガーの胸元に滑っていく。やがて、蒼白い月の光に無駄のない中国人女の体が浮かび上がった。冷たくて硬い修理台の上で、ジョイスの腰や肩が揺れるたびに、その顔は美しく歪んだ。のけぞる体から弾むような息と汗が吹き出してくる。まるで、今しがた海から揚げたばかりの真珠のようだ。シュガーは押し上げた彼女の両手を握りしめていた。夜はしなやかに通り過ぎていった。・・・・・・

 店先のテラスに籐の長椅子があった。二人は裸のまま横になり、波の音を聞いていた。
 椰子の葉が月の光で濃い影を落としていた。それが風にそよぐたびに、カナロアの独り言が聞こえてくる。女の静かな呼吸が心地よく胸に伝わってくる。
 「自信、ついた?」
 「なんだ、起きてたのか?」
 ジョイスはふふふと鼻で笑った。
 「ねえ、自信ついた?」
 ジョイスは意地悪そうにもう一度聞いた。
 「ひどい女だ。」
 「そうかもね。」
 不思議な夜。いつになく女と終わった後も体を離したくなかった。
 「ねえ、The Lunar Effectっていう本、読んだ?」
 「ハワイに来てから一冊の本も読んでない、」
 「本を読まない人は嫌い。」
 「また読むようにする。」
 「そうね。アーノルド・リーバーっていう人が書いたの。不思議な月の力のことがたくさん書かれてる。ロサンジェルスで生きた牡蠣(かき)を採取して、ニューヨークの研究室の水槽で飼ったんですって。牡蠣って満潮時に貝が開く習性があるらしいわ。プランクトンを食べるためにね。それがニューヨークに持ち帰った当初は、まだロサンジェルス時間の満潮時に開いてたんですって。ところが、しばらくするとニューヨーク時間の満潮時に開くようになった。水槽の中には満潮も干潮もないわ。なんで牡蠣にその違いがわかったのかしら?」
 「月の光でそれを感じ取ったっていうのかい?」
 「ううん。月の引力らしいわ。微妙な引力の差が、牡蠣にそこがロサンジェルスではなくて、ニューヨークだってことを教えたのよ。」
 「その話が俺たちになにか関係あるのかい?」
 「べつに。」
 ジョイスの優しい微笑みが見えた。柔らかい海の湿気が新しい生命を自分の体に与えていくようだった。
 「寒い。・・・・」
 ジョイスがささやいた。シュガーは重なりあうように彼女の体を抱き寄せた。・・・・・・

 目がくらみそうな日差しでシュガーは目覚めた。
 タオルケットを巻いただけでテラスの長椅子に寝ていたのだ。ジョイスが冷たいパンチを大きな透明なマグに入れて来た。おはようのキスにパンチの味がする。
 「パパがもうすぐ来るわ。なにか着たら。」
 シュガーは慌てて起き上がり、部屋の中へ衣類を取りに入った。
 煙草が美味い。ジョイスに向けると、『喫わない。』と首を振った。
 椰子の葉が大きくショップに覆いかぶさり、かえって差し込む太陽の光があたりに飛び散るようだった。砂が湿っている。
 「なんとも思ってないの?」
 シュガーは野暮だと思いながらもう一度聞いた。ジョイスは手すりに寄りかかりながら、パンチ・グラスを口元にあててにっこり笑うだけだった。
 「聖母マリアってとこか。」
 ジョイスは小悪魔のように目くばせした。
 「さもなきゃ魔女、だな。」
 「なんとでも。」
 ジョイスは愉快そうだった。
 「あのエディって、何者なんだ?」
 「言えないわ。」
 「君のボーイフレンドだろ?」
 「どうかしら。」
 「そうだって言ったじゃない。」
 「なら、そうなんだわ。」
 「裏がありそうだ。」
 「探偵でも雇う?」
 ジョイスは小気味よさそうに笑った。
 「冗談を言ってるんじゃない。あの男はいったい何者なんだ?」
 ジョイスはグラスの中で揺れる紅いパンチを見つめながらつぶやいた。
 「脱走兵。・・・」
 ジョイスは続けた。
 「湾岸戦争で動員がかかったとたんに逃げ出した。もと海兵。おまけに逃げるとき誤って人を殺してる。それから転々として、ここまで来た。・・・臆病者。」
 「俺だって嫌だよ、戦争なんか。」
 「でも、その臆病者が今じゃ死のうとしてる?」
 「人を間違って殺したことを悔いてか。」
 「・・・・・・・・・・」
 ジョイスは首を横に振った。
 「なぜだ。」
 聞きたいのはそれだった。
 「さあ・・・・・・」
 「知ってるんだろう?」
 「たぶんね。」
 「じらすなよ。」
 「本人に直接聞いてみたら?」
 シュガーはもうそれ以上は聞かなかった。爽やかな潮風がそれをさえぎったのだ。
 ラジオが流れていた。それぞれのビーチの波を何フィートか伝えていた。椰子の並木の向こうに六フィートの波がたっている。BGMがくすぐったい。
 ジョイスが海のほうを見ながらつぶやいた。 
 「Good sets, today(今日は波がいいわ)・・・・・Lot a juice.(たくさん寄せてる)・・・・・」

 アマの大会は週末に迫っていた。
 シュガーは午前中一杯ジョイスと波に乗ってから、昼過ぎにカイルアへ戻った。
 留守番電話には珍しくクッキーのメッセージが入ってなかった。
 『ヘソを曲げたかな。』
 シュガーは一つだけ入っていたメッセージを再生した。ナタリーからだった。朝方、電話をしてきたらしい。
 『It’s me(わたし)、・・・ナタリー。・・・ゆうべはずいぶんとご挨拶だったわね。どうしたの? 気に入らなかったの?・・・・わたしは怒ってないわ。あなたは好きなようにしていいの。でもただ一つだけ。・・・』
 テープにはやや間があった。次の一言が言い出せなかったようだ。
 『・・・・何でもないわ。・・・・帰ったら電話してね。忘れないで。』
 シュガーはもう嫌になっていた。
 『言うことをきかない飼い犬(ペット)が、かえって可愛いってやつだ。』
 ベッドにひっくりかえったシュガーは、やたらクッキーのことが気になり始めていた。冷房をかけずにいたので、じっとり汗ばんでいたが、一向に気にならなかった。
 その夜、シュガーはニックとダウンタウンの『ペペ』でトルティージャに食らいついていた。口いっぱいにしたニックが喋りまくっていた。
 「で?・・・・・ジョイスはどうだった? She wen give you da big lomi?(たっぷりもみもみしてくれたか) あん?」
 シュガーはその言い方に眉をひそめた。
 「なんだよ、その顔。彼女は誰とだって寝るのさ。」
 シュガーはげんなりした。
 「I owe you money or what?(なんか、文句あっか)」
 ニックはからんだ。
 「いやべつに。」
 「摩耶のやつ、とうとう金が底を尽きやがった。」
 「車はどうした?」
 「買ってくれたよ。」
 「パパにカネを送ってもらったのか?」
 「そういうこと。シボレー・カマロの新車だぜ。」
 「どうせなら、フェラーリにしてもらえば良かったのに。」
 シュガーは冷ややかに言った。
 「あとが困るじゃないか。パーツ代でこっちが干上がっちゃうからさ。まあ、カマロで上等だよ。」
 「どうするんだ彼女? 用済みかい。」
 「さあね。泊めてくれってしつこいんだ。」
 「ホテル代もないのか。」
 「そうらしい。」
 「パパに送ってもらえばいい。」
 「喧嘩したらしい。本当は東京に婚約者もいるみたいだしな。複雑だよ。」
 「それでおまえは機嫌が悪いんだな。」
 「いろいろとね。そうそう、クッキーが来たぜ。」
 「おまえのタンタラスの家にか?」
 「ああ。シュガーを探してるって電話があったからさ。カイルアのアパートでおまえを待っていたらしい。俺はてっきりおまえが家へ来るものだと思ったから、クッキーを呼んだんだ。そしたら、彼女、パーティ見てヒステリーみたいに飛び出していっちゃったよ。Maybe she was in a really good mood(たぶん生理だったんじゃねえの?) 生娘でもあるまいによ。大げさなことだぜ。」
 シュガーはため息をついた。 
 「あいつは生娘だよ。」
 ニックは思い切り吹き出した。
 「冗談じゃねえ。ガキが一人いるじゃんかよ。Undesirable kid(望まれざる子)がさ。」
 「?」
 シュガーは目が点になった。ニックは指についたケチャップをナプキンでふき取りながら上目づかいにシュガーを見た。
 「なんだ、知らなかったのか。 You going pressure out?(がっかりした?)」
 シュガーは気落ちはしなかったが、意外だった。
 「ハイ・スクールのときにさ、引っかかったんだ。」
 「どこのやつ?」
 「ロング・ビーチから来たサーファー連中らしい。」
 「おまえみたいな連中か。」
 「人聞き悪いね。俺は孕ませるようなヘマはしない。あいつの姉貴とセットでひっかかったんだ。あげくの果てに二人ともいっぺんに、五、六人で輪姦(まわ)されたらしい。姉貴のほうは妊娠しないで済んだけどな。恥ずかしくて黙ってたんだな。そしたらクッキーの腹がデカくなっちゃったってわけだ。馬鹿だな、おまえ。ひどい顔してるぞ。She wop your jow.(いっぱい食わされたな。)」
 シュガーはもうニックを相手にしていなかった。ただ急に食欲がなくなってしまったのだ。ニックは思い出したように、クッキーが投げ捨てていったカイルアのアパートの鍵をテーブルの上にジャラリとおいた。シュガーは黙ってそれを手にとると立ち上がった。
 「もう行くのか?」
 「おまえは仕事だろ?」
 「いいねえ、囲われ者は。」
 「もう違う。」
 「へえ?」
 シュガーは塞がるような思いで店を出た。がさついたダウンタウン。ふだんは食欲をそそるレストランから流れてくる匂いも、今のシュガーには思わず吐きたくなるようなものだった。はやくバイクの排気煙を吸い込みたかったくらいだ。なにもかも止めてしまいたくなるような衝動がこみ上げてきた。色気のないダウンタウンの明かりがことさら安っぽい。
 バイクのかかりが、やけに悪い夜だった。

 日一日と大会は近づいてきた。クッキーからはいっこうに連絡がなかった。
 噂が耳に入るようになった。それまでどうでもいいことだったが、妙に噂に注意がいくのだ。クッキーの姉のことだったが、どうやら今はワイキキで体を売っているらしい。皮肉なものだった。幸いにも子供のできなかった姉のほうがその後の成り行きは哀しいものがある。一番のお得意は日本人。やはり、日本の仲介業者がいて、なかには修学旅行の高校生や中学生まで客にとっているらしい。そういう連中が、ワンショット二万円で褐色の花を摘み取っていく。
 シュガーは思い切ってアロハ・スタジアムのスワップ・ミートへ出かけた。
 小物、アクセサリー、家具、Tシャツ、サーフ・ボード、アンティークまでありとあらゆるものが、青空市場で売られている。以前一度見かけたものがまだそこにあるか、シュガーにも自信はなかった。別に時間に追われているわけではなかったが、気ばかりが急いていた。水曜の午前中。品数は多く、人の出も比較的少ないはずだった。ところがシュガーとしたことが、アロハ・スタジアムの方は土日しか開いてないのをすっかり忘れていた。水曜も開いてるのはカム・ドライヴインのほうだった。この無駄足は、まるでとんでもない取り返しのないような気分にさせた。おまけにやけに熱い日で、体中から汗がしたたり落ちるのだ。シュガーはいったんヘルメットを脱ぎ、額にバンダナを巻いた。気を取り直して、けっきょくアラモアナ・ショッピングセンターに飛び込んだ。そしてその足でカネオヘにバイクを走らせるのだった。
 山あいに近づくとトタン屋根や安物の板を寄せ集めたようなバラックが点在している。一番奥まったところにはクリーム色の塗料のはげた安普請が建っている。凹凸のあるアスファルトに注意しながら、シュガーは土の露出した庭先へバイクを乗り入れた。静けさの中でホーンが鳴り響いた。連音のホーンはすぐシュガーのバイクだとわかるはずだ。隣の家から中年の太ったポリネシアンの女が顔をのぞかせた。真っ黒な子供たちが遠巻きにこの外人の様子をうかがっていた。カーテンが少し揺れたが、クッキーの顔は見えなかった。
 シュガーはエンジンを切ったまま待っていた。こんなに長い時間、女を待ったことがない。たった数分が何時間にも思えるほどだった。日差しがちょうど真上にさしかかる。ヘルメットを外すと、堰を切ったように汗が首筋に流れ落ちた。バンダナもまるで効果がなかった。
 雑然とした低木がむさくるしい。風も止んでいた。鶏や犬の鳴き声がそらぞらしい。部落の連中が一人、また一人と小口や小屋の陰からシュガーをうかがい始めた。視線が痛い。とりわけこの日はそうだった。待ち続けるということをとうの昔に忘れていた男にとって、それは苦痛以外のなにものでもなかった。それでも待たなければいけない。むしろ待ちたかったというほうが正しい。
 やがて木戸が開いて、クッキーが出てきた。洗いざらしのパオレを着た彼女は、投げやりな感じのまま近寄ってきた。責めるでもなく、何かを期待するでもなく、むしろ力のない表情が切なかった。
 シュガーはさっきアラモアナで買い求めた銀製のイルカのペンダント・ヘッドをジーンズのポケットから取り出した。そして言いにくそうに口を開いた。
 「これ・・・・・今日、誕生日だったろ・・・・」
 クッキーはそれを受け取ると、かすかに唇を動かした。透き通るようなまなざしが返ってきた。
 シュガーはまだ口ごもっていた。言葉が見つからない。エンジンをかけ、バイクを反転させた。ヘルメットをかぶりなおすと、シュガーは思い出したようにアパートの合鍵をポンとクッキーに放った。やっとの思いで彼は言葉をみつけた。
 「See you there(あとでまた、カイルアで。)・・・・Both of you(二人とも。)・・・・」
 クッキーの大きな瞳がきらりと輝いた。
 「二人とも?」
 「Ya(そう)・・・・Both of you(きみたち二人とも)・・・・」
 シュガーはぎこちなく苦笑いした。クッキーは初めて白い歯を見せた。

 「お金がもうないの。」
 摩耶は開き直ったようにあっさり言って長い髪を掻きあげた。
 ホテル・サーフライダーのサンデッキはプールの照り返しを受けて眩しかった。
 ニックは寝不足の顔を指で押さえて投げやりな態度をとった。
 「それで、どうするんだい?」
 「バニアンにはもういられないわ。あなたのお家に泊めて、お願い。」
 「女といっしょに棲みたくない。」
 「わたしたち結婚するのよ。」
 「よく考えないとね。」
 「いまさら、なにを考えるっていうの?」
 摩耶のなじるような目つきとは裏腹に、その声は悲しい響きをしていた。
 ニックはペリエで喉を潤すと肩肘をついて言った。
 「パパにおカネ、また送ってもらったら?」
 「怒ってるわ。いい加減にしろって。」
 「そうだろうね。」
 「正直言うとね、あなたのこと、自信なくなってきたの。シュガーが言ってたわ。あなたが男と暮らしてるって。」
 ニックはやれやれといった表情になった。
 「迷惑なのはわかってるけど、お家に泊めて。土曜日には東京に帰るから。」
 「また来てくれる?」
 「そういうのって、ずるい。」
 「愛してるんだ。」
 「やめて。」
 摩耶は目を潤ませた。まさに悲劇のヒロインになりきっていた。ニックは真面目なまなざしで彼女を見つめた。テーブル・パラソル越しにニックの手が摩耶の手をひっかりと握った。稀代の詐欺師とでもいおうか、それともここまでおめでたい女の馬鹿さ加減とでもいおうか。摩耶の濃く美しい眉、薄い唇、大きな切れ長の瞳。ほどよく肉のついた鼻梁。・・・・ニックはこれで終わるのも惜しいとは思いながら、けっきょくは金ヅルでない以上、利用価値もないと割り切るよりしかたがなかった。ただ最後にもう一度引っ張って、日本からカネを貢がせる試みはやってみる価値がある。何もここで敢えて自分から関係を断つことはない。
 「今から家にくる?」
 摩耶の目からみるみる涙が溢れ出た。
 「いいの?」
 「ほかならない君だもの・・・・ね。」
 ニックはウィンクしてみせた。
 摩耶はもうニックのためなら、どうなってもいいとさえ思うようになっていた。
 二人は一度バニアンに寄って、チェックアウトした。高価なバッグやスーツケースをニックのカマロに積み込んだ。あの塗料の剥げたMokmobileは安値でサーフ仲間に売りつけた。摩耶の身勝手な夢や幸せの代償がこのカマロだった。
 車を運転しながら、ニックが言った。
 「このカマロも、君の好意とは言え、手放さなければいけないかも知れないな。残念だよ。」
 「どうして?」
 まだ目を赤く泣きはらしていた摩耶が驚いた。声もうわずったままだった。
 「俺のどうしようもない家族のことは言ったろ?」
 「お父さんと弟でしょ?」
 「そう。縁を切るにはこれしかない。カネで解決する。きみといっしょになるなら、彼らは切るしかないよ。きみの負担が大きいからね。きみだけの俺になりたいんだ。このへんできっちりカタをつけておくいい機会だよ。」
 摩耶はもう本気になっていた。
 「わたし、なんとかする。東京に帰ったら必ずおカネつくるわ。」
 思いつめた女のまなざしは、自分が男の役に立っているということに異常な興奮を覚えていた。
 「今までみたいにきみを頼ってばかりじゃいけないな。」
 摩耶は男の肩にもたれた。
 「いいの。なんでも言って。わたし、力になりたいの。・・・・・」
 ニックは内心、シラケていた。こんなものか、と思っていた。
 信号が赤のとき、ニックは摩耶を抱き寄せて、濃厚なキスをした。摩耶は力が抜けていくような幸福感で胸がいっぱいだった。
 タンタラスの丘へ向かう道に入ると、ニックの家はもうすぐだった。あのクッキーがすっ飛んでしまったあのパーティの家だ。 
 ニックはさっさと荷物を抱え、家のドアを開けた。女房気取りでついてきた摩耶の目の前に現れたのは、シャワーのあとタオルを巻いただけのファルンだった。摩耶は男だとわかっていながら、あまりにも清楚な美貌に一瞬たじろいだ。はしゃぎながら飛び出してきたファルンの顔からも、笑みが消えた。
 ニックの脳裏にはいくたびか迎えたファルンとの凄絶な夜が蘇ってくる。『わたしを女にしてくれる?』 ファルンはよくそう言った。
 ニックはふと我に返った。そのファルンが冷たい目で二人を見つめていた。そしてやがてため息をついた。
 「もう・・・わたしは用なしね。・・・・」
 ニックは弁解しなかった。
 ファルンは黙って服を引っかけて、手荷物をまとめ、奥の部屋から出てきた。二人を通りすぎるとき、ニックの顔を間近に見すえてささやいた。
 「あんたって、不潔。」
 ちらっと摩耶を見たファルンのきれいな顔立ちは、もう男のそれに戻っていた。

 大会の前日、シュガーは最終調整をしにパイプ・ビーチへ出かけた。波高は十フィート。コンディションは絶好調だった。この調子で翌日は今日みたいなビッグウェイブが立つことを祈るばかりだった。
 ジョイスと会う約束をしていたが、人の出が多くて紛れてしまった。 
 昼ごろ、シュガーはワイメア・ビーチの『パライソ』を訪れた。ジョイスの父親が一人でボードにワックスをかけていた。 
 「ジョイスは?」
 シュガーはぶっきらぼうに父親に声をかけた。父親は丸眼鏡越しにシュガーを見上げると、また何事もなかったように作業を続けた。
 「さて、どこ行ったものか。」
 「エディのとこだね?」
 老人はびくっとして作業の手を止めた。
 「なあんだ・・・デートに行っちゃったのか。」
 シュガーはがっかりして椅子に腰を下ろした。煙草に火をつけて、今日初めての一服を肺の中に充満させた。
 老人は再びワックスをかけながら、独り言のように言った。
 「明日の大会は途中で中止になる。・・・・」
 「なんでさ? エディも波が荒いって言ってたな。」
 「あの男にはわかるんだよ。」
 「どうして?」
 「本能さ。」
 「大会にはエディも出るみたいだよ。そんな口ぶりだったけどな。」
 「そんなはずはない。」
 老人はボードをひっくり返した。
 「あれは・・・あんた、知ってるだろ? あの男は表を大っぴらに歩けないんだ。」
 「脱走兵だからな。おまけに人殺しときてる。」
 シュガーは煙を気持ち要さそうに吐き出した。
 「もし大会に出るっていうのが本当なら、・・・・もう終わりが近いんだろう。自分でわかってるのさ。波が高いっていうのはそういうことだ。」
 「なにが終わるんだ?」
 「生命がさ。・・・・モルヒネでこのところずっと痛みを抑えているが、もう末期だ。」
 「病気なのか?」
 「白血病さ。・・・・・癌だな、つまり。」
 シュガーは長くなった煙草の灰が落ちるのも気づかなかった。
 老人はひときわ力を込めてワックスをかけ始めた。
 「あの男が明日海に入ったら、二度と帰ってこんだろうよ。好きなサーフィンで死にたいんだろうな。灰色の軍病院よりはな、・・・それでいいのさ。」
 シュガーは声もなくただ黙りこんでいた。どうしようもなく沈んでいく。ワックスをかける乾いた音だけが飾り気のないショップの中に響いていた。・・・・
 シュガーは『バイパス』を出たあと、明日のエントリー・リストを入手した。自分は八番目に載っていたが、エディという名はどこにも見当たらなかった。
 帰りに、ビーチでニックに出くわした。ニックはこれから海に入るところだった。摩耶は、数日間タンタラスの家で、ニックに愛された後、後ろ髪を引かれるような思いで帰国したらしい。
 「よう・・・・クッキーが、子供までおまえのアパートに連れて行けないってずいぶん悩んでたぜ。大変だな、いっぺんに家族をしょいこんじまって。」
 「馬鹿言え。いっしょに棲もうなんて言っちゃいない。遊びにおいで、っていう意味でいったんだ。」
 「へへへ。あっちはそうは思ってないようだぜ。ところで、いっしょになるなら、サーフィンだけは止めて欲しいって、彼女言ってたぜ。おまえに言えないことを、全部こっちに言ってくる。迷惑きわまりない。」
 「サーファーには、悪い思い出があるからさ。」
 「違うよ。本当に心配してるんだ。この前もプロが一人、ノースの波に巻かれて、珊瑚礁の裂け目に頭から突っ込んでさ、お陀仏になったろう?」
 「止めるかもしれない。」
 「なんだって?」
 「明日でね。」
 「ほんとにわからない奴だな。」
 狐につままれたような顔をしているニックをおいて、シュガーはワイメアを後にした。
 カイルアのアパートに戻ると、枕の上にクッキーからの手紙が置いてあった。さっきまで来ていたらしい。中には一葉の写真も同封されていた。頬杖をついて長くウェイブした黒髪を肩まで垂らした彼女が、いたずらっぽくシュガーを見つめている。シュガーはこの一葉が気に入った。子供の写真は入っていなかった。
 手紙の方にはこう書かれていた。

 Oh, thanks God! You’re back to me, again. I don’t know how to express my feelings how happy I am to have you back. I cannot believe it, but it happened. I never wish anymore in my life but you  whom I really love most. I’ll always be with you, even there’s a distance that keeps us apart. My love will be forever no matter how long we have to wait. I miss the times of your touch, your kisses, your embrace, your whispers to my ears, the way you tickle me , the way you stare at me and most of all, the words you said “Both of you”・・・I wish you a good luck tomorrow. And please be back as usual. I’ll wait for you here. Remember you’re not alone.
Love,
Cookie


 シュガーには精神の高揚はなかった。スタンダールが言ったような愛の結晶作用は微塵もなかった。優しい感情とは裏腹に、それは不思議なことだった。クッキーと自分とのあいだに横たわる空間を埋めるさまざまな思いは山ほどあったが、かえって以前よりずっと彼女を近くに感じていたのは確かだった。愛というような一言で片付けられるほど、現実はなまやさしいものではなかった。言葉を捜しあぐねている自分のわだかまりが、クッキーに届くだろうか? それとも彼女のほうがもっとずっと先へ行ってしまっているのかもしれない。シュガーは自分の中で大きく変わろうとしているものを手探りでつかもうとしていた。

 最後の瞬間はいつも無限への扉を開く。
 その日、パイプには憲兵と州警察がうんざりするほど出ていた。私服が多かったが、シュガーには人目でわかった。誰ともなく噂が出回っていたのだろう。みな、一人の男を待ち構えているのだ。
 波はエディの予言通り大荒れで、のきなみ十五フィートはあった。それでも大会は開始され、波が次第に騰勢を強める中で、シュガーは十八フィートの巨大なチューブをパーフェクトにこなして一躍ヒーローになった。しかし、その後三人目くらいになると、波が安易に散り始めたため、いったん大会は中断された。上空の雲は真っ黒となり、海は濃い灰色に凄んでいた。
 ニックが言った。
 「これじゃあどうしようもない。エントリーしないでよかったよ。殺されちまう。」
 シュガーはほとんど聞いてなかった。熱いコーヒーを飲みながら波の様子を見ていた。ビーチの四方に目をくばってエディの姿を捜し求めた。しかし一向にそれらしい男は現れなかった。ジョイスの姿も見えない。
 「きっと来るさ。・・・」
 シュガーは低い声でつぶやいた。
 「誰がだ?
 「・・・・・・」

 まったく水平線が見えなくなった。波は二十五フィートに達していた。参集者の中にはもうあきらめて返り支度をする者すらでてきた。わずかに雨が降り始め、これが合図のようにどっと人垣が崩れた。大会中止のアナウンスがビーチに流れた。
 そのとき、人の群れをかきわけるように赤いボードが一直線に海に向けて走りぬけていった。あたりの憲兵や州警察が大騒ぎで彼を追ったが、赤いボードはたちまちカレントに乗ってしまった。やにわにシュガーはコーヒー・カップを投げ捨ててボードをつかんだ。そして一目散に砂浜を抜けて海へ飛び込んだ。ニックが制止する暇もなかった。
 シュガーは十二ヤードほど先にパドリングしているエディに迫った。一発目の砕ける波をエディはタイミングよくドルフィン・スルーしていった。シュガーはもろにかぶりそうになったが、からくも巻かれずに済んだ。そのかわり二十ヤードは離された。
 ビーチでは捕り物にならず、制服たちが立ち往生してがなりたてていた。観衆もこの騒ぎに興奮して、一帯は歓声と野次に包まれていた。
 二発目の真っ黒な壁をシュガーは必死でスルーした。なんとかエディから十ヤードの距離にたどりついた。二人は一番安定したポイントに来ていた。
 エディはちらっとこちらを振り返り、シュガーに気がつくと笑いながら、親指を突き立ててみせた。真っ白な歯が印象的だ。これ以上透明な笑顔をシュガーは今まで見たことがないと思った。
 巨大なうねりがボードを持ち上げる。たらふく潮水を飲まされたシュガーは息をつくのがやっとだった。
 エディがボードを反転させようとしていた。シュガーはそれにならった。するとあっというまに水の壁は二人を三十フィートに押し上げていった。シュガーは笑いが止まらないほど興奮していた。エディの叫ぶ声が聞こえた。
 「Good luck・・・・Asshole!」
 エディも波の頂点に立って笑っていた。シュガーは大声で怒鳴った。
 「Ya!・・・・You, too!・・・・Mother-fucker!」
 気が遠くなるような一瞬の出来事だった。シュガーの声が届いたかどうかもわからない。エディを見たのはそれが最後となったからだ。
 波は加速度を増していく。まるで摩天楼が倒れこむように、重力の中心点へ体を引きずっていく。シュガーが、ボードに手ごたえがなくなったと思った途端、あっというまに強烈な瀑布の中に叩き落とされた。あとは真っ白な泡が世界中に広がり、水の途方もない圧力の中できりもみしながら押し流されていく。二個ほど珊瑚礁か岩礁に接触した。あとは痛みもなくただ息が苦しいだけだった。そして何も覚えていなかった。・・・・・
 気がついたときには、シュガーは浅瀬で五、六人の男たちに介抱されていた。ビーチで横になったシュガーは足や背中から出血していたが、信じられないくらいに傷は浅かった。そのかわり、ウェットスーツはもう使いものにならないくらい裂けまくっていた。
 何度も水を吐いたシュガーはもう体に何の力も残っていないことを思い知った。
 ニックがホット・チョコレートを持ってきた。
 「脅かすなよ、シュガー。・・・・・これはもう立派な犯罪だぜ。」
 心なしか、あのニックの目がうるんでいた。
 シュガーはガタガタ震える両手でカップを支えるとニックにたずねた。
 「もう一人は?」
 「おまえがドロップした波を乗り切ったあと、もう一本、新手のデカいのを取りに行ったよ。」
 「さすがだね。」
 「しかし二度目には運が尽きたらしい。三十四フィートはあった。これは記録だぜ。He got drilled(やっこさん、巻かれちまったよ)・・・今頃はjam up(めちゃくちゃになってる)だろうよ。」
 「死体は上がったのかい?」
 「無理だよ。この波だ。」
 制服たちは無線で交信しながらエディの遺体を捜索していた。どこかに打ち上げられるのは時間の問題だった。シュガーはもう何も考えることができなかった。
 午後、手当てを受けた後、シュガーは取り調べを受けた。なにも関係がないとわかるとすぐに解放された。
 シュガーは少し休むと、バイクでワイメアの『バイパス』に寄ってみた。表のガラス戸がロックされ、『Closed』のタグがかかっていた。ジョイスの名を呼びながら、シュガーは裏へ回った。木戸が開いていた。シュガーはショップに入ってみたが、父親もジョイスもそこにはいなかった。ただ機材が置いてある小さな収納部屋に、あの赤いボードが立てかけてあった。傷を相当受けていたものの、まだ十分しっかりしていた。そしてワックスがたくさんの水を弾いていた。今しがたここに置かれたに違いない。いつの間にこんなものを抱えて戻ってきていたのだろう? シュガーは手でボードに触れているうちに、わけもなく笑いだしてしまった。ほっとした気持ちと、無性に爽快な感じがめちゃくちゃに混じりあって、声をあげて笑い出した。もちろん残された体力でエディがどこまで逃げ切れるのか、誰にもわかりはしない。ただこんなところで制服に捕まって、灰色の軍病院で終わる男ではない。海が待っている。死の淵からひとかけらの生命を掠め盗ろうとしている男の姿が、シュガーの心を離さなかった。
 『バイパス』までシュガーを捜しにきたニックが、いっしょにランチをとろうと言ったが、シュガーは断った。
 「クッキーが待ってる。・・・・・彼女のことだ。食事もしないで待ってるよ。」
 ニックは首をすくめた。
 「ご馳走さまだね。」
 ノース・ショアを後にしたシュガーはバイクで北海岸のカム・ハイウェイをカイルアに向かった。午前中の悪天候がまるでウソのように晴れ間が広がってきた。濡れたアスファルトは生まれたばかりの日差しに蒸気を立てていた。遠くには虹が見える。カイルアのあたりだ。
 『そう言えば、・・・・・締め切りまであと一ヶ月だったな。』
 我ながら、唐突に卒論のことが思い出された。『徹夜が続きそうだ。』と、不思議なくらい素直に思っていた。
 ちぎれた雲に琥珀色をした光の粒子が染まっていく。それが延々と続く椰子の並木に音もなく結晶していく。シュガーはその虹の様子を、クッキーにも見せてやりたかった。


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