応募小説
応募小説

シュガー <2>
                          アギレ

 バニヤンのコンドミニアムにつくと、再び肉体労働が始まった。ナタリーは外で待っていると言う。シュガーは泥酔女を背負うようにしていった。モップをかけていた白人の従業員が手を休めて笑っていた。
 コンドミニアムは女一人にしては身の置き場に困るくらい広い。このテの女たちはキッチンをけっして使わない。それなら一般のホテルでもよさそうなものだが、やはりハワイに慣れているというためには、どうしてもコンドミニアムでなければならないらしい。
 シュガーは彼女をベッドに投げ出すと、すぐ立ち去ろうとした。ふと振り返ったとき、彼女の体にぴったり張り付いたようなタイト・ドレスが気になり、楽にしてやろうと、身ぐるみを全部剥がした。泥酔女はされるがままに裸にされ、みっともないほどの大股開きでひっくり返った。フーっとため息をついたシュガーは、マグロになった女に毛布をかけ、ようやく部屋を退散しようとした。
 そのとき女は不安そうな声をあげた。
 「帰っちゃうの?」
 「もう用はないからね。おやすみ。」
 「しないの?」
 「他人の女は盗らない。」
 「古臭いナ。」
 「きみのほうがよっぽど臭い。」
 女は初めて笑った。
 「ほんとうはね、磨耶(マヤ)っていうの。」
 「そのほうがいいよ。ゴヤの絵みたいだ。今のきみは。」
 「あれは、裸のマハ(・・・・)でしょ。」
 「よくわかってるじゃないか。」
 「前にも言われたことあるもの。」
 シュガーは苦笑した。
 「してもいいよ。」
 「けっこう。」
 「じゃ、ニックのこと教えて。」
 「さっきの二人はただのお客さんだよ。心配いらない。きみはニックのお客さんじゃないだろう。」
 「わたしのこと欲しくないの?」
 摩耶は毛布を開いた。シュガーは呆れた顔をして壁を拳で叩くと、やおらベッドの横に戻ってきた。
 「やっぱり欲しいんだ?」
 摩耶はほくそ笑んだ。力無げな顔が青白い。唇も乾いている。
 「その気にさせてみな。」
 摩耶は目を閉じて、ゆっくりと自分一人で始めた。シュガーがじっとその様子を見ている。右手の指は行ったり来たり。円を描いたり。やがて左手は左の胸を弄びだす。
 「こういうの・・・・見たことある?」
 摩耶は、一人で気持ちが入り始めている。
 「ニックの家に行ったことないのか?」
 シュガーは醒めた目で摩耶の仕草を眺めながら聞いた。その拍子に三分の一ほどになった煙草の灰がカーペットに落ちた。
 摩耶の背中は弓なりになり、中指が出たり入ったりしている。
 「どうして? ・・・・あの人、彼女でもいるの?」
 摩耶は目を閉じたまま、息遣いが荒くなっていた。
 シュガーは答えなかった。愚問だった。
 「ねえ、きて。・・・・はやくして。」
 シュガーはほとんどなくなってきた煙草を消すと、無造作に立ち上がった。
 「女はいない。」
 摩耶は安心したように微笑んだ。
 「よかった。・・・・ねえ、いいよ。して。お願い。・・・」
 額に汗をかいていた彼女はもう我慢できなかった。
 「男がいるんだ。女じゃない。・・・・・おれはもう行くよ。」
 摩耶の指はぴたりと止まった。そして目が点になっていた。
 「どういうこと?」
 「つまり、・・・そういうことだよ。じゃあね。」
 シュガーは呆気にとられている摩耶をそのままに、さっさと部屋を出た。エレベーターを待っている間、摩耶の部屋から物が壊れるような、大きな物音が聞こえてきた。今夜は荒れそうだ。

 バニヤンを出ると、ナタリーのコルベットはワイキキからR72沿いに東へ向かった。
 「どうして電話してくれなかったの?」
 「別に。用がないから。」
 「ご挨拶ね。・・・もうお店に戻らなくていいんでしょ?」
 「もうとっくに車は反対のほうに走ってるじゃない。」
 「一応、聞いてみたの。」
 「今日はもういいって言われた。」
 「やっぱり。」
 「そう。」
 「いいところがあるの。」
 「いいところね。」
 「そう。とっても。気に入るかしら。」
 「もっとはっきり言ったら? Get a chance, boy!(つきあわない?)とかさ。」
 「品がないわね。」
 「おれは品がない。」
 「嫌なの?」
 「とんでもない。」
 「よかった。」・・・・
夜が明けようとしていた。マウナロアの海岸線が見える。星が死にそうな色をして椰子の並木の間で悲鳴をあげていた。ダイヤモンド・ヘッドが濃い紫色に浮かびあがる。
 「何をしたいの、シュガー。」
 「サーフィン。」
 「ずっと?」
 「たぶん。」
 「仕事は?」
 「労働に価値があるとは思えない。」
 「倒錯した気負いみたいね。」
 「何とでも。やり遂げることにぜんぜん誇りを感じられない。」
 「若いのに。」
 「すぐ歳をとるさ。」
 「それでもいいの?」
 「そのとき考える。」
 「ステディな彼女、いないの?」
 「勝手に押しかけてくる()なら一人いる。ポリネシアンだけどね。」
 「で、あなたは?」
 シュガーはただ首を横に振った。
 「可哀想に、その娘。ただ体だけ?」
 「おれは抱いてない。」
 「でもそのくせほかのどうでもいい()は、ジャンク・フードみたいに食べ散らかすのね。」
 「そうかな。ただ、いい加減なだけだよ。」
 「それでも自分だけは特別だと思ってるんでしょ。」
 ナタリーは意地悪そうに笑った。痛いところを衝かれたわりに、シュガーは悪い気がしなかった。ずっと年上の女だからかもしれない。
 コルベットはハワイカイに入った。瀟洒な住宅街を抜けて、湾が目の前に開ける。
 ナタリーはヨット・ハーバーの一角に車を向けた。そしてライトアップされた真っ白なコロニアル風の家へ乗り入れた。
 「ここ?」
 「そう。」
 「気に入らない?」
 「そんなことはないよ。」
 「入って。」
 ナタリーは車を降りるとさっさと家へ入っていった。広いリビングを通ると、そのままヨット・ハーバーの桟橋に出ることができる。二階建てとはいっても、階上に二間ある寝室はロフト感覚に近い。材質はかなり高級でマホガニーがふんだんに使われている。白壁が涼しげな風情だ。インテリア・デザイナーらしく、さり気ないところにチャーム・ポイントが設けられている。ドライ・フラワーの類は一切なく、手入れの行き届いた生花が新鮮な彩りを放っている。シュガーはホッと素直な気持ちになれた。
 ヴェランダに出ると、海が生命を取り戻そうとしていた。原色の青が存在を主張し始めていた。 
 ナタリーは骨太の、しかし細い体をシュガーに寄せてきた。イタリア系の恋は苦くて甘い味がする。・・・・・・・
 ベッドの中でナタリーは優しかった。別に男に飢えているわけでもなさそうだ。不思議なくらい長く気持ちのよい時間が過ぎていった。朝日が眩しい潮風に乗ってレースのカーテンに泳ぐころ、ナタリーも声をあげた。・・・・・
 エアコンをつけ忘れていたので、二人ともじっとり汗ばんでいた。日焼けしたシュガーの厚い胸に顔を寄せていたナタリーが口を開いた。
 「プロになりたいの?」
 「仕事になったら大変だよ。アマでいい。」
 「不思議ね。こんな日本人見たことないわ。」
 「男の理想はしょせん女のヒモになることだって、誰かが言ってた。」
 ナタリーがアハハと笑い出した。
 「はっきりしてるわね。・・・きっとあなた自身に対して、とても無責任なのね。いったん無責任になってしまうと、成熟していくことがばかばかしくなってくるのよ。ピーターパンってやつね。」
 「お好きなように。」
 「わたしがあなたの分までその責任を引き受けてあげようかしら。」
 「ありがたいね。待ちに待ったパトロンの登場かい?」
 「そうね。・・・それにしても、あなたは変ってる。自分を感じ取る力が欠けているのかも。だから人にも優しくなれないんだわ。」
 ナタリーの低い静かなおしゃべりを聴いているうちに、シュガーはなんとはなしに切ない自分の呼吸を感じていた。なにをしていいのかわからない欲求だけが体の中で湧き上がる自分を身に染みていた。年上の女がシュガーの上体を抱きしめる。こんな風に女に抱かれたことはない。意味もなく涙が流れた。『そんな馬鹿な。』一筋だけすうっと頬をつたうと、ナタリーがそれを唇で(すく)った。シュガーはやたらに日が眩しくてならなかった。
 
その日、シュガーはピザの宅配をあっさりクビになった。ジーンズのポケットにはナタリーがくれた百ドル札が三十枚、くしゃくしゃになって入っていた。
 カイルアのアパートはいつものようにがらんとしていた。そもそも身の回り品というものが少ない。塗料の剥げ落ちた壁は安っぽいクリーム色で、ただ空しく広がっているばかりだ。雑誌やクアーズの缶がそこらじゅうに転がっていた。
 クッキーから電話がはいった。早引けしたからこれから来るというのだ。ずいぶん心配している様子だ。シュガーはそれがかえってうるさかった。『男は勝手だ。』を自分でも思いながら、『来るな』ともいえない。
 午後、ふと目が醒めると、クッキーがキッチンを片付けたり、掃除をしたり、山ほど積まれた衣類を洗濯したりしていた。シュガーはただぼんやりして横になったまま、窓に弾ける日の光を眺めていた。 ヴェランダでは間に合わず、クッキーは部屋の中にまでロープを張り渡して洗濯物を干していた。
 「何を見てるの?」
 クッキーはTシャツを干しながら、ちらっとシュガーのほうを見て言った。
 「Checking the sets(波の具合を見てるのさ)・・・・・・」
 シュガーはゆっくりベッドに起き上がった。クッキーが物干しの手を止めて、クアーズを一缶投げて寄越した。
 「どこへ行ってたの、今朝? パライソに連絡もしないで。」
 シュガーは鬱陶しかった。口もききたくなかったのだ。このまましばらく余韻のようなものに浸っていたい。彼はクアーズを半分ほど一気に飲んだ。
 「ハワイカイ。」
 「ふうん。」
 クッキーはてきぱきと仕事を片付けていた。その甲斐甲斐しさはともかくとして、とどまるところを知らないおしゃべりに、シュガーはいつにも増して不快感を覚えた。黙っていたら疑われるということにさえ思い及ばず、ただクッキーが話しかけるのを聞き流していた。
 欲しいものはそういうものじゃない。ナタリーと一緒にいた数時間が優しく思い出された。何か大きいものの中で素っ裸にされたような恥ずかしさと安心感が、体にまだ残っていた。
 クッキーはそんな様子におかまいなく喋り続けていた。
「あなたの誕生日はまだ先ね。」
「忘れたよ。」
 「日本に帰りたいとは思わない?」
 「毎晩帰ってるさ。」
 「もうすぐクリスマスね。」
 「・・・・・・・・」
 「わたしの誕生日まであと二週間よ。」
 「・・・・・・・・」
 それがどうしたという感じだった。そう言えばクッキーは銀製のイルカのペンダントヘッドが欲しいと以前言っていたのを、シュガーは意味も無く思い出した。
 クッキーはつまらなそうに立ち上がると、バケット・タイプのバッグを肩に引っ掛けた。
 シュガーはベッドに座りこんだまま、初めて自分からクッキーに話かけた。
 「その中のjunks(もの)、いったい何だい? やたら沢山入ってるよな、いつも。」
 クッキーは機嫌を取り戻したようにえくぼをつくった。
 「あなたの夢。」
 「俺の?」
 「波の音が聞こえるわ。」
 「・・・・・・・・・」
 クッキーは近寄ってきて、すばやくシュガーにキスすると、ケラケラ笑いながら鼻歌まじりに颯爽と午後の光の中へ飛び出していった。
 夢を見たくても見方がわからない。生命を削って何度も痛みながら、ひとつひとつ夢の見方を覚えていくだけの勇気もない。ただ湧き上がる無方位の欲望に、なすすべもなく襲われていた。

 ニックがオフの日、シュガーは二人でワイメアの波にオンした。
 北東から吹く貿易風は鳴りをひそめ、南西から湿気を帯びたコナ・ウィンドがたち始めていた。
 ノース・ショアには人が多かった。十一月中旬から十二月にかけて、その年のAli'i(アリイ)を選ぶサーフィン大会が目白押しだ。そのための最終調整もあるのだろう。プロ級のサーファーが多い。
 シュガーがハワイに来たばかりの頃、当初は慣れなかったロング・ボードにもやがて馴染んだ。グーフィーとレギュラーも、自在になった。マノアあたりのサーフィン仲間が、トーナメントに出てみたら、というほどシュガーの腕はみるみる上達していった。もちろん本人はプロになれるなど想いもよらなかったし、その気は毛頭なかった。自分の力量がどうのこうのというのではない。ただ、職業というものがどうしても受容できないのだ。その点、シュガーは驚くほど執着というものがない。ボードもけっして凝ったりはせず、むしろ大切にしているボードほどクラッシュに遭ったり、折れたりするものだと信じていた。
 シュガーの頼りなさは、ちょうど自殺の動機が見つからない人に似ていた。
 銀色の波が八フィートの壁を畳み込むようにして押し寄せていた。ワイメアはパイプのような癖がない。光は濃紺の世界から弾けて空気中に発散していた。
 ニックがよく言っていた。 『その日、最初にドルフィン・スルーをしたときに、水の中でもふつうに息をしているような気分だったら、けっこうその日はイケる。』
スポーツは、いつも失うものがある人のすることだとシュガーは思っていた。だからラグビーはスポーツではなかった。あんな暴力的な、危険なものはけしてプロがやるものではない。だから、アメフトになるのだ。ラグビーは無防備なだけに、殺意に近い格闘技だ。サーフィンはそれの数倍の殺意を感じる。
 二人は思いとどまらせようとする砂を踏んでいた。
「気づいたか?」
 「何が?」
 「二人で来てる。」
 「誰が?」
 「あの晩、お前が振ってくれてさ、おれがいただいたあの二人の日本人女(ニップス)だよ。」
 「二人とも、いっぺんいただいたのか?」
 「いや、実際にはショート・ヘアのほうはスピードやらしたら、涎(よだれ)たらしたまま、She wen radical out.(のびちまったよ)」
 ニックはハワイ特有のピジン英語を多用する。
 「で、もう一人のワンレンのほうはどうだった?」
 「Great(よかったね)・・・to the max(最高だね)。・・・のっけからもうおれのにしゃぶりつきやがった。愛してる、愛してるってそればっかりさ。」
 「いっそ、結婚してやれよ。」
 「冗談じゃない。会ったその晩にひとのペニスにむしゃぶりついて、愛してるなんていう女を女房にしたらどうなるか、おまえだってわかってんだろ?」
 シュガーは苦笑して、ボードを持ち替えた。
 二人は海に飛び込んだ。
 「Unreal!(すっげえ)」
 「Don’t make ass.(ヘマすんなよ。)」
 サンドバーを(かす)めていく太いカレントのうねりに、二人はすぐ乗ることができた。何本かの(スウェル)を超えた。振り返るとビーチが箱庭のように平板な風景を見せていた。目前には大きなうねりが始まっていた。
 「こりゃ、九フィートか?」
 シュガーはやり過ごしたニックを放っておいて、中途半端なポジションのままオンした。そして一気にドロップする。そそり立つ波の腹を真一文字に切り裂いていった。一瞬の気の迷いが最終的には底の浅い珊瑚礁にやられてズタズタになる。青い水晶の壁は自分の影を照り返しながら凄まじい音をたてて横に張り出してきた。ショルダーが崩れ始めていた。生気がすうっと離れていくような(しび)れ。ものの十秒が五分にも思えるほど息の長いチューブだった。ボードはマジック・カーペットの急斜面を真横に加速していく。前方出口の空がみるみるうちに小さくなっていく。飛沫はもうシュガーの体を覆うようにその口を閉じようとしていた。世界が砕け始める。背中を何トンという流れが掠めていく。シュガーの息は止まっていた。やがて彼は電光が閃くように屈曲した体を解き放ち、チューブを抜けた。一瞬、目が眩しい太陽に焦げてしまいそうだ。炸裂する波が尾を引いていく。体の心まで、シュガーは海の精を吸い込んだ。・・・・・
 けっきょくニックは散々だった。大切にしていたボードも折ってしまった。ジンクスはやはり生きているらしい。
 早めに上がったシュガーは、もう一本乗るといって新しいボードを抱えてやってきたニックをビーチで待っていた。ニックの言う『もう一本』はたいてい、五、六本になるのが常だ。波は前にもまして大きくなっていた。快感や溶けるような幸福感がいつも疲労のあとに訪れた。そして大切なものは必ず一拍おいてやってくる。いい波を取ろうと悪戦苦闘するニックを待っている間、シュガーはこんな日がずっと続けばいいと思っていた。灰色の雲から零れる午後の光。深く、ウソのないほど青い空。ゆっくりと呼吸する一群の波。砂はいつまでもコナ・ウィンドに笑っている。・・・・
 ニックはよほどツイてなかった。予備のボードもクラッシュしてしまったのだ。本人に怪我がなかっただけマシだった。二人はビーチを後にするとき、『バイパス』というサーフ・ショップに立ち寄った。華僑の親父が手作りのサーフ・ボードを売っている店で、ニックの行き着けだった。
 飾り気のない殺風景な木造のショップは、ペンキも塗ってない。まるで加工場のようだ。眼鏡をした五十がらみの親父がフィンを取り付けている最中だった。油で髪を撫で付けた几帳面そうな男だ。店内にはグッズやアクセサリーの類がなにもない。ゴッチャやマウイ&サンズのようなブランド品は皆無だった。奥の小さな部屋に続く間口にシュガーの目は惹きつけられた。真っ赤なボードが一本、商品とは別に立てかけられていたからだ。見覚えのあるロング・ボード。
 親父はニックの顔を見ると相好をくずした。
 「また折ったな、ニック。」
 「まあね。・・・これ、ずいぶんセンター・フィンが前にズレてるな。」
 「パイプ・ビーチ用だよ。あそこのチューブにはこのほうがいい。」
 親父は取り付けたばかりのボードを拭き始めた。
 シュガーは初めて寄った『バイパス』だったが、人目で気に入った。売らんかなという風情が微塵もない。たぶんここでボードを買い求める客は、ここにしか来ないと思えるような店だった。壁際に立ち並んだボードの一本にワックスをかけている女がいた。親父の娘らしい。奥二重の目がよく似てる。星のような瞳の輝きが印象的だ。どこかで見たような気がしたが、それだけだった。よく焼けた肌が、開けっ放しの窓から飛び込んでくる日差しによく映えていた。セミ・ロングの黒い髪はそれほど痛んでいない。歳の頃は二十四。自分と同じくらいか。彼女はしゃがみこんだままチラッとシュガーを見た。彼女はにこりともしないで、ワックスをかけながら、シュガーに話かけた。
 「大きなチューブに乗ったの、見たわ。」
 「何だ、見てたのか。」
 「素人(アマ)にしてはクールだったわね。上出来だわ。」
 「あんたは?」
 「ジョイス・・・ジョイス・ラム。あなたは日本人?」
 「そう。」
 「ニックはよく来るけど、あなたは見たことないわね。」
 「いつもニックのボードのお下がりを使ってるからね。つまりあれはみんなここのボードだったってわけだ。」
 それだけでシュガーがどんな生活をハワイで送っているかわかるはずだった。
 「あの・・・・赤いボードは?」
 「ああ、あれは売り物じゃないの。」
 「わかってるさ。・・・誰が使ってる?」
 「誰も。・・・どうして?」
 「ああいうのでサーフィンしている男を見たことがある。」
 ジョイスの顔が強張ったような気がした。
 「ちょっと前になるけど、凄い波の日があった。二十フィートはあったかもしれない。あの日、その男は一人でパイプに出ていたんだ。乗り切っても、全然嬉しそうじゃなかった。あんな強烈なサーフィン、見たことがない。」
 「気になるの?」
 「あのくらい上手ければってね。」
 「無理ね。でもあなたは十分上手だわ。ただ・・・・」
 「ただ?」
 「哲学が欠けているだけよ。」
 「哲学?」
 嫌いな言葉だった。
 「そう。」
 「あの男なんだな、やっぱり。君もあの日、パイプにいた。」
 ジョイスは初めて笑いながらウィンクしてみせた。
 「誰なんだい?」
 ジョイスはおどけたように大きな目をひときわ見開いて笑った。
 「せっかちね。海に出ない?」
 「いいね。」
 ジョイスは立ち上がった。
 午後のワイメアは人手が一層多くなっていた。シュガーはショア・ブレイクを抜けて比較的安定したポイントまでパドル・アウトすると、波間に漂いながらジョイスの様子を目でずっと追うことにした。波を待つ必要もなかった。水平線はほとんど姿を見せようとしない。すぐに十五フィート級のうねりがやってきた。道理で、人が多いわりには沖にサーファーが少ないわけだ。ターゲットはとてつもなく広い根を張って盛り上がり始めた。さっき自分がクリアしたチューブどころの話ではない。ジョイスは沖合いでテイクオフするとともにそのチューブに包まれていった。すでに巨大な壁が姿を現していた。波は一様なあり方ではなく、平坦であったり、不自然な隆起をつくっていたり、そこからあらゆる水面下の変化を読み取っていかねばならない。ひとつひとつの波はそれまで人の手に触れられたことがない。
 ジョイスのラヴ・コールが始まっていた。余計な肉を全部そぎ落としたような均整のとれた体が信じられない速度でチューブに飲み込まれていく。行き場のない大量の水と空気が混在して、ダイナマイトのように噴出してくる。ジョイスの姿は壮絶なブレイクの中に消えていった。シュガーには息を呑むような一瞬が、気の遠くなるほどの時間に感じられた。
 やがてジョイスはバック・ドア・バレルから霧のように噴出すエアとともに飛び出してきた。シュガーは初めて自分が息をついたのがわかった。心臓はひどく高鳴っていた。
 やがて中国娘は何事もなかったかのようにパドリングしながら戻ってきた。白い歯を見せてシュガーのボードに近づいてくる彼女は、ひときわ輝いて見えた。言葉が出てこない。ただ、無性に愉快だった。二人は波の上でお互いの手を思い切り打ち鳴らすばかりだった。
 海はしばらくトーン・ダウンしていた。水平線も時折その姿をのぞかせるようになり、光だけがいつまでも踊っていた。

 ニックのMokemobile(モウクモービル)(サーフ・ラック付の車)を停めてあるところまで歩いていく途中、ニックが急に耳をそばだてた。
 「どうした?」
 ニックは黙って人差し指を口にあてた。そして椰子の群落に音を立てぬように分け入るのだった。あとに続くシュガーにもやがてそれが聞こえてきた。震えるようなか細い声。しゃくりあげるような女の泣き声だ。そこで目の当たりにしたものは、四人の白人男にてごめ(・・・)にされている東洋系の女二人だった。女たちは素っ裸にされて、ロングヘアのほうは口に突っ込まれて、声を失っていた。もう一人のショートのほうは、鼻血を出していた。しばしば男が容赦なく平手打ちをしながら、三人がかりで女の頑なな体を押し開こうとしていた。
 「なんだ。おまえがこの間食った連中じゃない。ハレクラニだっけ、泊まってるの?」
 「ああ・・・・・」
 ニックは真っ蒼な顔をして午後の惨劇を見つめていた。
 「どうする?」
 ニックはやっと小さな声で言った。
 シュガーは頓着せずに言った。
 「ほっとけよ。」
 「おい、おまえの姉妹(シスターズ)だぜ。」
 シュガーは返事もせずそのまま立ち去ってしまった。ニックはあまりに冷たいシュガーの態度に当惑したが、そのうちに慌ててその後を追いかけた。

 夕方、バイクでカイルアのアパートに戻ったシュガーは、クッキーが残りの洗濯物をしているのに出くわした。
 「どうだった、パーティ?」
 「Waimea was pumpeen, today. Good-fun.(今日のワイメアは凄い波だった。良かったよ。)」
 シュガーまでこの頃ではピジン英語の癖がついていた。
 クッキーはシャツをリボン結びにして、バミューダをはいていた。ヒップアップしたパンチのある体が乾いた衣類を取り込んでいる。
 「ねえ、女の人から電話あったよ。」
 クッキーがそれとなく告げた。
 「誰?」
 「ナタリー。」
 「ああ・・・・」
 シュガーはTシャツを脱いでベッドに転がった。
 「電話ちょうだいって。」
 「ふうん。」
 「あの(ひと)だれ?」
 「中年のインテリア・デザイナー。」
 「へえ。」
クッキーにしてみれば、そんなことを聞いたのではない。あなたにとってどういう人なの、という意味だったが、当然のようにはぐらかされた。彼女は何事もなかったようにヴェランダへまた出て行った。シュガーは野生を感じ始めていた。まるでワイメアに砕け散る飛沫のようだった。その日の午後、ジョイスに見せつけられたサーフィンだったのか。それとも帰りに見かけた二人の日本人女の遭難事件だったのか。あるいはけなげなポリネシアン娘の生活感に吐き気をもよおした結果なのか。自分でも正体がつかめなかった。ただ、やみくもになにかを壊してみたかった。もしかしたら、自分を潰してみたかったのかもしれない。
 シュガーは静かに起き上がるとクッキーを後ろから抱きすくめた。ビクンと体が震えたのは、シュガーのしっかりした両手がはちきれそうな彼女の胸をつかんだからだ。シュガーは彼女のシャツを思い切り引き裂いた。ボタンが飛ぶ。驚いたクッキーを、強引に自分のほうに向けると激しく唇を奪った。クッキーは『やめて』と抗ったが、シュガーは造作もなく彼女をそのままベッドの上に放り出した。クッキーの両腕を片手で押さえつけながら、バミューダを下着ごと足首まで引きずり下ろした。彼女はもう抵抗しなかった。ただつまるような声が涙のあいだから零れてくる。
 「嫌だ。・・・・・こんなの。嫌。・・・・」
 シュガーは手を放した。クッキーは泣きながらガタガタ震えていた。唇も真っ青だった。中途半端に剥ぎ取られた衣類を直しながら、彼女はベッドの上で泣いていた。シュガーは、Tシャツを着ると、ひとことも言わずにアパートを飛び出した。クッキーは声をしゃくりあげながら、ボタンの飛んだシャツを胸のところでいつまでも結ぼうとしていた。・・・・
 アパートを後にしたシュガーは、気分でココ・パームスをすっぽかした。そしてバイクでハワイカイに乗りつけた。何事かと驚いて出てきたナタリーをもうドアのところで激しく求めた。彼女も戸惑いながら夢中で若い男の野生を受け入れた。・・・・
 シュガーは猛烈に空腹を訴えていた。ナタリーはタオルを巻いたままキッチンで食べ残しのクラム・チャウダーとパンプキン・パイを温めた。
 「喧嘩したの?」
 ナタリーは電子レンジをかけながら聞いた。リビングのソファに汗まみれのままひっくり返っていたシュガーは煙草に火をつけた。
 「まあ、そんなところ。」
 「で、ここへ非難してきたわけね。わたしの電話が原因?」
 「いや、そうじゃないけどね。突然押しかけて迷惑だったかな。」
 「そんなことないわ。」
 「ココ・パームスにいくの、うっかりしちゃったよ。」
 「いく必要ないでしょ。十分なものあげてるわ。」
 「・・・・・・・」
 シュガーが黙ったのが気になったのか、ナタリーはソファのところまできて優しくキスをした。
 「怒ったの?」
 「いや。」
 「笑って。」
 シュガーは吹き出した。彼女の長い舌がからみつく。
 「わたしのこと、聞かないのね。」
 「どんなこと?」
 「主人のこととか。・・・・」
 「嫌がるでしょ?」
 「そうね。でも聞きたくないの?」
 「関係ないから。」
 「そう? ねえ、映画見にいかない?」
 「今から?」
 「車でね。カイルア・ドライヴイン・シアター。」
 「カイルアには戻りたくない。」
 「わがままね。・・・・いいわ、じゃあちょっと足を伸ばして、パール・シティのドライヴイン・シアターでも。」

 パール・シティにはアラモアナに次ぐショッピング・センターがある。その山側にカム・ドライヴイン・シアターがあった。野外映画を見せるのだが、その夜は車がまばらだった。  
シュガーはスクリーン正面のポールから突き出されたクリップを車のアンテナに装着した。ナタリーがラジオの周波数に合わせると、台詞が聞こえてきた。
「ねえ、知ってる人?」
 ナタリーは右手のやや前方に停まっている車をアゴで指した。見覚えのあるどころではない。ニックの車だ。ペイントが剥げたMokemobile。なにか同乗者の女に言っているようだ。身を乗り出して顔をのぞかせたのは、裸の摩耶(・・・・)だった。なぜかシュガーとわかった瞬間、摩耶の顔から笑顔が消えてすぐ引っ込んでしまった。
「知ってるよ。・・・・兄弟さ。」
シュガーはもう映画などどうでもよくなっていた。やにわにナタリーの唇を貪った。ナタリーのほうでも、もうブラをはずしていた。
「駄目よ。こんなところで。人に見られるわ。」
「見せてやりゃあいい。」
ナタリーはもどかしそうに下着から片足を抜くと、大きく足を開いて男を迎え入れた。・・・・・・・
 翌日の昼頃、シュガーはハワイカイの桟橋を前にしたナタリー宅のヴェランダで遅い朝食をとった。カイルアのアパートに電話してメッセージを聞いてみた。まずニックから入っていた。昨夜ニックは遅番だったらしく、あのあとココ・パームスにいったらしい。シュガーは無断欠勤でクビになったという。一体どこをほっつき歩いているんだ、さっきはパール・シティにいたじゃないか、とニックは怒鳴っていた。もうひとつのメッセージはクッキーだった。小さな声はまだ怯えていた。
 『泣いたりして・・・ごめんね。怖かったから、ほんとうに。でも、今度は大丈夫。きっとうまくいくわ。・・・あの後しばらくあなたのベッドにいたの。あなたの匂いがして。・・・子供っぽい?・・・・1・4・3(ワン・フォー・スリー)。・・・・』
 シュガーは訳も無く哀しくなった。コナ・ウィンドに乗ってくる陽光のせいだ。係留されていたヨットが一艘、また一艘とマウナルア・ベイに出て行く。ココ・ヘッドがクールに突っ立っているのが見えた。

 クッキーの一件は、どう考えても自分に非がある。そして仲直りをしようと思えば、実際たいしたことではなかった。クッキーはクッキーで、あの晩素直になれなかった自分に苛立っていた。けっきょくクッキーはニックに泣きついた。
 しばらくして、ニックは二人の仲直りのお膳立てをした。友人のクルーザーをカネオヘ沖に出すことにしたのだ。しかも二人のほかに、ちゃっかり自分の『ボーイ・フレンド』まで連れて来たのだ。タイ人の()だったが、ファルンという女性名で呼ばれている。彼女(・・)はもともとアメリカ人に囲われていた。結婚が出来ないので、アメリカ人は養子縁組をして事実上ファルンを手に入れた。その後別れ、今のファルンは自由だった。最近ではニックの()になっていたのだ。端正な顔立ちやスリムな体は、ちょうどボーイッシュな、しかもかなり質のいい女のように見えた。性転換も豊胸手術も受けていなかったが、化粧もなしに、自然にいい女の匂いを漂わせているのだった。
 クッキーは、ファルンがニックの彼女(・・)だということを知らなかった。ただの友達くらいにしか思っていなかった。彼女の錯綜したジェンダーとセックスの問題など、気がつきもしなかった。ある意味、単純で素朴なクッキーにとっては、なにも知らなかったからこそ、ファルンとふつうに話が出来たのかもしれない。
 クルーザーは、カネオヘ(ベイ)のヘエイア・ハーバーから沖に滑っていった。右手にあるココナッツ島から湾のほうは、お世辞にも綺麗な海とは言い難かったが、沖に向かうごとに海はその表情や色を透明に変えていった。
 アフオ・ラカと呼ばれるサンド・バーは、沖合に忽然と現れる遠浅の砂州で、珊瑚礁が多く、遊ぶには絶好のスポットだ。カイルア半島の先には海軍航空隊基地がある。振り返るとなんの変哲もないカネオヘの町がたたずみ、ヌアヌ・パリの峠が切り立った山間(やまあい)に小さく見えた。サンド・バーに近づいたところでニックは投錨した。シュガーは鏡のように透き通った海に飛び込んだ。沖合にできた遠浅のサンド・バーはそれだけでファンタジーだ。さいわい鬱陶しい雲も、今日は少ない。光の乱射が海面をキラキラさせている。サンド・バーに上陸すると、目にしみる白い砂が広がる。シュガーが砂地に座り込むと、あたかも絶海の孤島にでもいるような気分になった。あとからクッキーも泳いできた。彼女は大胆な黒いビキニを着ていたが、上陸すると濡れた体がまるで蜥蜴(とかげ)色に輝いてみえるのだった。シュガーは明らかに水というものが、色素を持っていると信じた。
 クッキーは横にやってくると腹ばいになってシュガーの顔を覗き込んだ。
 「ねえ、このまえね・・・・オーストラリアのビデオをTVでやってたの。見た?」
 「そのTVが、無い(・・)。」
 クッキーはバツが悪そうに笑った。
 「そうだったよね。」
 「それで?」
 「それでね、グレート・バリア・リーフで捕獲した大きなホオジロザメをシドニーの水族館へ運ぶ、っていうのをやってたの。ところが小型飛行機だから、水槽にサメを入れて運ばなくちゃいけないでしょ。運んでいるあいだ、サメは泳げないわけ。」
 「泳げないと困るのかい?」
 「困るわ。サメは普通の魚みたいに自分で酸素を水ごと取り込むことができないんだもの。サメは(えら)が動かないのよ。だからいつも泳いでいないといけないわけ。泳ぐことで自然に口から海水を通して、やっと鰓が酸素をとっていくの。」
 「眠れないな。」
 「眠れないわ。」
 「ストレスがたまるね。」
 「ノイローゼって、魚にもあるかもしれない。」
 「それでどうしたんだ。その先があるんだろ?」
「そうそう。それでシドニーに着いたときには、呼吸がもうできなくなっていたものだから、すっかり弱ってしまって、ほとんど仮死状態に近かったのね。それを水族館の大きな、それは大きな水槽へ入れたんだけど、もう駄目なの。そのまま水槽の底に沈んじゃった。水族館の人たち、どうしたと思う? 一人のダイバーが入って、そのサメを抱きかかえながら泳ぎだしたのよ。ゆっくりね。相当重いはずだわ。ホオジロザメですもの、大きな水槽を何度も何度も繰り返し円周状に泳いだの。そのうちにサメは呼吸を少しずつ回復して、尾ヒレが動き出したり、・・・とうとう最後にはいつものように元気になったってわけ。」
 シュガーは面白いとは思ったが、だからどうだ、という気も一方ではしていた。やがて、クッキーのお喋りがただの雑音のようにすら聞こえてきた。
 「まだあるの。むしろこれがこの話の一番すごいところよ。そのサメね、自分と一緒に泳いでくれたダイバーのこと、絶対に忘れないの。別の日にそのダイバーが水槽に飛び込んでも、もう彼をけして襲ったりしないのよ。ねえ、聞いてる?」
 「ああ、聞いてる。サメはとってもお利口さんっていう話だろ。」
 シュガーはニックの誘いに応じて今日のピクニックに参加したことを、早くも後悔し始めていた。
 『仲直りなんて、俺には似合わないな。・・・・』
 クッキーはクッキーで、シュガーのあまりに無反応な表情に、すっかり肩を落としていた。
 カイルア・ビーチはウィンド・サーフィンで有名だが、カネオヘでもこのサンド・バーあたりには沢山のウィンド・サーファーがいる。まるで海面をさまざまな色の蝶たちが踊り回っているようだ。
 クッキーは気を取り直してまた話だした。
 「このまえね、シーライフ・パークに新入りのイルカが入ったの。これから馴らしていくのよ。」
 シュガーはイルカの筋肉質の体を思い浮かべてみた。そう言えば、クッキーも、はちきれそうなバネの効いた体がイルカのイメージに似ていた。
 「そのイルカがね、餌の小魚を食べないのよ。鮮度が悪いからかもしれないけど。ほかのイルカとも馴染まないし。それでスタッフが生きたナマコを取って来たの。野生のイルカの大好物よ。わたしそれを持ってプールに入ったわ。そしたら、イルカがすっごく喜んでね。もう大変な騒ぎだったわ。次の日にわたしがプールに入ると、そのイルカ、底に残っていたナマコをくわえてきてわたしにくれるのよ。わたしに食べろっていうのかしら? イルカもけっして忘れないのね、友達のこと。」
 シュガーはだんだん苛々してきた。『自分もナマコを食えばいいじゃないか。友達なんだろ。』ふと余計なことを言いたくなってしまう。
 「イルカの肉って、まずいらしいぜ。ゴムみたいでさ。」
 クッキーの顔色が変った。そして、ぎこちなく笑顔をつくって言った。
 「ねえ、今晩、空いてる?」
 「いや。」
 「インテリアのお勉強(・・・)?」
 クッキーの精一杯の攻勢だった。
 「馬鹿言え、仕事(・・)だ。」
 「うそ。」
 「信じなくて結構。」
 「信じるわ。」
 「それこそウソだ。」
 クルーザーが錨を下ろしているあたりでは、ニックが海の中からしきりに船上のファルンに『飛び込め』とけしかけていた。ファルンは笑ってかぶりを振っている。泳げないというのだ。
 冬の光は朝のやわらかい風景に馴染んでいた。馴染めないのはクッキーと自分の二人だけだとシュガーは思った。けっきょくこのままクッキーに言おうとしていた一言を口にすることなく終わるんだろう。シュガーは哀しいのでもなく、口惜しいのでもなく、冷ややかで喉につかえそうな朝を、ただ見送った。
 クッキーは言葉を口にしなくなった。・・・・・・・

 「ボトム・ターンが決め手なのはわかるでしょう?」
 バレッタで髪をとめたジョイスは、シュガーの顔を見つめた。
 「その次は体重の移動。・・・・・バックサイドでも同じよ。波のボトムをきちんと横に走り続ければ、フックにちゃんと出られるわ。クリアは波から逃れようとするのじゃなくて、波の動きを待つ余裕がポイントよ。」
 その余裕こそ、一事が万事だとシュガーは思っていた。あの日、赤いボードの男は開きなおったような余裕を持っていた。それがどこから生まれてくるものか見当もつかないのだ。シュガーはなんとなくタブーになっていたあの男のことを口にした。ジョイスはちょっと表情のない顔になったが、すぐふだんの優しい笑みと取り戻していった。
 「じゃあ、今度いっしょにナイト・サーフしてみる?」
 「危ないな。」
 「その余裕の正体を知りたいんでしょう?」
 シュガーはクアーズを一気に飲み干して息をついた。
 ジョイスは意地悪そうに目で笑ってみせた。
 二人のいたハレイワのバーはオープン・ルーフのにわか屋台のようなもので、椰子の群落越しに波の押し寄せるのがよく見えた。少し沖には恐ろしいトイレット・ボウルが渦巻いているはずだ。
 「恋人は?」
 「だめよ。No chance for you.」
 「あの男なんだな、やっぱり。」
 「嫉妬してるの?」
 「冗談じゃない。別に女には困ってない。」
 「それだけのものなのね、けっきょく。」
  ジョイスはカラカラと笑った。
 「そういう意味じゃない。」
 「シュガー、あなたは何のために生きているの?」
 唐突な質問だった。
 「サーフィンをしたい。」
 「それだけ?」
 「わからない。」
 「病気ね。日本人もアメリカ人も一緒だわ。」
 「そうかもしれない。」
 「でもけっこうそれが気持ちいいんじゃなくて?」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 「やっぱり病気だわ。治りたがらない病人は、病人でいる資格がないっていうしね。」
 「余計なお世話だ。」
 「でもそこがはっきりすれば、あなたのサーフィン、もっと上達すると思うわ。ずっとね。それに・・・・・」
 「それに?」
 「サーフィンよりもっと大切なものがわかるかも知れないじゃない。」
 「何だい、それ?」
 「あなた自身のことよ。カミュがね・・・・」
 「アルベール・カミュのことか?」
 「そう。カミュがこういう例を引き合いに出しているの。」
 「よせやい。いまどき実存主義は流行らない。」
 「いいから聞いて。もし今あなたが、スプーン一杯のスープを、お腹が空いていないというだけで捨てたとするでしょう? そして、同じ頃、アフリカのどこかで、その一杯のスープさえあれば、飢えから救われる子供が、死んでいったとするわね。」
 「非常に不愉快な例えだな。」
 「ちゃんと聞いて。そしたらあなたは、その子供を殺した共犯の一端を担っているんだわ。」
 「極論だよ。」
「そう。でもその方がわかりやすいからカミュは極論を持ってきたの。人間は無関係なようで、実はみんなつながっているって。いろんな価値や倫理が失われてしまった今、どうしたら孤独な人間たちが新しい倫理を構築したらいいのか、ってそういう問いかけよ。」
 「それと俺のサーフィンとどういう関係があるんだ。」
 「あなたが、誰ともつながっていないから。つながろうとしなければ、自分のこともわかりやしないわよ。」
 まったく得体の知れない女だった。シュガーは少々うんざりしていた。考えることがそもそも嫌になっているのだ。自分が誰かを知ってはみたい。何をする人間なのかを探ってはみたい。しかし、考えることにはアレルギーを起こしていた。繊細なまでに鈍感な自分の無責任さにただ冷たく浸っているのが何よりも楽だった。
 ジョイスが涼しそうな眼差しで風を追っていた。
 目前で砕けた波がハレイワ・アリイ・ビーチに散っていく。潮の匂いが柔らかいジョイスの髪を撫でていく。

 ハワイには四人の(ティキ)がいる。カナロアはそのうちの一人で、海と夜を支配する。その夜、カナロアはいくぶん機嫌がいいようだった。
 昔は波乗りする前に、ポリネシア人たちは、ティやククイの樹液を木製のボードに塗りつけて(ティキ)に祈ったそうだ。一番いい波が取れるように。最高のAli’i(アリイ)になれるように。ただ、夜はその波がまったく読めない。わずかに月明かりの下でロールや飛沫がぼんやり浮かび上がるだけだ。不確かな視界の中で、海鳴りと足から伝わってくる波の律動だけが頼りだ。
 ジョイスは難無くテイクオフしていった。シュガーは乗れないと判断するとすぐドルフィン・スルーに切り替えた。日中よりも水の中にいる時間が長く感じられた。早く息がしたい。岩礁にタッチすることもなく、うまくすり抜けることができた。そう思ったとき、すぐにまたボードが浮き始めた。次の波が始まっていたのだ。大きい。予想外だった。シュガーはとっさに反転して波の頂点に立った。その夜のエフカイ・ビーチはせいぜい六フィートくらいと思ったが、夜はとてつもない大波に乗ったような錯覚と恐怖に見舞われた。ドロップしていく。重力に引っ張られるようにボードが壁を切り裂いていく。どこがボトム・ラインか想像もつかない。腰に衝撃が伝わってきた。シュガーはターンを試みたが、すでに真っ黒な壁が崩落し始めていた。暗黒の質量はウムも言わせずシュガーをそのまま押し倒していった。あとは長い長い空白の窒息状態が続いた。巻かれていく。永久に存在は忘却されてしまうかのようだ。その間に星の夢をみた。現れては消えていく星たちが笑っていた。蒼白い月も知らんぷりを決め込んでいた。・・・・
 気が着いたときには、折れたボードを引きずって浅瀬に浮上していた。激しい息遣いのたびごとに冷たい空気が肺に充満していく。
 ジョイスが水際に走り寄ってきた。
 「怪我は?」
 「ああ・・・大丈夫。巻かれちゃったよ。」
 「よかった。本当に大丈夫?」
 「なんとかね。・・・星の夢を見た。」
 シュガーはまだ肩で息をしていた。
 「俺を笑っていやがった。・・・」
 ジョイスが思わずシュガーを抱きしめた。ウェット・スーツを通して、彼女のストレートな体が、それでも優しい感触を伝えていた。二人は波打ち際でしばらく恋をしていた。
まるで形にならない思いが、宇宙の片隅で息をひそめているようだ。ふっくらした女の唇は塩辛い男の頬や首筋に安心を与えていた。体はすっかり凍えていたが、それでも不思議と寒くはなかった。指先はまだ興奮していたようだ。シュガーの肉体は別の世界をかいま見た動揺をまだ隠し切れずにいたようだ。・・・・・・・・
 近くで声がした。ジョイスの名を呼んだのだ。スウェットを着た白人の男が歩いてきた。ジョイスはシュガーから体を離し、『ハーイ、エディ・・・』と呼び返した。
 男はゆっくり二人に近づいてきた。長身で一見優男風のその人物はいかにも表情が疲れていた。白人の年齢はいつも見当がつかない。二十代の後半だろうか。それにしては妙に肌に艶がなく、老成していた。
 『この男だ。あの日パイプにいたのは。間違いない。エディ・・・エディ何だ?』
 シュガーはまんじりともせず男を見つめていた。
 「彼・・・シュガー。・・・」
 ジョイスはあらたまったように言った。
 男は長い髪を束ねていた。にっこり笑うとその男は手を差し出した。シュガーは濡れたまま男の手を握りかえした。
 「物好きだね。・・・・シュガー。」
 引っ込み思案な声の持ち主だ。
 「あんたほどじゃない。」
 シュガーのほうがよっぽど傲岸不遜だった。
 男は苦笑いしてジョイスの冷たい腰に手を回した。ジョイスはチラッとシュガーの顔色をうかがって男にキスした。
 「帰ろう。腹がへった。」
 「食欲があるの?」
 「今夜は少し。」
 「よかった。」
 二人はシュガーと二言三言交わして、そのまま立ち去ろうとしていた。シュガーは何となく格好の悪い感じになっていが。ふとそのとき男は振り返り、シュガーに言った。
 「二週間後、パイプでアマチュアのトーナメントがある。」
 シュガーは立ちすくんだまま、黙って聞いていた。
 「きっと波が荒れて、途中、中止になる。・・・・君も出るんだろう?」
 「ああ、・・・出るよ。」
 シュガーはどういうわけか、思わずそう答えてしまった。『それにしても』、どうして中止になるほど波が荒れるとわかる? 二週間も先の話じゃないか。シュガーはそういぶかった。
 「ただ、そんな気がする。」
 男はまるで、シュガーの内心を言い当てるようにそう呟いた。
二人が立ち去るとき、ジョイスは一人で小走りに戻ってきて。シュガーの唇にさっとキスをした。男はわずかにその様子を垣間見たが、何事もなかったかのように先に歩き始めた。ジョイスは男を追いかけながらも、もう一度振り返り、シュガーにウィングをした。
 カナロアは至極機嫌が良かったようだ。波はずっと穏やかになり、零れる星たちが音を立てていた。
 
 シュガーは翌日から、朝まだ開けきらぬうちにノース・ショアでオンすることにした。真夜中の一時過ぎにはカイルアを出て、北海岸沿いにR83をパイプ・ビーチに向かう。パイプでなければならなかった。エディの言ったトーナメントは、パイプで行われる予定だったからだ。
 暗闇の中では手探りのサーフィンも、やがて薄明とともにその復習をするかたちになる。四、五日も続けていると、次第に波の変化のパターンに応じて素直に体が反応するようになっていった。そして陽の光に万物がその姿を(あらわ)にする時刻となっても、あらゆる感覚が視覚に優先するようになる。迫り来る波に押し出されるエア、温度、波が生み出す風の向き、足から伝わる律動、どれをとっても視覚に頼ることはなくなる。体中が研ぎ澄まされた一つの繊細な感覚になるのだった。シュガーの瞳はたとえすべてを見ていても、実はなにも見てはいなかった。
 カイルアに戻るのは、まだ朝の八時ごろなので、それから午後まで死んだように眠った。夕刻にはナタリーからお呼びがかかる。ハワイカイの洒落た家で、白人女の柔らかい胸を口にふくんでいても、シュガーの脳裏にはエディという物静かな男の凄絶なあの日のサーフィンだけが()ぎっていくのだった。
 
 ある朝、シュガーはナイト・サーフィンの後、なかなか寝付かれず、珍しくナタリーに自分から電話をしてみた。その日、ナタリーはオフのはずだった。ところがこの日に限って、ナタリーは何かの用事とかで都合がつかないようだった。何となくバツが悪い感じがする。
 昼近くになってから、シュガーはカイルア・ビーチまでバイクで繰り出した。疲労が体の中にうずくまっていた。視覚は妙に距離を伸ばしたが、聞く音はそれに比べて何か遠い感じがした。海はウィンド・サーファーで埋め尽くされ、光が身の置き場に困っている。
 シュガーは不思議と空腹ではなかった。海岸道路にあるにわかづくりのアイスクリーム・ショップでパッション・フルーツのものをひとつ頼んだ。ハレイワのマツモト・ストアの真似らしい。
 夢を見るのには勇気がいる。それを貫き通すだけの生欲の硬質な本体力を、シュガーは持ち合わせていない。ベクトルがあまりにも鋭角に過ぎ、方向をきちんと定めることもままならなかった。影はただ空しく不毛な実体の後を追いかけるばかりだった。
 シュガーは、エディのこと、ジョイスのこと、ナタリーやクッキーのことを、鈍感になった頭の中でバラバラに思い出してはとりとめなのない脱力感に襲われていた。
 遠くで誰かが自分の名を呼んだ。『裸の摩耶』だった。パール・シティのドライヴイン。シアター以来、その存在は頭の中からすっかり消えていた。
 ウィンド・サーフィンから上がったばかりなのだろう。水を弾いた白いワンピースの水着は、バニヤンのコンドミニアムで惜しげもなく体を開いて見せたあの晩より、ずっとセクシーに見えた。ビーチからゆっくり近づきながら彼女は笑いかけた。
 「どうしたの? 女にアブれてるの?」
 「いや、寝付かれなくてね。起きて来たんだ。」
 シュガーはカーキ色のランニングにデニムの短パンだった。
 「あら、すぐ近く?」
 「歩いたら十五分はかかるかな。どうせバイクだから。ニックには会ってる?」
 「うん。ときどき。」
 摩耶は取り敢えず笑っていた。
 「今日は一人?」
 「そうよ、男ならいくらでも寄ってくるもの。しつこいたらもう大変。このへんだと、少しは一人でいられるわ。」
 シュガーは流れるような摩耶のプロポーションに目を細めた。
 摩耶は得意そうに続けた。
 「カハラのショッピング・モールにいったら、もうインスタント・カップルばかりよ。もっとも慣れてない観光客じゃ、ちょっと無理かも。」
 「なるほどね。」
 「ねえ、おうち近いんでしょ? シャワー使わせて。髪も洗いたいし。」
 「いいよ。でもそれだけだよ。」
 「今日は酔ってないわ。」
 「だから大丈夫ってわけじゃない。」
 「けっこう真面目なんだ。」
 「きみがただのデザートになっても構わないってんなら、別だけどね。」
 「冗談じゃないわ、願い下げよ。」
 「プライドか?」
 「とにかくシャワー使わせてよ。相談したいこともあるし。」
 「ニックのこと?」
 摩耶は返事をしなかった。
 本音を言えば、シュガーはまったく摩耶に興味がなかった。女の魅力は知性と情緒の大きなギャップの間に緊張する美しさだとシュガーは思っていた。摩耶にはその緊張が存在しない。
 「荷物は?」
 「これだけ。」
 摩耶はブルー・メッシュのナップザックにTシャツやらジーンズやらを詰め込んでいた。
 ハオレ(地元の白人)の個人住宅街を抜けて、シュガーのバイクはアパートへ向かった。二階建ての簡易アパートに着くまでのものの五、六分、バイクという乗り物を経験したことのない摩耶は悲鳴に近い歓声をひっきりなしにあげていた。シュガーの背中はしがみつく女の体で熱い。
 火のような部屋へ入ると、シュガーはエアコンのスイッチを入れる一方で、しばらく窓を開け放った。摩耶はナップザックを放り出すと、さっさとシャワーに入っていった。
 女の服を脱ぐ音が聞こえてくる。この部屋であの音を聞いたことはかつてない。やがてドア越しにシャワーのこもったような音が始まる。シュガーはベッドに寝転びながらその新鮮な悩ましさに馴染もうとしていた。何か懐かしいものを感じる。
 シャワーを終えた摩耶は濡れたままタオルを巻いて出てきた。体をきちっと拭かずにしばらくそのままでいるのが快感らしい。髪だけは一応タオルで水を切ったようだ。摩耶は勝手にドライヤーを使って長い髪を乾かし始めた。それは一種の挑発なのか、シュガーには自信がなかった。もっともあの晩、もう十分に挑発されたのを思い出すと、何をいまさらという気がして、妙に白けてしまうのだった。
 摩耶はシュガーにじっと見られていることを意識していた。しかし白人女のような自然さは、彼女にはない。ナタリーなら鏡の角度を利用して自分に笑いかけてくるだろう。日本人の女にはそういうちょっとした仕草のアソビができない。むやみに面白くないとシュガーは思う。
 「わたし、そんなにつまんない?」
 シュガーの胸のうちを見透かされたような唐突な一言だった。
 「そんなことないよ。」
 「ウソ。」
 摩耶は表情ひとつ変えず、髪がドライヤーの風になびいていく。気持ちよさそうだ。
 「この状況なら、・・・・ふつうの男ならとっくにわたしを抱いてるわ。」
 「そんなに誰にでも食って欲しいのか?」
 「あなたのことを言ってるのよ。」
 摩耶はドライヤーの手を休めて、香水をつけ始めた。 ココの匂いが部屋中に溢れていく。シュガーは香水自体好きなほうだった。ただ日本人が一様にココを使うのが嫌だった。彼らに主張がない、ということではない。シュガーが、デューンや、トレゾアがすきだったから、というのでもない。
 「高いんだァ、これ。」
 「知ってるよ。」
 「どうしてか知ってる?」
 「ふっかけてるだけだろ。」
 「違うの。原料の問題なのよ。ブルガリアン・ローズとジャスミンの香料が主成分なんだって。ブルガリアン・ローズからたった一グラムの香料をとるのに四トンの花が必要なんですって。ジャスミンなんかも一滴分の香料をとるのに二百万個の花が要るんですって。
信じられる? ココが高いわけだわ。」
 「そこまでやるとはね。狂気に近い。」
 摩耶はこういうことだけは、どういうわけかよく知っていた。
 「相談があるんだ・・・わたし。」
 「聞いてるよ。」
 「男が男を好きになるのって、女を好きになるのと違う?」
 「ニックがつきあってるのは確かに男だけど、女として愛してる。だから単純に同性愛とはいえないよ。正真正銘の女で、あのファルンに勝る存在が現れたら、容易に気が移る類のものだと思うよ。なんだかんだいって、けっきょく相手の中に、『女性』を求めているからさ。」
 「そう?」
 摩耶は相変わらず髪を乾かしている。
 「清潔で、ボーイッシュな女の子って感じだったわね。」
 「なんだ、見たのか。」
 「ちょっとね。タイ人でしょ。」
 「CIAでも雇ったのか?」
 「冗談言ってる場合じゃないの。」
 「失礼。」
 「ポランスキーの『赤い航路』って観た?」
 「赤い?・・・・・」
 「アメリカ人の売れない作家とパリジェンヌの話よ。最後に女のほうがレズに走って、男に見せつけるの。男はけっきょく女を殺して自分も自殺するってストーリー。観なかった? この前日本でもやったんだけどな。アメリカじゃ、去年くらいにはロードショーやったんじゃないのかな。」
 「観たよ。『Bitter Moon(苦い月)』だろ、それ。」
 「そういうタイトルなの?」
 「そういうタイトルなんだよ。」
 「へえ、すごいじゃん。英語で観るなんて。」
 「ここでは英語しかないんだよ。観たくて観てるんじゃない。」
 シュガーはあからさまに軽蔑した。
 「じゃあニックはあのタイ人の『女の子』を愛してるって感じなのね。」
 「そう。ポランスキーの映画みたいに、戻って来れない河を渡ったわけじゃない。もっとも世の中には両刀づかいっていうのもいるけどね。」
 「ふうん。・・・・・」
 「通常の人からみれば確かに倒錯しているかもしれないけれど、女性の入り込む余地は、彼の場合大有りだね。そもそも男が好きなわけじゃないからね。」
 ドライヤーの手を休めた摩耶は、無表情の中にもいくらか安心を覚えたようだった。
 「ただ、きみの声がニックに届いてないだけだよ。」
 シュガーの寝転んでいるベッドに腰掛けた摩耶は、拍子抜けしたように首をかしげた。
 「少しは気が楽になった?」
 「力が抜けちゃったわよ。」
 摩耶はため息をついてベッドに添い寝した。柔らかい髪が日焼けしたシュガーの厚い胸板をくすぐった。
 「そういう人、タイにはいっぱいいるの?」
 「アジアには多いらしいよ。ハワイにいるフィリピン人の間にだって結構いる。バクラって呼んでるけどね。」
 「バクラ?」
 「フィリピン語でね、そう言うんだって。子供の頃、男の子があんまり可愛いと女として育ててしまうケースも多いらしい。性転換しているかどうかは、お金がかかるからまちまちだろうけど。」
 「抱いたことある?」
 「いや、ないね。友達には何人かバクラがいるけどね。」
 「どうするんだろう、年取ってから。ずいぶん惨めだと思うな。」
 「連中だって考えてるさ。だから孤児を引き取って養子にして、お金をかけて養育して、自分の老後の保険にすることも多い。」
 「なにか、哀しいわね。」
 「・・・・・・・・」
 摩耶は鼻を鳴らしながらは、シュガーの乳首を舌でなぞった。彼女の左手はもうシュガーの腹部を滑るようにして獲物を探している。気分を出そうとするような呼吸が先を急いでいる。やがて粘っこい舌がシュガーの下半身に絡みつくのを、シュガーは無機質な目でじっと眺めていた。
 「やっぱり男なら誰でもいいんじゃない。」
 摩耶は夢中で舌を遣いながら首を小さく横に振った。そして口ごもった声で言った。
 「人のこと言えないんじゃない?」
 「子供の頃、パパから言われなかったのか? 口にモノを入れてるときは喋るなってさ。」
 「よく言うわよ。」
 そのうちに摩耶はひどく優しい声で聞いた。
 「気持ちいい?」
 「・・・・・・」
 「あとで、わたしも気持ちよくしてね。」
 シュガーはそれを聞いた以上、応じる気になれなかった。こういう言葉を聞くと、むやみに壊したくなる自分がいた。シュガーは、上半身を起こすと摩耶の顔を両手でしっかり押さえ、座りなおして激しく腰を前後に動かし始めた。
 「じゃあ、愛してるって言ってみろよ。口にモノを入れたままさ。」
 摩耶はあまりに乱暴な動きに喉を詰まらせた。
 「英語じゃ平気で言えるくせに、日本語になるとどうして言えないんだ? え?」
 摩耶は喉の奥にかつてない圧迫感を覚えながら、声にならない声で泣きじゃくり始めた。何度か臓腑が悶え、嗚咽が尾を引いた。
 「吐くなよ。」
 シュガーの一言が心理的なプレッシャーを増大させた。摩耶はしばしば嘔吐しそうになるのを必死で我慢していた。体中から力が抜けていき、だらしなくただ口だけがシュガーの仕打ちに耐えていた。
 とうとうシュガーが終わる頃、摩耶は思い切り吐いた。シュガーは、むしろ強く摩耶の顔に自分を押しつけた。摩耶の嘔吐は、一度ではおさまらず、肋骨が鳥肌立った体に浮き上がった。ようやく開放された摩耶は涙が止まらなかった。目や鼻から絶え間なく涙が流れ出た、唇を伝って垂れる反吐を手で拭いながらいつまでも子供のように泣いていた。ようやく小さな震える声で、『ごめんなさい』と言ったとき、シュガーは知らん顔をしてもう煙草を喫っていた。 
 
 シュガーは摩耶をバイクで送った。カイルアを出るときから摩耶はずっとシュガーの背中に、力なくただもたれかかるようにしていた。顔色が悪く、気力も失せていた。唇は乾き、午後のけだるい日差しの中で、バイクのエキゾースト・ノイズだけが風の合間に聞こえていた。
 ちょうどカイルア・ロード沿いにあるパリ・ショッピング・センターを通りかかった頃、見慣れた車が目にとまった。赤いコルベットだ。ヌアヌ・パリのほうから下ってきたその車は、そのまま東にそれていった。ナタリーが運転していた。同乗者は白人の男だった。今日はなにか用事があると言っていたはずだ。シュガーはその用事を見定めてやろうと、にわかにいやらしい根性を出してみた。すぐにバイクを反転させ、R72沿いに追いかけた。
 コルベットはマカプウ岬を過ぎて東海岸を回りこんだ。黒い火山の岩肌と真っ青な海が晴れた日の印象を競っていた。やがてサンディ・ビーチの手前を、コルベットは右折した。どうやらハワイカイ・ゴルフ・クラブに向かっているらしい。シュガーはエントランスのあたりにバイクを停め、遠くから二人の様子を目で追った。ナタリーよりかなり年配の男だ。なりこそラフなポロシャツとスラックスだが、相当の紳士であることは一目瞭然だった。銀髪に近く、立派な押し出しをしていた。
 亭主か? どうも違うようだ。恋人のような甘さが二人にはある。客の類かとも思ってはみたが、尋常ではない馴れ馴れしさがあまりにも際立っていた。
 「ねえ、ここどこ?・・・・・」
 目の座った摩耶が小さな声でぶっきらぼうに言った。
 「黙ってろ。」
 年配の男を見ているうちに、その背後にある教養や権威、そしてステイタスなど、あらゆる限りの持てるものが、まるで今、自分と比較されているような気がしてきた。いわゆる、『とてもかなわない』というやつだ。若さなどなんの取り柄にもならない。いつかは消えていく。
 シュガーの目がさらに吸い寄せられたのは、車から出てきたナタリーのじゃれつきようだった。それは彼女が自分にはいまだかつて見せたことのないものだった。
 『パトロンってやつか。』
 自分の前では寸分のスキもない自立した女がこのザマだ。その女に抱かれて安心していた自分は、いったいなんなのか。ナタリーの、まるで犬が飼い主に腹をさらけだしているような無防備な媚びかたや甘え方は、シュガーの目に痛ましいほど切なく滲んだ。翻って、自分はその犬に弄ばれて喜んでいる。・・・・時折ちぎれた濃灰色の雲が流れては、地表に影を落としていく。光は珍しく乾いた空気を遊んでいた。自虐、負け犬、思ってもみなかった嫉妬。いろんな言葉が頭の中を巡っていく。もしかしたら、早合点や単なる誤解かもしれない。それでもシュガーの信じられないような動揺は間違いのない一つの真実だった。・・・・・・・・・・・・・・

 チャイナ・タウンはどこへ行ってもそこにあった。そしてこれほどアメリカらしくない町も珍しい。日本人町はたいていアメリカに同化していくのが常だ。チャイナ・タウンは違う。あたかもアメリカに挑戦するかのように自分たちが中華であることを主張し続ける。
 その日、シュガーはカイルアで待ち合わせた。ジョイスの車は古いベージュのマーキュリーだ。セダンは相当ガタが来ていた。R61のパリ・ハイウェイ沿いに車は一路ホノルルへ向かった。カイルア・ショッピング・センターでシュガーをピックアップしたとき、ジョイスは珍しく薄いピンクのシャツに、真っ白なタイト・パンツという服装だった。セミロングの髪にはやはり白いカチューシャをつけていた。いつもラフな格好のジョイスしか知らなかったから、これはとても新鮮だった。
 マーキュリーはやがてチャイナ・タウンに入っていった。マウナケア・ストリートにあるマーケット・プレイスからほど近いところにジョイスの親戚がやっている広東料理屋がある。あたりは時代を感じさせる建物も多い。もっとも最近では東のほうから高層ビルが接近しており、やがてはコンクリート・ジャングルに変わってしまうのだろう。
 ジョイスは祖父の代に香港から渡ってきた一族らしい。店は小奇麗な感じだったが、床や円テーブルはやはりどことなく油ぽい。給仕や出入りする客には表情がない。みんなシュガーというあだ名をつけてやりたくなった。ただけたたましい広東語が、ここだけは別世界だと訴えているようだ。
 飲茶だった。お定まりのポーレイ茶が苦い。
 「君に似てる。」
 「え?」
 ジョイスはシュガーがぼんやり見ている後ろのほうを振り返った。
「あのポスター?」
 「そう。君に似てるんだ。」
 「いやだ。歳が違い過ぎるわ。あれは今売れっ子の新進女優よ。」
 「香港の?」
 「そう。」
 「よく似てる。」
 「それはどうも。」
 「君のほうがずっとスタイルがいいけどね。」
 「もういいわ、そのへんで。」
 「もっと言いたい。」
 ジョイスは笑い出した。
 「わたしのこと・・・・好き?」
 「うん。よくわかんない(ひと)だけどね。」
 その素直な一言に、自分でも驚いた。
 「そのほうが嬉しいな。どこがどうだから好きだって言われるより、なにか大事にされているような気がする。」
 「でも男がいる。」
 「やめましょう。その話。」
 「嫌だ。」
 「ききわけが悪いわね。」
 「子供だからね。こういうことにそんなに物分りがよくはなれない。」
 「まあいいけど。でも、あなたは少年のような目をするときがある。人に言われない?」
 「どうかな。」
 「少年の目をした人が、一番遠くまで行くの。・・・・」
 その言葉はむしろそっくりジョイスに当てはまるような気がした。
 「君たち中国人はまったく不思議だよ。」
 「みんなそう言うわ。知らないだけよ。」
 ジョイスは頬杖をついた。
 「何が知りたいの?」
 「夢の見方。」
 「夢はつくるもの。ツキは呼ぶもの。奇蹟は起こすもの。」
 「うまいね。」
 ジョイスが微笑んだ。
 「強いんだな。その強さはどこから来る?」
 「さあ?」
 「中国人ならみんなそうか?」
 「どうかしら?」
 ジョイスはキャッシャーのところに掛かっている日暦(ひめくり)のほうを見た。
 「あの日暦の下のほうに中国語書いてあるの、わかる?」
 「一日一言ってやつだな。意味はわからないよ。」
 「禍兮福所依 福兮禍所伏・・・・」
 「どういう意味?」
 「荘子なんだけど。どんなに悪いことがあっても、いいことはその裏腹にやってくる。どんなに幸せでも、悪いことがそこに隠れている。」
 「ひどいな。」
 「どうして?」
 「因果応報とは根本的に違う。」
 「因果応報なんて、気休めだわ。」
 「中国にはそういう発想は無いのか?」
 「無いわね。」
 「乾いてるね、君たちは。」
 「仙人みたいでしょ? 霞を食べて生きてるのよ。」
 ジョイスは笑顔がいつも軽い軽い春風のような。
 アメリカの中で中国という一つの確固たる意思がものを考えている。
 たとえば、『牡丹灯篭』という怪談がある。円朝の講談物で有名だが、もともとは中国の原作が元になっている。円朝の翻案になるものは、生前の恋や思いが死後も生き残った者を引きずる話だ。そこには因果が存在する。しかし、中国の原作のほうは、まったく見知らぬ亡者の、ほとんど通り魔的な犯行に近い。すべては偶然が左右し、因果の入り込む余地はない。確かに中国のほうがずっと乾いてる。円朝はそれでは日本の聴衆が満足しないことを知っていた。そこで色恋人情で因果の縦糸を編んだのだろう。
 シュガーはハワイというアメリカで、非アメリカ性をこれほど印象づけられたことがない。ヒスパニックも黒人も、それぞれ独自性には確かに頑固だ。しかし彼らはけっきょくアメリカという前提にたてつこうとはしない。むしろアメリカへの帰属性に悲願をこめている。華僑はそれに比べるとはるかにアメリカという価値に対して醒めている。
 店内はやがて客の入りが多くなり、耳を覆いたくなるような喧騒に包まれていった。
 アメリカという人類の偉大な実験がここにも一つ熱を帯びて存在していた。
 
 数日後、パイプ・ビーチのナイト・サーフィンにすっかり馴れたシュガーは、気分を変えてサンセット・ビーチをトライした。調子は上々。波はどこまでも彼を理解してくれた。
 その朝早く、ナタリーから誘いがあった。シュガーには抵抗があったものの、今はもう『仕事』と割り切るようにしていた。
 ナタリーはいつものように貪欲にシュガーの肉体を求めた。イタリア系らしい濃厚な愛でも、もうシュガーの突き放されたような孤独感を癒すことはなかった。
 「自由になると倦怠を覚え、豊かさの中でまた敗北を感じた。それはけっきょくわたしが無力であることの証明だった。・・・・」
 ナタリーがベッドの上で、小説の一節を読み上げた。そしてタオルケットの上に本を伏せると、シュガーのほうを見た。
 「これ、まるであなたのことね。」
 シュガーは裸のまま彼女の横に寝ていたが、うっすらと目を開けた。優しい年上の女の笑顔が間近になると、溶けそうなキスが唇に甘い湿気を残していく。
 二階のベッドルームはまるで海の上に張り出しているような錯覚に陥るほど青い世界に近接していた。ぼんやりとシュガーは真っ白な部屋を見渡していた。海が太陽を反射して、壁や天井に粒子の波紋を広げている。横になっていると、立ち止まることがこれほど無意味に不毛なものはないと思えてくる。哀しいと思うのは一人のときではなく、いつも誰かと一緒にいるときだった。人と人をつないでいる細いパイプのようなものを、どうしても手繰り寄せることができない。徒労の情熱は空回りし、言葉は体温を失った。
けだるかった。ここ数日、根をつめてナイト・サーフィンをしていたからかも知れない。シュガーは光の波紋を眺めているうちに思い出した。ある日、海の中が眩しいほど明るく、そして青かったので、息がつまるまで海中で見惚れていたときのことを。とうとう苦しくなって浮上すると、かえって快晴の空が真っ黒に見えるほどだった。
タオルを巻いて横に添い寝しているこの年上の女は、あの日ゴルフ・クラブで見せたのとは違う表情をしている。あれもこれもすべてがシュガーの内部の乖離を証明しているように思えた。
 ナタリーがくれた冷たいレモネードが舌に痛い。静かなエアコンが潮の匂いをずっと手の届かないところへ遠ざけていた。

 翌日、シュガーはまたノース・ショアに出かけた。ナイト・サーフィンではない。まだ昼間の海を見たかったからだ。
 バイクは三本の椰子の目印を過ぎた。もうエフカイだ。パイプは近い。
 波は六フィートほどだった。バイクを乗り捨てて、シュガーは砂地に転がるコンクリート・キューブに腰掛けた。まばらに点々とパドリングするサーファーたちを彼は飽くことなく眺めていた。
 後ろで声がした。
「ここだと思ったよ。Long time no smell.(久しぶりだな。)」
ストライプのTシャツを着たニックが立っていた。マリファナを指につまんでいる。
「おまえにも困ったもんだな。アパートにはいないし。てっきりon the run(家出)したのかと思ったよ。」
 シュガーは不機嫌そうだった。
「中年女に囲われてるって本当か? あのカム・ドライヴイン・シアターでいっしょだった女だろ?」
「そんなとこだ。」
「いいご身分だねえ。おまえ、こう見えてもけっこうしたたかだな。」
「なんとでも。」
「なあ、パーティやるんだ。今夜来ないか?」
「摩耶もいっしょか?」
「いや、呼んでない。金づるだぜ。やばいところは見せられない。」
「かわいそうに。」
「よく言うぜ、この悪党。今夜はファルンがいる。」
「男じゃないか。」
「だからさ、女も手配中だってば。」
「興味ない。」
「気晴らしに、たまにはいいだろう。」
「なんでここだとわかった?」
「ジョイスが『バイパス』で、パイプに行ったんじゃないか、って言ってたんだ。」
シュガーはしなやかなジョイスの体を思い出した。
「ニック、ジョイスのボーイ・フレンド知ってる?」
「あん? いるってことは知ってるけどな。どこのどいつかは知らん。おい、来るのか来ないのか、どっちなんだよ?」
「わかった、わかった。」
「Shoot! そうこなくちゃ。」
「留守電にメッセージを入れてくれればいいんだ。」
ニックはシュガーの顔をのぞきこむようにして言った。
「おまえさんは、ちゃんと会ってモノを言ってやらなくちゃ駄目なんだよ。」
「Pio the bud(マリファナ、消せよ)・・・・・」
シュガーはさりげなく声を落として言った。
ニックは慌てて捨てると足で砂の中に踏み込んだ。警官が巡回して来たのだ。
ニックは憎まれ口を叩いた。
「そのmuffler burns(キス・マーク)、なんとかしろよ。クッキーが見たら、コトだぜ。」
シュガーは鎖骨の上に手をやった。
「そんなに目立つ?」
「その中年、かなり欲求不満な女だな。」
「そんなにたくさん?」
「Minors(たいしたことない)・・・・・星の数ほどだよ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                                <続く>

<<シュガー<1>を読む


 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.