応募小説
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サテンの靴が履けたら
                          アギレ

 香港。
 気まぐれな亜熱帯。重たそうに息をする湿気。浮気な驟雨(スコール)
 あれから一年八ヶ月。わたしが女一人で香港に来てからもうそれくらい経つ。鬱陶しい雨季がまたやって来る。

 無駄。徒労。苛立ち。不安。そう、不安という言葉が一番ぴったりする。とりとめもない不安は、やがて漠然とした危機感に変っていく。
 東京では女性雑誌に、『あなたも香港で働きませんか』的な記事が日を追って多くなっている。エキゾチックな海外。女が曲がりなりにも自立して生きていく。そう書きたてられ、紙面に紹介されている女の子たちの実例や紹介記事を(めく)っていくうちに、わたしの心は痛々しく叫んでいる。
 『そうじゃないの。わたしは違うの。』
 本当にそんなものじゃない。こんなに疲れてしまったわたしを、そんな雑誌しか見たことのない人たちの一体誰が想像できるだろう。
 わたしは愛していた。愛されたかった。結婚もしたかった。それが実は、男を追いかけてここまで来たわずかな理由。

 彼の名は(リキ)。同じ銀行で為替のディーラーだった。同じ部署で総合職のわたしとは競争相手でもあった。あのときわたしは二十八。彼はちょうど三十。二人とも独身。総合職の女は近寄りがたいと、最初会ったときに言われた。わたしは自嘲気味に笑った。セミ・ロングの髪。少し痩せた体。色白でちょっと堅そうな顔つき。けして自信はないけれど、悪くはないと思っていた。彼はどちらかというと若々しい筋肉質の体。悪戯っぽそうな表情からは、むしろわたしより年齢が下に見えた。

 結婚なんて、恋愛なんてと思っていた。選ばれた総合職という気負いがわたしを仕事に追い立てていた。いつしかわたしは同性の間で、一人意味もなく老いていた。年齢じゃない。とも思っていたが空しかった。力が為替の部署に入ってきてから、若いOLたちは色めきたった。わたしはその実、彼にどんなに惹かれていても、なすすべもなくただそれを見送っていた。ところが力が選んだのはこのわたし。もう有頂天だった。(せき)を切ったようにわたしはそれに応えた。
 『君は大人の女だから。』
 わたしにとってこれ以上の賛辞はなかった。知的であること。自立していること。仕事にも張り合いが一段と増した。週末を含めて会わない日など一日もなかった。わたしは夢中で力を愛した。三十前の微妙な時期。まるで青春を取り戻そうとするかのように。貪るように。
 
 そこへ襲った力の香港転勤の辞令。目の前が真っ暗になりそうだった。そんなわたしに彼の言葉は生命を与えてくれた。
 『君も一緒に来れたらいいのに。女の人の仕事って向こうにはないのかな。』
 半年後、わたしは銀行を辞めて旅行会社に転職した。香港駐在の女性を求人していたのだ。はやる気持ちをそのままに、すぐに力の後を追った。驚かせようと思い、事前には連絡しなかった。あてがわれたこのアパートに入ってから彼に電話した。力の声は驚きの中にも当惑の色を滲ませていた。体中の血がいっぺんに引いていくのが自分でもわかった。
 『君は大人の女だと思っていたんだけど。』
 その一言が冷たく響く。迷惑なの? 大人の女って、男にそんなに都合のいい女のことを言うの? わたしはすんでのところで、『わたしはあなたのなんなの?』といいたくなるのを胸の奥に飲み込んだ。

 香港島にある湾仔(ワンチャイ)の繁華街から丘の中腹へ上がったところにわたしのアパートがある。ケネディ・ロード。ワン・ルーム。木の床。真っ白な壁。目も眩む摩天楼を通して、くすんだエメラルド・グリーンのビクトリア海峡を見下ろせる。スター・フェリーが行き交い、日曜日にはたくさんのヨットが揺れる。細い海峡の向こうには九龍半島の雑踏、時計台、植民地風のペニンシュラ・ホテル、啓徳(カイタク)空港も見える。過密な時間帯には一分に一機が離着陸する。
 初めての旅行会社の仕事にも三ヶ月で慣れた。目が回るような忙しさ。日系企業の駐在員を相手に、航空券や宿泊など、ありとあらゆるスケジュールをさばいていく。くたくたになったわたしを、それでも力は毎週末には愛した。
 一年八ヶ月。出張の多い彼は仕事にかこつけては足が次第に遠のく。ふと振り返ってみると、『愛している』とも、『結婚しよう』とも、力の口から聞いたことがないのに気づく。わたしは寒々としたものを感じる。失う恋よりも、今まであったものが突然無くなってしまう空白感のほうが恐ろしい。言葉は声を忘れようとし、欲望だけがかえって募る。力の体を求めていないと気持ちが休まらなくなる。男のやって来るのが一週間に一回から、二週間に一回になり、やがて一ヶ月に一回。わたしは前にもまして哀しく、狂おしく力を求める。それは体がつながってなければ自分に自信が持てなくなったわたしの姿。自分の女という性にも、恋や愛にも、そして仕事にも、あらゆるものに確信が持てなくなった証拠。ハン・スーインが一九九七年に中国へ返還される香港を、『借りものの土地。借りものの時間。』と呼んだ。香港だけじゃない。そこにいるわたしもまるで借りものの世界に不確かに生きている。仕事が惰性になる。自立する女なんかじゃわたしはない。

 今夜も男はまるで義務でも果たしたように納得した背中を見せて帰っていく。もう泊まっていくこともない。アパートに一人残されたわたしは、声もなくベッドにうずくまる。わたしの行為が切なくなればなるほど、男の気持ちは醒めていく。前触れもなく訪れた孤独。瞳を閉じてはいけない。涙が零れてしまうから。
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 レパルス(ベイ)。香港島の南岸。水上生活者(タンカー)帆船(サンパン)や、マリーナ・クラブのヨットがひしめくアバディーンを、複雑な海岸線に沿ってさらに南へ。こじゃれた別荘。ヨーロッパの佇まい。やがて大きな入り江が見えてくる。タクシーでアパートを出たときには、湾仔(ワンチャイ)のあたりは視界が十メートルほどに落ちる濃霧。山を越えてここまでくると、薄雲の裂け目から漏れたスポットライトのような陽の光が、海のテーブルに溶け出している。戦前からあった由緒あるレパルス・ベイ・ホテルはもうない。一部だけ残して、『ヴェランダ』というレストランになっている。清潔な白い壁。落ち着いた木の匂い。体に染み付いてしまいそうな郷愁。植民地の洋風建築は、本国にあるとき以上にそれがヨーロッパであることを主張する。テラス越しにレパルス湾が見える。カサブランカ・ファンがゆっくりと大きな円を描く。キッシュやスコーンと一緒にお洒落な紅茶のセット。いい気持ち。

 奈々。香港で一番仲のいい友達。もう五年もここにいる。彼女の姉が香港人と結婚している。奈々はしばらくやっていたOLを辞めて、姉を頼ってやってきた。義兄はアパレルの工場を経営している。羽振りがいいらしい。奈々は最初何もせずフラフラしていたが、そのうちに航空会社の地上サービスを勤める。その後はホテルのセールス・プロモーター。日本語教師。日系企業の秘書。何度も仕事を変える。今は広告代理店。仕事だけじゃない。男もずいぶん変えた。それもみんな黒人。きまってバンドをやっているミュージシャン。
 『闇が体の中を熱く通り過ぎていくような快感』と彼女は言う。彼女もけっこう長身で、男のように骨太の体。くっきりとした目鼻立ち。長い髪をひっつめていることが多いから、年齢以上に見られる。本当はわたしと同い年。
「マークと結婚するの?」
 反則だった。この種の質問は、男がしたらほとんどセクハラと同じ。でもそれは女にも言える。奈々でなければ、このわたしの意地悪な問いに、『余計なお世話』と腹を立てたろう。既婚者に『子供はまだできないの?』というのもそれに近い危うさがある。女が女にするときは、男以上に露骨な残酷さがある。
「さあ、どうかしら。」
「優しい?」
「日本人よりはね。」
「そのていど?」
 奈々はふだんから結婚なんて考えていないとうそぶく。結婚になにも期待していないと。結婚生活の慣れが今からもう見えてしまう。やがて、『彼が最近構ってくれない』とか、『全然わたしの話を聞いてない』といった、お定まりの愚痴を言うようになる自分が恐ろしい。わたしはふと考えてみる。じゃあどんなふうに優しくされたら満足がいくのか、と。具体的な答えは何ひとつ出てこない。
 若いうちは女だというだけでちやほやされる。そして結婚すれば、絵にかいたような幸せが手に入るという幻想。
「いいわけないよ、結婚なんて。」
 奈々は冷めた紅茶のよう。
 でもわたしは知っている。どんなに強がりを言っても、奈々は夢を見たがっているということを。奈々は自分が誰で、どこから来て、どこへ行こうとしているのかを知らない。生き急ぐ焦燥。自分のこともわからないのに男を理解できるわけもない。彼女は目に見えない結論を手探りしてる。そして今、闇のような肌に一瞬の夢を見る。
「恋も数をこなせば、呼吸がわかるものよ。」
 奈々はしたり顔。捨てられて、また恋をして。性懲りもなく黒人のリズムが肌に合うと思い込む。
『黒人が哀しそうな表情をするとき、誰よりも哀しい瞳をしている。』
 それが奈々の口癖。そして世界中で一番哀しそうな瞳をした黒人にまた捨てられる。
『女を見る目がない男だって思えば何でもないわ。』
 お伽話を読み続ける奈々。
 今の恋人のマークは銅鑼湾(コーズウェイベイ)の繁華街にあるエクセルシオル・ホテルの地下、ディケンズ・バーに出ている。以前の恋人アランのときは、アパートにマリファナはおろか、アイスまで持ち込まれて大喧嘩した挙句、アランはクールに出て行った。たまたま恋人が黒人だったとしても、なぜいつも黒人でなければならないのか。奈々から納得のいく答えを聞いたことはない。マスコット感覚、ファッション、自分は人と違うと思いたい気持ち。エスニックな皮膚感覚。薄弱な接点が無理な恋の不協和音を奏でる。
「ねえ、いいビジネスない?」
 奈々の起業家精神。いくつかアイデアを出して、とにかく始めてはみるが、いつも失敗。
「お義兄(にい)さんのアパレル工場で新機軸を探しているのよ。いいプランだったら、わたしにマネージメントをやらせてくれるって。」
 アパレル。ファッション。気軽なようで、容易ならない分野。それは夢の日常化。こうだったらいいのにと思うことを、手の届くところへ引きずり降ろすこと。
「高価な(シルク)を日常化してみたら?」
 わたしは思いつきを言う。
「たとえば?」
「絹のハンド・タオル。肌にいいって。」
 奈々は気に入ったようだった。
「小さなジュエリー・ポシェットもいいかもしれない。指輪とかピアスとかを入れたりするの。一つずつ入れるようにしたら?」
「ねえ葉子。力のこともうあきらめたら? 別れたほうがいいよ。」
 突然、奈々はわたしの一番敏感な部分に触れた。わたしは踏み切れない自分を思い出してまた嫌になる。
「若くないもの。そんなに冒険できないわよ。」
「若くないから、よけいもっとリスクを取らなくちゃいけないんじゃない? いつまでもシンデレラじゃダメよ。」
「わたし、べつに綺麗なガラスの靴なんかでなくていいの。繻子(サテン)で十分だわ。わたしなんか。」
「ガラスより丈夫だし?」
 奈々が皮肉を言う。
「夢ほど確かなものはないかもしれないけど。・・・・・」
 わたしは一人つぶやく。冷めたダージリンが笑ってる。
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 ケネディ・ロードのアパートへ帰ると、ベリンダがフロアに座り込んだまま電話をしている。まだ十六歳。年齢を偽ったフィリピン・パスポート。長い髪を輪ゴムでポニーにしたベリンダは、香港でメイドの出稼ぎをしている。今は、とある香港人の家庭に住み込み。月に四万円ほどのお手当て。それでも本国では大変なものらしい。フィリピンでは大学出でも月に二万円が相場だとか。クリスマスに里帰りをすると、見たことも聞いたこともないような遠い親戚まで空港に迎えに来るといって、ベリンダは苦笑する。
 本当はわたしはメイドなんか使いたくない。友人のたっての頼みで日曜日に三時間ほど来てもらっている。申し訳ていどのお手当て。おかげでわたしは、食器洗いも洗濯も掃除も、すべて放りっぱなしのルーズな女になってしまった。
 ベリンダは労働で締まった体。褐色の艶。スペインの血が混じった深い、憂いを漂わせた顔立ち。ふとしたときにわたし自身、はっとしてしまうような哀しい美しさ。
 ベリンダは香港人の家庭で働くのが嫌だという。休みなく働かされる。食事にしても家族が食べ終わった後、なにも残っていないことが多い。だから仲間のフィリピーナたちは皆、リズナブルな白人家庭か、逆に気をつかってくれる日本人家庭で働くことを望んでいるらしい。
 彼女の以前の雇い主から一方的に解雇を言い渡されたので、ベリンダは一時路頭に迷った。訴えでるわけにもいかない。不法入国者だから。メイド仲間のツテで、ある日本人家庭にしばらく居候させてもらっていた。夫は二十代後半。けっこう色男(ポギ)だとベリンダは自慢する。妻のほうはお産で日本へ帰っていた。今の雇い主のところへくるまでほんの二ヶ月くらいの話だ。
 その男は商社勤め。よく飲んで帰ってくる。その夜も酔っ払っていた。ベリンダは残りの洗濯をしていた。男は自分でウィスキーの水割りをつくって、ベリンダの後ろにやってきた。
「新しい雇い主はどう? 見つかった?」
「ええ、今月中に移ります。ここにしばらく置いていただいて、本当に助かりました。」
「今度はどこ?」
北角(ノースポイント)です。」
「たまには遊びにおいでよ。」
「いいんですか?」
 ベリンダは目を丸くしていたずらっぽく笑う。彼女は結婚こそしていないけれど、実は一歳の男の子がいる。ベリンダの腰に後ろから手を回す男はそれを知らない。彼女はされるがままに抱き寄せられながら、洗濯物をいじっている。髪をかき上げたうなじにそっとキスをされる。一瞬ベリンダはびくっと体を震わせる。小さな声が一応の抵抗を試みる。 
「だめ。お願い、やめて。」
 それでも体はもう男に応えている。ずいぶん長いこと男の体に触れていない。いい暮らしをしている日本人妻への(ねた)み、(そね)み。夫は今、自分に迷っている。なにか自尊心をくすぐられるような快感。化粧もしていない若い女の汗の匂いが男の舌にからみつく。
 急にベリンダは我にかえる。慌てて体を引き離す。
「奥様に知れたらどうします? だめ。」
「誰が言いつけるんだい?」
 男は構わず抱き寄せる。
「いいえ、・・・誰も・・・」
 やがて中性洗剤の匂いがベッドの上に広がる。彼女は男に味わいつくされながら、手を伸ばしてサイド・ボードの上にある妻の写真を伏せた。そして暗がりの中で、彼女はにやりと笑う。男はそれに気づかない。・・・・・・・・・・・・・・・
 エアコンもつけなかったので、二人とも汗だくになっている。男が終わった後、ベリンダはベッドに起き上がり、じっと見つめる。
「どうして、わたしなの?」
 男は答えない。
「遊んでいるだけだってことは、わかってるの。」
 女の野生が瞳に輝いている。
「そんなことはないよ。」
 男はいつも否定形を使う。男の狡さ。ベリンダは十字を切って、男の腕の中へ入る。
「移っても、ときどき電話していいですか?」
 言い訳も付け加える。
「けして迷惑はかけないわ。」・・・・・・・・・・・・・・
 めくるめくような数日が過ぎ、ベリンダは今の雇い主のところへ後ろ髪を引かれるような思いで出て行った。暇を見つけては男に電話する。わたしのところでアルバイトを始めてからは、もっぱらここから電話をする。基本料金だけで、何時間かけても同じ。
 フロアに座りこんだまま、ベリンダは小さな声で話している。彼女自身の言葉はほとんど聞き取れない。せいぜい、『迷惑はかけないわ。』くらい。わたしはそっと彼女の横を通り過ぎ、ベッドに寝転がる。もうとっくに読み終わった女性雑誌を広げる。ベリンダが鼻をすすっているのが聞こえる。
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 香港。東京の面積の半分のこの町に、東京の半分の人口がいる。日本人の駐在員とその家族だけでも三万人はくだらない。フィリピン人は六万人もいる。そのほか、イギリス人を筆頭に、アメリカ人や欧州人たち、そして毎年中国大陸からやってくる不法入国者。何十年もの間、ひっきりなしにやって来る彼らのおかげで、香港の男女の人口バランスは決定的に崩れてしまっている。香港女はお高くとまっていると評判が芳しくない。一九九七年に中国に返還されれば、この問題もさすがに無くなるのだろうか。
 わたしの客にたくさんの韓国人女性がいる。みな夜総会(ナイトクラブ)やカラオケで働いている。多くは、その筋のブローカーの手配で香港人男性と偽装結婚をしている。ビザを手に入れて、香港に入国する際、一度だけ『夫』に会うものの、それ以降は二度と会うことはない。『夫』も彼女に会うことを厳に止められている。彼女たちは毎月十万円以上のコミッションを払う。結婚という紙切れを、紙切れ以下のものにしてまで生きることに執着する彼女たち。その一方で、不倫であろうと、相手が独身の男であろうと、身を焦がすような激しい恋をし、献身的に尽す彼女たち。お金をくれる男にはいくらでも体を奪われることを惜しまないくせに、好きな人からはお金が取れない。そして殺意に近い嫉妬。世界が違うではすまされない逆説のエロス。目が回りそうな価値の転倒。前近代的な植民地というこの町のアイデンティティの無さが、それぞれの人をむき出しのままにしてしまう哀しさ。自分は誰なのかをいつも自分に問いかけていなければいけない緊張。わたしはときに振り返る。そしてそこには誰もいない。わたしはまた歩きだす。どこへ? いったい誰のように?
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 甘く、危険な香り。わたしは思い出す。三つ上の従姉(いとこ)。そのとき従姉は音大の一年生。わたしはまだ高校生。昔から彼女に憧れていた。
 ある日、従姉が家に遊びに来ていた。わたしの両親は不在。
 わたしは雑誌を読んでいた。『なにを読んでるの?』と彼女がのぞきこむ。振り返ったとき、わたしの唇が彼女のに触れる。偶然? 一瞬の出来事。なぜか耳を赤くしたわたし。やり場のない羞恥心と溶けてしまいそうな感覚。
 その夜、両親が帰って来てからも、一言も彼女に声をかけられなかった。狭い家だったからベッドはいっしょ。両親が寝静まってから、従姉が小さな声でわたしにささやく。わたしは当惑と期待のあいだで胸が張り裂けそうになる。沈黙は微熱を帯び、体が固くなる。彼女はわたしが寝てしまったと思い、優しく唇にキスをする。わたしは汗ばんだ自分の手を握り締めたまま、青白い月の軌跡を追い続ける。・・・・・
 従姉は音大を出た後、ほどなく商社勤めの男性と結婚した。本人はあまり気乗りしなかったらしいが、周囲にすすめられたようだった。夫の任地であるバンクーバーへ渡り、やがて離婚。理由はわからない。夫はその後帰任したが、彼女は残った。駐在員の子女や現地の子供たちにピアノを教えて暮らしていた。たまに日本に帰ってくるときには、自由気ままにやっている様子が以前より楽しそうに見えた。勝手に一人で休みをとっては、知り合いの女性たちとヨーロッパへ何度も旅行していた。不思議だったのは、男性の噂がないことだった。あんなに綺麗だったのに。英語だけでなく、フランス語やドイツ語もできた。性格はとても女らしかった。
 三年が過ぎ、そんな気楽な生活をしながら三十歳になろうかとしていたある日、従姉はピストル自殺をした。女らしく、頭ではなく胸を撃ち抜いていた。検証の結果、他殺の線は消えた。病もなく動機はわからずじまい。従姉はきっと自分を愛せなくなっていた。あるいは愛する手がかりを失ってしまった。可哀想な従姉。でもそれは女なら誰でも無意識に引きずっている心の陥穽(かんせい)
 女に内在する危機とは、女であることを自分が愛せるかどうかということ。従姉がレズビアンだったかどうかはわからない。でも極端な話、レズビアンにとって女性喪失はほとんど自己否定以外のなにものでもない。ブッチとフェミという役割は便宜上あったとしても、最終的にはやはり女として愛し愛されたい。お互いに女だという甘美な誘惑も手伝うかもしれないし、男というものへの悪夢のような思い出がそれに拍車をかける場合もあるだろう。でも結局、相手の女性は等身大の自分自身。それは自分のいとおしい似姿。ちょうど少女が人形を慈しむように。もしもそれすら裏切られる結果になってしまったら? 女であることの存在に意味という価値を与えようとする重大な希求。女にとって誰にせよ愛されるということは、自分だって思い切り生きていいのだという確信に続く。この希求に応えることができず、その苦悩さえも気づかずに、ただ体を通り過ぎていくだけの鈍感な男たち。湖面に浮かんだ頼りなげな月が、ありもしない自分の軌道を揺れながらさまよう。女性という世界の無限と、錯覚しそうなほどの不確実さを、たった両の手でつかもうとする焦燥。それともシンデレラを夢見る幻想? 生きる欲求のない人には、死の動機もけしてありはしない。死のうとする人は、いつもみんな本当は生きてみたいと思っている。
 従姉の場合、ふと視点を変えてみたらどうだろう? 彼女はクラシック音楽の世界に生きていた。ジャズやポップスのように日々新しいものに取ってかわられるものではない。それは過去の世界。旅行する先はヨーロッパだけ。それもすでに終わった世界。もしも彼女が日本に帰ってくるとき、南回りでアジアに寄っていたら? トランジットでもいい、ストップオーバーでもいい。この生き馬の目を抜くようなボンベイやバンコクや香港の町並みの喧騒と雑踏をほんの少しでも知る機会があったなら、きっと相当のショックがあったかもしれない。自分を生み出したこの世界には、自然と生かす力もあるのだ、ということにもしかしたら気づいたかもしれない。
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 佳代。二十六歳。レイヤー・カットがよく似合う。華やかなイメージに男はみな振り返る。電器メーカーに勤める夫に伴い、この香港へ。最初の頃、『夫とうまくいってない』とよく愚痴をこぼしていた。やがてコンピューターを買い込み、女性用下着を作り始めた。それぞれの体型に合わせて、よりよく見栄えがするようにコンピューター・グラフィックを駆使するオーダーメイド。なりふり構わず夢中で一年。夫とは別れた。そのうち彼女は小さいながらも銅鑼湾の雑居ビルにアパート兼オフィスを持つ。香港人の従業員も二人。はじめは日本人駐在員のあいだで客層が広がっていった。口コミでいつしか白人女性の客も増えてきた。その一人、イギリス人女性のイヴリンと仕事を超えて親しくなる。イヴリンは佳代の冒険を高く評価してくれた。夫でさえ鼻白んだのに。イヴリンはこう言った。
『あのボディ・ショップだって最初は、イギリスの倦怠期を迎えた子連れ主婦が一から始めたのよ。あなたならきっと成功するわ。』
 佳代は何度となくイヴリンに励まされ、アドバイスを受けた。イヴリンは二十八。ウェイヴがきいたブロンドのセミ・ロング。碧い瞳。白人には珍しい清楚な顔立ち。イギリス系証券会社の金融アナリスト。何度かイヴリンがサイズの合わせで来店するうちに、いつしか緊張していく無意識な肌の接触。挨拶がわりのキスは、やがてその時間が長くなり、甘さは濃厚になっていく。ある日の午後、ミッドレベルのアパートへお茶に誘われる。佳代はイヴリンに対して、どうしてもぎこちない自分に自信が持てない。今まで想像もしなかった世界に、迷いが交錯する。ただイヴリンにはロンドンに夫も子供もいることが、妙な安心感を与えていた。
 夏の日の午後、エアコンが静かな寝息をたてている。粘膜がけして聞こえない言葉を伝えようとする。締めつけられるような興奮と、すべてを知り尽くされてしまうような幻覚。さざ波のようにゆっくり押し寄せる高まり。とても大切なものを今手に入れている、そんな午後。・・・・・・・
 たまに佳代と飲茶をすると、このイヴリンとどんなふうに愛しあったかを聞かされる。イヴリンが女性と愛し合うようになったのは、子供が生まれてからだという。後から後から佳代は話してきかせる。たまには、シリコンのディルドーを使うこと。二人で計画しているモルディブ旅行のこと。同棲しはじめてからお互いがリスペクトすることがなにより大切だとわかったということ。今では、どちらかが何の責任を分担し、今度は誰の番、といったような分け方をせず、あくまで二人が必要なときにすすんで手を差し伸べるようになったこと。・・・・今でも、気が遠くなるような長い夜を二人は過ごす。メルトダウンしていく不安。コカインの白さにも似た哀しい歓び。わたしが『幸せ?』ときくと、佳代はちょっと首をかしげてにっこりと微笑む。『安心なの。』・・・・・・・

 夏。一番香港らしい季節。殺人的な暑さと湿気。もう息もしたくない。
 朝、いつものようにわたしはケネディ・ロードを下る。メソジスト教会の脇を通って、湾仔へ。耳を覆いたくなるような騒々しさ。鶏粥(ガーイチョク)の湯気。油條(ヤウチャウ)を揚げる匂い。飲茶の賑わい。(さば)かれた豚や鶏の惨劇。ガルーパやロブスターを満載した竹籠の間を通り抜けて、ジョンストン・ロードまで歩く。二階建ての路面電車(トラム)に乗ってオフィスのある中環(セントラル)地区へ。路面電車はこれでもかこれでもかと路上に張り出す赤や緑の看板の間をすり抜けていく。
 (みお)。二十一歳。学生風のボブカット。小柄だけれど挑発的な体つき。小悪魔のような笑顔。オフィスではわたしを姉のように慕っている。
 一年浪人したが、日本の大学はどこも受からず、親が金を出して中国へ語学留学。語学がもともと好きなわけではなく、単に英語ができないから、変ったところで中国語を選んだ。折からの中国ブームで就職に有利と踏んだにすぎない。結局は遊学。それが思いのほか、難しい言葉なのにショックを受け、たちまちやる気が失せた。英語どころではない。澪は半年で匙を投げた。おまけに北京に東京ではあたりまえのような遊び場がない。けっきょく一年もたたずに学業放棄。大陸を南へフラフラしながら、所持金をすべて使い果たしたのが香港だった。中国語がすこしわかりますという触れ込みでわたしのいる旅行会社に飛び込んできた。以来、わたしの妹。
 九龍の重慶(チュンキン)マンションとはいわないまでも、かなりくたびれた雑居ビルに間借りしている。表通りに面した鉄格子。部屋の前にまた鉄格子。内側にある厚い木製のドア。『鍵の重さで疲れちゃう。』といつも不平を漏らす。
 香港に進出している日系の大手スーパーに二十五、六歳のボーイ・フレンドがいる。彼氏が澪に夢中らしい。冬でも二人でジェットスキー。だからいつも真っ黒に日焼けしている。もっともふだんは四十代、五十代の、おもに妻帯者の男たちを相手に、いわば援助交際をしているけれど。むしろ彼女にとってはこちらの方が本業らしい。単身赴任の建設会社のプロジェクト・マネージャー。商社の部長クラス。日本料理屋の板前長。香港に生産拠点を移した玩具メーカーのオーナー。数え挙げたらキリがない。だから平日の夜と週末のスケジュールは複雑怪奇を極める。
 『セックスなんて、握手と同じよ。』
 あっけらかんと言ってのける澪の顔にはいやらしさなど微塵もない。それが証拠に、二言目には『将来はこういう人と結婚してぇ・・・・』などと、行動の無軌道さにしては案外保守的な人生設計。感性と発想の乖離。うつろなアンビバレンツ。『こういう人』が本当に現れたとき、彼女はその見分けがつくだろうか。虚構と錯覚と冷静なもう一人の自分の間で、どれが生身の呼吸だったか忘れてしまわないんだろうか。遊び。実益を兼ねた遊び。その割り切りも、半ば本気で半ば浮気。『遊んであげてるつもり』でも、実は遊ばれている。それがわかっていて、『ま、それもいいかな。』と結構楽しんでいる。不倫の痛みなどあっちの世界。食事をおごってもらっただけ、『お返し』に寝る。その後の甘えや我がままのハウトゥーはもうほとんどプロ級の腕前。どうすれば男が金を使いたくなるかを、この若い娘は熟知している。あのときもまるで死にそうな表情で、『もっとして。・・・めちゃくちゃにして!・・・』と男を有頂天にする。『あなたのもの』とか、『あなたにあげる』とか、自分を上手に商品化すれば男が夢中になることを十二分に計算する。なにかのことで揉めたら、まず泣いてみる。たとえば子供のころ可愛がってた犬の死の情景を思い浮かべてみる。自然に涙が出てくる。すると本当に悲しくなってくる。男がひるむ。その機を逃さず男の体にしがみつく。そして翌朝には、『えへへ・・・』と笑って舌を出す。腕にはカルチェの時計。・・・・『男って、寝てさえしまえば、自分のものだって思うんだから。本当に精神が貧困ね。』と言う。そのたびに、わたしはまるで自分が批判されているような気がして嫌な感じ。澪に言わせれば、わたしなどは『性愛の癒着』以外の何ものでもない、ということらしい。でもわたしは知っている。そんな娘でも、結局一人の男を待っていると。自分に暖かく関心を持ってくれる男を。真剣に怒ってくれる男を。その男の熱で思い切り病んでみたい渇望が、大きな瞳の奥で静かに息づいている。
 その日、カウンターまで航空券を取りに、一人の男がやってくる。修平。三十二歳。外国通信社の契約カメラマン。なにかと噂の絶えない男。以前からわたしが受け持っている。用が済むと突然、今夜空いているかと聞く。わたしはいつも空いていると笑って答える。スタンレイズを予約したと彼は言う。
「もしわたしが断ったらどうするつもりだったの?」
「失うものがないんでね。」
 修平はこともなげに言う。芥子(からし)色のTシャツにアイボリー・ホワイトの麻のジャケット。洗い晒しのブルージーンズ。ライカをいつもはなさない。日焼けした胸元が汗ばんでいる。
 わたしは快諾する。修平は、得たりという笑みを残して席を立つ。すぐ澪がわたしのところへ飛んでくる。
「あの人が修平さんですか? 素敵じゃないですか。かっこいい。フリーのカメラマンって。」
 澪はもう完全に獲物を追うような目になっている。まばたきもしない。出口のドアを一歩踏み出していた修平が、半身を戻して吐き出すように言う。
「冗談じゃない。ハイエナ同然だよ。」
 澪は修平の後姿に釘づけ。
「ねえ、葉子さん。あの人いいじゃないですか。チャンス、チャンス。デートの約束でしょ?」
「彼、女に不自由してないわ。そういう男は願い下げよ。」
「そうかなあ。もったいないと思うけど。」
「澪ちゃん、モーションかけてみたら?」
「え、いいんですか?」
 澪はもうその気になっている。
「お好きなように。」
「明日、教えてくださいね。今夜のデートのこと。」
「いいわよ。」
「約束ですよ。」
 澪の目がすわっている。
 男のポロの匂いが爽やかに残る。

 スタンレイズ。レパルス湾よりもっと南へ。落ち着いた小奇麗な洋風海鮮料理店の屋上のテーブルを一卓。修平とわたしの世界が始まる。
 降るような星たち。修平とは今までに、何度も複数の集いで食事をしたり、お酒を飲みにいったりしたことがある。二人だけなのは今夜が初めて。いいお友達のつもりだった。
 楽しいお喋り。キャパやサワダ、イチノセ。インドシナ戦線に倒れていった伝説的なカメラマンたちの名が、修平の口から語られる。ファインダーからのぞく戦場の風景には、恐怖もヒューマニズムもない。指は夢中でシャッターを押し続ける。かすめていく実弾のことはまるで意識の外。衝撃的なワンショット。それが欲しい。そのくせ、ファインダーから目をはずすと、たちまち震えに襲われる。
「だから、ハイエナと言ったのさ。」
 修平が自嘲気味に笑う。
「でも、ほんとうは・・・・・」
 修平は続ける。
「本当に撮りたいのはそういうものじゃない。取り敢えず食べていくのに、まずビッグ・ショット。あとは好きなものを撮っていきたいんだよね。」
 修平はこれまでに、インドネシアからの独立闘争をするティモールや、フィリピンはミンダナオで抵抗する回教徒のアジトを訪れたりしている。ほかには、スリランカの内戦。カンボジアのクメール・ルージュ。血の匂いを嗅いではライカをつかんで海を越える。
 そんな修平が本当に撮りたいもの。それはアジアに残るヨーロッパの残像と余韻。植民地にやってきた冒険者たちのたそがれ。沈黙する栄光の残り香。たとえば中国。東北部のハルビンは白系ロシア人たちの町。今でもロシア聖教会が残る。太陽島と呼ばれるところには荒れ果てたロシア人たちの別荘が残っている。上海の旧英仏租界。青島(チンタオ)天津(テンシン)武漢(ウーハン)廈門(アモイ)、広州にもドイツや英仏の町並みが残る。インドのディウやゴアはポルトガル人の町。タイのプーケットもポルトガル人の町。スリランカの南端にあるゴールはポルトガル、オランダ、そしてイギリスの支配の面影が残る。マレーシアのマラッカはわたしでも知っているオランダの町。インドネシアのジャカルタには今はもう使われてもいない運河のそばにオランダ時代のオールド・バタヴィアがある。ボルネオのクチン市内を流れる河沿いにはイギリス時代の商館が立ち並ぶ。そして、フィリピン全土には何百というスペイン人たちの建てたカトリック教会が、あるものは未だにミサを行い、あるものは放棄されて密林に取り残されている。わたしもガイドブックで見たことがある。ビコール地方のレガスピにマヨンという富士山より秀麗な火山があり、何度か大爆発を繰り返した。何世紀も以前、オールド・レガスピはポンペイのように火山灰に埋もれ、カグサワという教会の尖塔の部分だけが、荒野に突き出している。・・・・・・
 修平が撮りたいのはそうしたかつての征服者たちの忘れられた哀愁。修平の目は遠くを見ている。初めてわたしもそれに吸い込まれてみたいと思う。
「あなたがうらやましい。なにをしたいかはっきりしているから。」
 それは本音だった。わたしは自分を確定できないでいる。
 結婚? 結婚できるときがくれば、それが適齢期なんだと今では思うようにしている。でも、結婚すれば、当然のように幸せになれるなどと考えてはいない。ただ結婚という外からの変化にしか頼ることのできないわたしが残っている。
 新しい恋をする? また始めからやり直し? 出会って、お友達になって、デートの約束を取りつけて、仕事や趣味の話をしながらお互いに観察しあい、相手の家庭の事情を吟味する。癖や考え方の違いをバランスにかけ、あとは押したり引いたりの駆け引き。いつしかごく自然な成り行きを意識しながらベッドイン。気の遠くなるようなプロセスと途方もないエネルギーの消耗。それを考えると、もう思い浮かべるだけで疲れてしまう。
 わたしの話をじっと聞いている修平。その眼差しが透き通る。わたしが言葉につまる。そのとき修平がふと漏らす恋の告白。予想はしていても沈黙に押しつぶされそうになる。わたしはようやくの思いで言葉を手繰り寄せる。
「お友達じゃだめ?」
「もうお友達だろう?」
「その先へすすみたいの?」
 修平はわたしと力のことを以前から知っている。だからずっと黙っていた。そして、今ある種の判断をしたんだろう。
「誰とだって寝てきたくせに。」
 わたしは苦し紛れに逃げる。
「誰とだって寝れる。でも好きでもない女の料理は食えないし、編んでくれたセーターだって袖を通せない。」
「あなたなら誰がお料理をつくってくれても食べれるわ。」
「食べれても、味がしない。」
「遊びのつもり?」
 そう言ったわたしは、自分がかえってみじめになったような気がして、つくづく馬鹿だなと思ってしまう。
 修平はどこか興ざめしたような表情になる。
 男からアプローチされると、きっと体が欲しいだけなんだと警戒してしまう。もしかしたら、性を過大に評価しているのは女のほうかもしれない。自分の体を求められていることに、わたしはどうしても素直に喜べない。
「先にお友達になっちゃったのがまずかったかなあ。」 修平はそう言って、体を伸ばす。 女は結婚して家庭に入るという『大義名分』があるから、自立する責任から逃れることもできる。それはきっとなにかを恐れる気持ちからきている。
 わたしはもう働くのが嫌になっている。東京にいたときにはこうではなかった。働いていることが好きだった。たぶん今は、なんの目標もなく、ただ生きるために働かなくちゃいけないと思うのが、わたしはたまらなく嫌なのだ。
 結婚をしない女が特別新しい意識を持っているわけではない、と修平が言う。そういう女性でも長い生活の過程で、かならず何度となく恋をする。そしてそのたびごとに結婚しようか、それともしまいかの選択を迫られる。問題はただ先送りされているだけ。
 女が自立を求められ、自らもその意味を考え始めて久しい。けれどたとえ女が自立しようとしても、その育てられかたが自立を前提としていないし、社会もそこまでの自立を女に望んでいない。少なくとも日本では。どこまでも形の不確かな存在。どのような女になればいいのか、だれもその答えを用意できない。変るとすれば、そのことに気づいた女自身が変ろうとするしかない。そしてそれを支え、励ますことのできる男。
「僕はうってつけだな。」
 思わず噴出してしまうわたし。
「どうしてそんなに自信があるの?」
 わたしは不思議でならなかった。
「君なら、なにか成功したり、向上したりすれば、僕自身が嬉しいと思えるから。」
 簡単なこと。それが男にはできない。しようとも思わないかもしれない。もっとも女が自分で変ろうとしなければ、男にしたって手を差し伸べようもない。
 煮え切らないわたしに、修平が疲れている。隣の香港人カップルや、ひとつむこうの白人とフィリピーナのカップルも、どうしてあんなに輝いて見えるのだろう? わたしだけがスタンレイズ・フレンチの小粋な夜に沈んでいく。
「ごめんね。はっきりしなくて。まだわたし、だめね。」
 引きずっている。結果に真正面から向かえない。まるで自然消滅していくと思い込もうとしているみたい。もうほとんどこれまでのことは終わってしまっているのに。自分でもそう覚悟しているのに。次にすぐ乗り換えるような真似にも、いわれのない抵抗を覚えてしまう。『ずっとわたしのことを好きだったんなら、いっそのことすぐに奪ってくれたらよかったのに。・・・・・』弱音がそこまで出かかる。
「君の寝顔を見たいな。」
「だめよ。眠れる豚だもの。」
 大笑いする修平。白い歯。健康的な野生の色。
 夜のビーチ。さざ波がわたしの答えを執拗に急き立てる。サンミゲルじゃ酔えそうにない。


 翌朝。澪の興味津々な顔。いつもと違ってそれに腹の立つわたし。不思議な驚きだった。しつこい澪はあれこれと質問攻めにしてくる。わたしは笑って取り合わない。『たぶん、駄目じゃない?』と一言だけ。澪の、どこかしら責めるようなものの言い方と、しらじらしいエール。女同士の友達ほどこういうとき厄介なお荷物はない。強がり、見栄、偽善のいやらしさ、そして嫌みと騙しあい。わたしの胸のうちを射るような視線に、そんな予感がするのはただの気のせい? 
 澪は欲しければ何でもする。彼女がまだ高校生のとき、人気の男の子がいた。周りに群がる女子高生グルーピー。最初に彼の子を妊娠した人が彼の女になるという、冗談か本気かわからないようなゲーム。はじめのうちは、『ねえねえ、わたし昨日彼とハッピーしちゃった。』と競い合う遊びのつもり。でも、澪はただ一人本当に妊娠してしまった。怖くなる澪。そして中絶。付き添ってくれたのは、彼じゃない。学校の男の先生。いつしか今度はその先生と付き合い始める。そんな澪がときに羨ましい。生きようという焦燥感。夢を見たくてしかたがないのに、その夢の見方がわからない澪。だから息もできないくらい自分を感じようとして荒廃した行動の形態に落ちていく。非行とか、ドロップアウトとか言われても、それは彼女が間違っているわけじゃない。自分をもっと大切にしたら、などとはけしてわたしは言わない。痛みが大きければ大きいほど、辛ければ辛いほど、あなたの感性はずっとあなた自身に近くなっていく。もっと洗練されたものになっていく。あなたの生き方はたぶんそれでいい。それができないわたしには、それがどんなに羨ましいか。きっとあなたにはわからない。なにか美しいものに憧れてじれているあなたのまっすぐな瞳に、正直負けそう。三十になろうとしているわたしが、青春というのもおかしいかもしれない。でも言っておきたい。青春は優しさなんかじゃないと。人間ならみんな優しくなくちゃいけないから。青春はきっと自分を感じ取る力と、夢を見る勇気。病気なのはあなたじゃない。わたしたちのほうだ。修平に思い入れを募らせる澪を見ていると、次第に気力が萎えてくる。負けたくない。二十一の小娘に修平を取られたくない。でも、気持ちはいつまでも踏み切れずに一人でしゃがみこんでしまう。
 夏が佳境に入る。スコールが思い出したように寄せてくる。そのたびにわたしの喉はもっと渇いていく。まるで砂漠で息絶えた砂たちのよう。

 植物園。中環(セントラル)からミッドレベルの丘を上っていく。すぐに白亜の総督府官邸が右に見えてくる。アッパー・アルバート・ロード。向かいにその植物園はある。ジョージ王像のまわりには咲き乱れるハイビスカス。生い茂る樹木の間に亜熱帯という中途半端な色気が発散している。
 土曜日の朝。修平と二人で歩く。インドネシアにあるボゴールの植物園の話をしてくれる。圧倒的な雨量。晴れたら奇蹟だという。ボゴールにはまだほかにも奇蹟があるという。一メートルも生長してまさに大輪の花を咲かせながら、ほんの数日で枯れてしまうブンガバイカイ。日曜日じゃなければ、車で入れるらしい。今度二人でジャカルタへ行って、ボゴールでデートしようという。わたしは哀しそうに頷く。
 このままでいいの? 臆病になったわたしは、恋の仕方も忘れてしまった。涸れるほど涙があったら、どんなに楽だったろう。この男の胸を借りて大きくなる自分を想像してみる。そのイメージは定まることをしない。あとからあとへつくられていく喜びが見えそう。『売れ残っちゃうかな?』と半ば冗談で言うと、この男は不愉快そうな顔をする。女は認められて欲しいくせに、まるで自分をクリスマスケーキかなにかのように例える。それが嫌だとこの男は言う。
 貿易風が檳榔樹(ひんろうじゅ)棕櫚(しゅろ)の葉に囁いている。頼れる自分をさがしなさいと。恐れることを忘れなさいと。
スター・フェリーの汽笛がかすかに聞こえる。・・・・・・・・

 日曜日。修平とキャットストリートへ。そしてハリウッド・ロード。古い中国の茶器。年代物の家具。昔のロレックスの掘り出し物を探す。着色が褪せた古い香港の絵葉書。文化大革命のときに、隣の中国の紅衛兵たちが胸につけていた毛沢東バッジ。怪しげなスナッフ・ボトル。(ミン)代の青花(チンフォア)の陶器。わたしは白磁に藍色の青花が好きというと、修平が教えてくれた。鮮やかなものは本当の骨董ではないと。明代のものは藍色の模様が滲んだように焼き付けてある。技術が未熟だったから。今の技術は進みすぎて、その未熟な滲み具合を出せない。皮肉な技術な進歩。そういえばこの辺の青花はほとんど模様がくっきりと浮き出ている。みんな偽物。それでもいいんだ、と修平が言う。古かろうと、新しかろうと、好きなものならそれが君にとって一番価値があると。
 二人で蘭桂坊(ランカイフォン)まで下る。
「陸羽茶室にでも行ってみる?」
「飲茶? ポーレイ茶はおいしいけど、天心(ディムサム)は飽きちゃったわ。」
 どうしよう? レバノン料理? ロシア料理? それとも無難にカフェ・カリフォルニア? レストラン97? ジミーズ・キッチン? すぐに決まらないのがいつものわたし。汗だくになって坂道をグルグル歩く。結局飛び込んだのはインド料理の店。おなかが空いて、二人でナンの取り合い。セイロン風のココナッツ・ミルクがたっぷり入ったシーフード・カレー。黄魚(ウォンユー)はあまり好きではないけれど、海老といっしょにこうすると大丈夫。そしてマサラ・ティー。牛乳に紅茶を入れてぐずぐず煮立てる。砂糖をたっぷり入れて出来上がり。シナモンの匂いがくすぐったい。・・・・・・・・・
 夕方、アパートに帰る。気持ちのいい疲労。折り返しに修平から電話がはいる。
「また誘ってもいい?」
「いいわよ。どうしてそんなこと聞くの?」
「迷惑じゃない?」
「馬鹿ね。」・・・・・・・・
 力からは電話がない。わたしの方からはしないことを、力は知っている。これでいいの? このままで終わっても? どんな形でも後悔するのは嫌。次の週の水曜日、ローカルの男性社員がわたしの外出中に日本人の男の人から電話があったと告げた。『誰?』『名前は言わなかった。』わたしは力だと直感した。かりにそうでなくても、力だと思ってしまう。

 週末、銅鑼湾のカーサ・メキシカーナで修平の友人たちと集う。フィリピン人のバンドがラテンのナンバーで調子づける。
 サウス・チャイナ・モーニング・ポストの香港人の記者仲間。ナンシー・ウォンとピーター・ラウ。スイス人のローマンは投資顧問会社のファンド・マネージャー。アメリカ人のウィルはコンピュータソフトの会社勤め。フランス人のソフィーはウィルの恋人。銀行で働いている。ナチョスにグリーン・チリ。生チーズをたっぷりのせる。サングリアが甘い。ほかのテーブルの客も歌い、 踊る。
 わたしたちは中国の話題で湧き上がる。なにしろ、返還が数年先に迫っているのだ。
「九十七年以降の香港は変る?」
「変りはしないさ。」
「誰にもわからないわ。」
「五十年代の上海のような目にあるかしら? あなたたちはどうするの?」
とソフィー。ピータが首をすくめる。
「さあね。なにがあっても不思議じゃないからね。」
 ふとナンシーが漏らす。
「自分の民族のこと、こんな風に言うのは変だけど、とても物質的だと思うの。だいたいからして、共産主義なんかに不向きな民族なのよ。無理があると思うわ。中国にはね、子守唄(ララバイ)ってないのよ。誰がつくったか、まるでわからないような、昔から歌いつがれてきた、そういう子守唄がね。とてもこれって基本的で、芸術的な感性だと思うんだけど。それから民族舞踊もないのよ。」
「京劇は?」
「あれは自然発生的な民族舞踊とは違うわ。中国にはすごい技術はあっても、芸術ってないのよ。」
 ピーターが相槌を打つ。
「大陸の連中は二言目には五千年の歴史というけど、五千年経ってこのザマかと思うね。ナンシーの言う通りさ。なかなか気がつかない点だけど。ニューギニアの未開部族にも子守唄があるということを考えると、こういう部分は意外に中国という文化の決定的な弱点かもしれない。現実の効用だけにとらわれるという致命的な文化の欠陥さ。」
 中華思想という一言でくくられる中国人たち。ピーターやナンシーのように、香港という曲がりなりにも中国の外で生きてきた彼らには、冷静な視点が育まれている。日本人も同じかもしれない。日本の外にいるだけで、今まで気がつかなかったものが見えてくる。修平はそういう世界に身を置いている。フリーハンドの思考が赤い国境線を越えていく。人間関係は際限なく広がる。
 修平がふとつぶやく。
「このまえ、隣の広東省で竹の花が咲いた。新聞に載っていたろう?」
「うちの新聞よ。」とナンシー。
「半世紀に一度しか咲かないらしいね。」
「そう。竹は敏感だから、大きな環境の変化を事前に微妙に予覚するんですって。身がひきしまって、筍が地下茎から出てこなくなってしまうの。だから種の保存のために無理やり花を咲かせるそうよ。」
 ローマンが興味深そうに聞く。
「この前は、いつだったんだい?」
「日本軍の大陸侵攻の直前。」
「今度はなにかな?」
 ローマンは仕事が気になるらしい。
九十七年を前に、最後の植民地が揺れている。時代遅れのジャンクのあやうさ。・・・・・
 力からは今日も電話が来ない。月曜日にオフィスに電話をかけたのはあなたなの? このままで本当に満足? 今、一人の男がわたしの前にいる。それをあなたは知りたくないの?

 一週間経つ。
 修平の同じ仲間でピアからボートに乗り、西貢(サイクン)へ。複雑な内海。適当な入り江を見つけて、錨を下ろす。アイス・ボックスからいろいろな飲み物を取り出す。ナンシーやソフィーの手作りのランチ。ローマンは甲板でひっくり返っていても、ウォール・ストリート・ジャーナルを広げている。らしくていい。わたしも東京で為替をやっていた、というと、残念そうだった。でも、為替とは違った意味で、旅行会社だって世の中の動きがわかる。今、人や物がどこからどこへ移動しているのか。思惑ではなく、実態が見える。東京の仕事を捨てたことを今、後悔はしていない。わたしがどうしてここにいるのかという、もっと根本的な不安定さのほうがたまらない。
今年初めての海が優しい。岸辺に迫る濃い緑の影。南シナ海のけだるい色が今のわたしにはちょうどお似合い。
 みんなは香料(スパイス)の話で盛り上がる。わたしが香料に興味があると言ったからだ。以前から香料の歴史や生態系、分布、料理での使われ方など、その種の本をよく読んできた。唯一といっていいくらいの趣味。ナツメグ、丁子(クローブ)、シナモン、コリアンダー、胡椒。オランダ東インド会社の栄光と没落。胡椒一オンスが金の延べ棒と交換された時代。インドのゴア、マレーシアのマラッカ、そしてインドネシアの香料諸島。そこで採られた香料を駆使した料理の数々。ナンシーやソフィーは目を輝かせてわたしを質問攻めにする。修平が提案する。
「本を出そうよ。香料の歴史に始まって、地域の紀行から料理の作り方まで。僕が写真を受け持つからさ。君はその知識をもっと深堀りして文章を書くんだ。」
みんないいアイデアだと言う。
「そんなことできやしないわ。」
わたしは一人弱音を吐く。みんなが励ませば励ますほど気力が萎える。夢のまた夢。そのひとかけらだけでも見させてくれるこの人たち。あえて行動まで起こそうとわたしの背中を押す修平。
帰りのボートで修平が言う。
「見直したな。ただの仕事虫かと思ったら、すごい世界を持ってるじゃない。」
「ただの遊びよ。人より少し知っているだけだわ。英語だって下手だし。もっと上手だったら、いろんな香料のエピソードをみんなに話してあげられるのに。」
「日本人はよく勘違いする。外国人と話をするのに言葉を過大評価しすぎるんだな。かれらは君がパーフェクトな英語をしゃべらないことくらい、百も承知さ。むしろ話す内容なんだと思う。アメリカ人の間だって、けっきょく英語は誰も問題ないけど、中身のある話ができないやつは、どうしても見劣りする。下手でも面白い話だったら、みんな一生懸命に聞くよ。そういうもんだと思うね、言葉とか会話っていうものは。」・・・・・・
 修平がアパートまでわたしを送る。二人とも疲れきっているのに、ずっと喋り通し。
 エントランスのところでわたしが振り返る。
「ありがとう、今日は。楽しかった。この前も。いつもすごく楽しい。」
 修平がすこし笑う。なんとなく間が悪くて、気の利いた言葉を探しているわたし。修平がそのすきにわたしの唇を盗む。ほんの数秒。男の鼓動が体中に染み渡るような気がする。目の前に真っ白な世界がさあっと降りてくる。修平が唇をわずかに浮かせて言う。
「悪いけど、あなたを部屋に入れるわけにはいかないの。」
 わたしは思わず笑い出しそうになる。
「それはわたしの言うことでしょ?」
「きみのかわりに言ってやったんだ。」
 修平がもう一度キスをする。わたしは自然に彼の肩に腕を回す。甘く、沈んでいく理性。・・・・・・・・・・
 一人の部屋。ライトをつけるのが惜しいような余韻。恋の予感。誘惑の匂い。まだ不確定なわたしという存在。いったい誰にとってのわたし自身なのか。
 夜半、力が突然やってくる。
 長く出張に行っていたらしい。ほかに話もない。どぎまぎしているわたしを、力はいつになく乱暴に扱う。一ヶ月も体を合わせていないからだ、とわたしは思い込む。ボタンが飛ぶ。Tシャツの生地が悲鳴をあげる。わたしは荒々しくベッドに放り出される。
「もっと優しくしてよ。」
 わたしは安っぽい抵抗をする。力はおかまいなく思いを遂げようとする。  わたしはたまらず泣き出してしまう。子供のように。彼が入ってくる。ただ痛いだけ。『好きだって言って。愛してるって言ってみて。』あなたには見えないもう一人のわたしが叫んでいる。あなたには聞こえない。・・・・
 わたしが二度目の涙を目に浮かべる頃、力は妙にさっぱりした顔で、煙草を手にしている。東京にいたころをふと思い出す。あなたの腕枕。相手を気遣って、体を動かしたいのに我慢してた。じつは二人ともそう思っていたことがわかって大笑い。現実に戻る。出張の話をあなたはおもしろおかしくする。わたしはベッドにだらしなく横になったまま、それをただ聞いている。あなたは冷蔵庫を開けて、買い置きのサンミゲルを探す。このままシーツになってしまいたい。・・・・・・・・・・・

 修平と二人で会うようになってから、約一ヶ月。
 わたしの中でなにかが始まっている。
 澪はわたしが修平のことをなにも言わないので、行間を読むような眼差しでわたしの一言一言を注意深く逃すまいとする。
 わたしはまだよく知らないベトナム料理のレシピーの本を買う。気がついたことをノートに書きとめる。どうせ趣味の世界。無責任でいられる楽しさ。それに自分の本をつくるというクリエイティブな刺激。
 為替の仕事に戻るかはまだ自分でも決めかねている。ただなんとなく中断したような悔いがないわけではない。日系の証券会社ディーラーのアシスタントを募集しているかしら?
 七月も半ばを過ぎて、力との関係はいよいよ自然消滅するのかな、と思い始める。少しそれを期待している自分に驚く。修平とうまくやっていけるという自信はない。きっと修平のほうがわたしに飽きるに決まってる。
 すぐに体を許してしまったために、ただそれだけでしかない関係と、はじめに友達になってしまったために、それ以上のレベルにどうしてもなりきれない関係。わたしは二つのあいだで揺れている。

 その日、力から電話があった。夏休みをいっしょに過ごそうという。インドネシアのバリ島。赤道直下の熱帯雨林。あまりにもメジャーな観光地。不思議なことに、わたしはまだ行ったことがない。おびただしい家族のフライトやホテルの予約をやってきたけれど、わたし自身、足を踏み入れたことがない。なんだか胸が騒ぐ。よくもわるくも、きっとこれはわたしにとって一つの転機になるような気がする。

 八月。夜、しばらくカンボジアに出張に行っていた修平から電話がある。夏休みはどうするのか、と聞く。わたしは答えられない。彼はいっしょにインドのゴアに行かないか、と言う。とうとうわたしは正直に、力とバリ島へ行くことを告げる。数秒の沈黙。耳が真っ赤になるほどの緊張。
「お願い。わたしのこと、信じて。」
 わたしに言える精一杯の言葉。
 修平は少し気を取り直したように言う。
「わかった。君のことだ。バリ行きを教えてくれたくらいだから、きっと考えがあるんだろう。行っておいでよ。ゴアは、また今度にしよう。」
 百回のごめんなさいと、百一回の言い訳。天使の本にそう書いてあった。
修平が貸してくれたルイス・ミゲルの古く甘いボレロが何度もリピートしている。・・・・・・・

 旧暦のお盆。わたしは一週間の休みをとった。
 バリ行きは、力とわたし、そして力の知り合いの商社勤めの夫婦。年齢もほぼ同じ。その夫婦はもうじき離婚する。日本への帰任も近い。最後にいっしょに旅行をしようということらしい。
 離婚する夫婦は一応の結論に達してから一年が過ぎていた。それでも二人は香港のアパートに同居しており、不思議なことに離婚すると決めてからのほうが、生活はずっと円満に流れていったという。夫婦特有の甘えが消えた。他人になるとかえって遠慮が出て、お互いの気遣いが日常の行き違いや不協和音を柔らかく包みこんでしまう。もうすぐ日本に帰ったら、ほんとうにこれで離婚してしまうのだろうか、と奇妙な気持ちにさえなるという。ときおりどちらともなく、『もしかしたら、離婚しなくても大丈夫かもしれないね。』と言うこともあったが、そのたびにかえって気まずさが残ってしまうらしい。  本当は、その不安を感じるとき、きっと愛のごく近いところまで来ているに違いない。そうでなければ、人間という存在はあまりにも哀しい。それだけのものでしかないとは、わたしは思いたくない。
 バリ。赤道の誘惑。致死量の熱帯。原色という魔性。わたしたちは、海にも、密林にも出かけた。かつてないほど、昼間のわたしははしゃいでいたと思う。ほかの夫婦がいたから?
 どうもそれだけじゃない。でも、ホテルに戻ると、二人はなんとなくよそよそしい。おざなりの愛撫。醒めた抱擁。わたしもただ体を任せているだけ。はっきりとわかる。今終わろうとしていることが。最後まで本音を言おうとしない力。わたしもずるい。でもあなたはもっとずるい。それであなたはわたしを傷つけまいとしているつもり? それともまだ都合のいい女としてキープしたい? わたしは十分に痛んでいる。別にあなただけのせいじゃない。黙っていればあなたがいつか自分に復讐されるのに。それがわからないの?・・・・・・
 明るい緑の芝生。白壁に影を落とす椰子の木立。世界は眠っている。
最後の夜。食事の後、ほとんどわたしたちはほとんど何も話していない。滞在中、いつになく快活な毎日が続いていただけに、最後の数時間は言葉がなくなってしまう。どちらもこの沈黙を壊したくなかったのかもしれない。
「僕は仕事を変えようかと思ってるんだ。」
 ようやく力が口を開いた。
「あなたは大丈夫。きっと何でもやっていけるわ。」
「これからどうする?」
「わたしたちのこと?」
「うん。」
「あなたは二人でやっていける勇気がある?」
 返事はない。
「でも・・・」
 力はやっとの思いで言う。
「でも、いつまでも僕たちは変らないと思う。」
「そうね。わかっているのはそれだけね。あなたとどこでいつまた会うかわからないけど。」
 結局、なにも変りはしないという気がする中で、わたしは激しく変化を求めている。力との会話は、ほとんど上っ面だけの言葉。彼も核心に迫ることを話さなかったけれど、わたしもそれは同じ。そんな裸の心をぶつけあうような関係は、もうそこには無いと気づいていたから? わたしの乾いた肉体は、今までにない夢を見ようと、必死に理性や現実というものに抵抗し始めている。
 静かな夜。軽やかな星のささやき。渚が聞き耳を立てている。ベッドの中。力の腕がわたしの体を撫でていく。わたしは背中を向けている。力は自分のほうにわたしを向けようとする。わたしは目を閉じたまま、『ごめんね』とつぶやく。力の腕が止まる。あとは椰子の葉に風がそよぐ音ばかり。・・・・・・・・

 香港に着いたその夜。わたしは一人の男に会いたかった。荷物もそこそこに、わたしは修平に電話をかける。修平は、明らかにそれを待っていた。でも同時に当惑もしていた。
「わたし、決めたの。どうしてもあなたと話がしたくて。今日とは言わない。明日でいいわ。会いたい。話したいことがたくさんあるの。今のわたし。それにこれからのわたし。」
 修平は、バリで何があったのか、おおよそ想像はしていたみたいだけれど、このときのわたしの電話で、それがはっきりとわかったらしい。わたしの精一杯の選択を、彼はきっと信じてくれる。
 荷解きをしているうちに、わたしは湧き上がる感情を抑えることができない自分に気づく。ほかになにも考えることができない。わたしは発作的に、『やっぱりあなたに今会いたい。』と思い切り、すぐに部屋を出る。タクシーでハッピー・バレーまで。修平のアパートは競馬場のすぐ近く。ナイトゲームの明かりがまるで日中のようにあたりを照らす。タクシーを降りて、路面電車が通り過ぎるのを待つ。いらいらして立っているわたし。渡ろうとしてかれの部屋を仰ぐ。低層のビル。彼は二階。ふとカーテン越しに修平のシルエットが浮かぶ。わたしは思わず息が弾む。そのとき、もう一人のシルエット。小柄な女性。カーテンの隙間から、ほとんど服を身に着けてないのがわかる。わたしは立ちすくむ。その女性は修平にしがみつくようにして何かを訴えている。ちらりと顔が見える。澪。・・・・・さんざん澪が男の胸を叩いた後、彼はやさしく抱きしめる。澪はようやく落ち着いて静かに抱かれている。わたしは打ちのめされたようにただ呆然とその様子を見つめている。ただ、ここにいたらいけないんだとそれだけを思い、アパートへ帰る。頭の中が真っ白になる。わたしはいったいなにをしようとしていたのだろう? 皮肉な現実。投げ出したくなるような自分の安っぽさ。甘すぎるガード。やっぱり遊び? いや、そうはとても思えない。思いたくない。きっと事情があるはず。澪のことだもの。なんだってやってのける。でも修平は受け入れるの? そんな澪のどこがいいの? たぶん澪は捨てられる。それ以前に修平は相手になんかしていない。そう信じたい。・・・・・・

 寝付かれない。とても信じられない光景がまぶたに焼き付いている。窓から見える摩天楼の夜景が冷たい。
翌日わたしは修平との約束をすっぽかす。とても会えない。自分がなにを言い出すか見当もつかないから。もう十分に見苦しい。会って取り乱すなんてもうたくさん。
 夜、修平から電話。
「ひどいな。すっぽかすなんて。どうしたの?」
「わたしね。・・・・夕べあの後あなたのアパートへ行ったの。・・・・」
それだけで十分だった。
「あなたがわたしを今でも同じように思ってくれるか聞きたくて。もういいわ。わたしの出る幕じゃないみたい。・・・・」
「あれは誤解だよ。」
 修平も気まずそう。もうなにも聞きたくない。信じられる最後の望みを失いそう。
「もういいの。よく考えてみるわ。子供じゃないから。バリに行ったのもわたしの身勝手だし。・・・・」
 修平は一切、弁解しない。
電話を切った後、わたしはなぜもっとちゃんと問いたださなかったのか、と悔やむ。納得のいく答えを聞くべきだったのに。もっともらしく、ものわかりのいい大人の女なんておよそ意味がないのに。以心伝心なんてウソ。やっぱり話さなければなにもわかりはしない。それを上手にまとめてしまったわたし。
 たかが涙。当てにならない自分へのいたわり。それでもその涙を信じたいと思うときはある。大事なタイミングをはずした悔い。もっと自分に合った男は世の中にいるかもしれない。でも誰も愛せないような自分が怖い。・・・・・

 日常が再び流れていく。澪がどことなくよそよそしい。何か彼とのあいだであったの? それともわたしに対する気おくれ? 
 修平からはときどき電話がある。わたしたちのことには一切触れない。彼はただ、わたしがわたしらしく輝くことを考えてくれる。香料の本のこと。たまに会えるようになる。わたしは直感する。この男と澪はもう切れている。もしかしたらなんでもなかったのかもしれない。澪のこと、猛烈なモーションをかけてみて、勝手に自爆したのかもしれない。

 夏がゆっくりと遠ざかっていく。
 ある日の週末。修平からアパートに電話。彼もわたしの真似をして、南洋の風景のスケッチを描いているという。香料の本のために。わたしが試しに書いてみた文章のうち、丁子(クローブ)の生態の(くだり)を聞いてもらう。かわりにと言って、修平が描いているスケッチのことでわたしにたずねる。どうしてもその色が浮かばない、と。『何の色?』『風。・・・風は何色?』写真は撮れても、スケッチが描けない。この男はきっと女に、抱いてほしいと言える。男の質の高さとはたぶんそういうもの。逆に自分で立てないようなつまらない女に、いったいどの男が必死になるだろう?

 十月。香港で一番いい季節が始まる。乾燥した空気。快晴の続く毎日。暑くなく、寒くなく、爽やかな亜熱帯の奇蹟。
 澪が辞めていく。わたしとは仕事以外ではほとんど口もきかなくなっていた。また外資系の旅行会社で働くらしい。わたしにも日系の証券会社から為替のディーラーのアシスタントをしないかと誘いが来る。修平は、一度不本意に中断したキャリアなんだ。自分にとってそれがどういう価値のあるものか、ないものか。確かめてみたらいい。とわたしの背中を押す。

 奈々と飲茶をする。
 「キャセイ航空で日本人スチュワーデスをものすごくたくさん採用するらしいわよ。なんでも全部で三百人とか四百人とかになるみたい。」
「不況が長かったから、日系の航空会社もずっと採ってなかったじゃない。前はキャセイでも日本人はせいぜい百人くらいだったかしら。」
「葉子、最近どうしたの? ずいぶん綺麗になったよ。」
「そんなことないわよ。」
「本当だってば。もうすぐまたディーラーの仕事、手伝うんでしょ? どんな女の人かって、あっちじゃ噂で持ちきりみたい。わたしが知ってる人たちからもあなたのこと聞かれたもの。知ってる人の話だと、曰、あなた、いい女なんだってさ。」
 わたしは思わず噴出す。グズでドン臭いわたしのどこがいい女?
 そう言えば、ずっと関係の切れていた力からも最近連絡してくることがある。なんとなく寄りを戻したいようなニュアンス。昔の男にもう一度抱かれる? あなたも噂で踊らされるの? それともどこかでわたしを見かけて、なんとなく惜しくなったの? 目先の誘惑で、思い出の中の懐かしい部分まで汚れていってしまうのに。だからわたしはもう振り返らない。『君だって、愛してるとは言わなかったじゃないか。』『聞こえなかったの?』・・・・・・・・

 修平が出張に行く。今度はタイからカンボジア国境へ。イギリス人の記者といっしょ。インドシナ半島を()いでいく狂熱の嵐の中へ入っていく。一時はカンボジアの内戦から逃れて百万を超える難民がタイ領内へ流れこんだという。タイの貧しい農民たちは、居座る難民といざこざが耐えない。その間で、悪魔のような商売が生まれている。金持ちを手引きし、不法流入難民の小さなキャンプを襲う人狩りのゲーム。殺戮と強姦。一部の商品として堪える女はバンコクやハジャイに売られていく。修平はそれをスクープしにいく。
「もっとも、有形無形の圧力がどこからかかかって、ボツになるかもしれないけどね。」
 と、苦笑い。この男の先が見えない魅力。住んでいる世界が違いすぎる危うさと不安。わたしがあなたに何もしてあげられないと思えてしまう哀しさ。
 リージェント・ホテルのカフェで最後の数時間を過ごす。暮れなずむ香港島に満艦飾の夜景が始まる。香港は、九龍から見たほうが綺麗。天井まで届く一枚ガラスにあなたの顔も映ってる。バンコク行きの最終便が迫る。修平はおかしな冗談ばかり。わたしは心の中にわだかまっているその事を言い出せない。とうとう最後まで聞かずじまい。今度こそ帰ってきたら言おう。わたしたちが今、お互いにどこにいるのか。性懲りもなく同じことを繰り返すわけじゃない。この年齢にもなれば、気がつくと相手に家族がいることが多い。嫌な言葉だけど、不倫という状況はかなりの確率で避けて通れない。それが駄目だなどとは思わない。ただ、あなたは偶然そうじゃない。この出会いに、一度はくじけそうになったけど、本当に大切にしていっていいのか、確かめたい。でも今のあなたはそんなことどうでもいいみたい。あの夜の澪とあなたはいったいなんだったのか。なぜ弁解もしないで、ずっとわたしと距離を置いたまま、それでもずっとわたしを励まし続けるのか。何も期待しないであなたは女をどうして愛せるのか。なにも言い出さないあなたに、わたしはそれを聞いてみたい。今のあなたはまるでそんなことには興味すらない様子。もう時効だなんて思ってるんだったら、大間違いよ。あなたが以前言っていたことを思い出す。
 『日本人は愛が胸にあるというイメージが強い。アメリカ人に聞いてごらん。人にもよるけど、たいていが自分の頭を指すね。彼らは愛を感情とは思っていないらしい。好き嫌いの感情とはどうも一線を画しているらしい。つまり、もっと理性的な、考えるもの、意思のようなものだと思っているみたいなんだな。』それで、あなたは今、どう考えているの?ああ、もう時間がない。・・・・・・・

 一週間、修平から連絡がない。
 正式に旅行会社を辞める。証券会社に入る前に、アパートも移る。こまごまとした手続きに追われる毎日。
 奈々は絹のアイデア商品が結構軌道に乗ったといって大はしゃぎ。わたしに義兄の会社へ来ないかとしつこい。わたしにその器量はない。
佳代が一度新しいアパートへ遊びにくる。イヴリンに香港女性の恋人が出来たと言う。
「男も女もしょせん同じね。」
 佳代は目を赤くする。ブラウスの胸のところに彼女の涙がいっぱい広がっていく。
 ベリンダはメイドの仕事を投げ出した。自分の女としての商品価値に目覚めてしまったようだ。今は、湾仔のリップスティックというGOGOバーに出ているらしい。お立ち台の上で、レオタード姿で踊っている。客がついて一回寝れば、マニラでは大学出の事務職の三倍の稼ぎにはなる。ビザが違う。ベリンダはそのリスクを敢えてとる。『わたしをお許し下さい。仕方がないんです。』と毎日十字架やサントニーニョに懺悔を繰り返しながら、その後鼻歌まじりにサイドラインへ流れていく。・・・・・・

 十一月。海をはさんだ隣のマカオではF3のグランプリで沸き返る。
 わたしは無我夢中でディーラーの仕事に打ち込む。ようやく慣れてきた。実際には債券ディールのアシスタント。それでも市場という刺激の坩堝には変りがない。あとはその日の市場コメントを書いて東京の本店に送る。新しい日常がわたしをいつしか鈍感な生活に推し戻していく。
 ある土曜日。アパートに電話がかかる。聞き覚えのある声。わたしは意味もなくほとんど泣き出したくなるような気持ち。
「修平? 今どこにいるの?」
 声が遠い。雑音もする。ホテルのフロントあたりで国際電話をかけているらしい。
「今ね、アランヤプラテートなんだ。」
「どこですって?」
「アランヤプラテート。タイだよ。もっとも、カンボジアとの国境だけどね。河を渡ればポイペトだよ。」
 国境の町。混乱と無法。焦熱のジャングル。死臭と憎悪の息遣い。
「これからまた出かける。車が、・・・来たみたいだ。アパート、変ったんだね。君をつかまえるのに苦労したぞ。ところで出かける前にどうしても言っておきたくてね。」
 わたしの心は(はや)る。切なさで胸が押しつぶされそう。
「澪ちゃんのことだけど。・・・・」
「もう・・・いいわ。」
 修平は言葉を飲み込んだようだった。
「いいの、別に。」
 うそつき。よくなんかない。でもそうとしか言えない。
「わたしがグズだっただけよ。」
「違う、そうじゃないんだ。聞いてくれよ。」
 ジープのような音が聞こえる。にわかに人の声で修平の周りが騒がしくなっている。
「こんなこと、今まで思ったこともなかったんだけどな。・・・今度はどうやら違うみたいだ。」
「なにが違うの?」
「正直言って、怖くてね。現場が。君に会いたいんだ。・・・失うものができたらしい。」
 修平の声がかすれる。言葉が続かない。わたしの喉も渇いている。ずるい。そんなのずるい。こんな状況であんまりだわ。
「ああ・・・俺はいったいなにを言ってるんだ。」
 修平が受話器の向こうで自己嫌悪に陥っている。地響きのような鈍い音が聞こえてくる。
「何、今の音?」
「迫撃砲だろう。カンボジア政府軍の乾季攻勢が始まってるって話だ。クメール・ルージュを攻めたててるのさ。」
 クラクションがけたたましく鳴る。修平を急かしているらしい。わたしは思わず口走る。
「はやく帰って来て!」
「なんだって?」
 声はますます遠くなる。
「無茶しないでって言ってるのよ。」
「聞こえないよ!」
「好きだって言ってるの。わからずや!」
 喧騒だけが聞こえてくる。わたしは急に不安になる。聞こえなかったんだろうか。
「修平?」
「ちゃんと聞こえてるよ。えへへ。必ず帰る。だからいい子にしてるんだ。今のを忘れるなよ。」
 受話器の向こうに修平の嬉しそうな顔が見える。
 突然、凄まじい大音響が聞こえてくる。
「修平!」
 わたしはもう泣いていた。
「政府軍もへたくそだな。クメール・ルージュと、こっちのタイ陸軍を間違えて誤射してるぜ。」
 馬鹿・・・馬鹿!・・・わたしは鼻水まで垂らしているっていうのに、なんてひどい男。
「じゃあな。クリスマスまでには帰る。それと、・・・・カンボジア料理のおいしいやつ、レシピー手に入れたよ。難民から教わったんだ。楽しみにな。また香港で。切るぞ!」
「うん。・・・・気をつけて。・・・・」
 わたしはもうほとんど声が出ない。体中が震えていた。

 ガラスの靴。繻子(サテン)の靴ですらなくていい。わたしは裸足で構わない。そう闇雲に思っていた。大地の微熱が感じとれるように。
 今まで開いたこともないサウス・チャイナ・モーニング・ポストに毎日目を通す。ジャーナリストの死者が世界で年々増え続けている。彼の名はない。
そのうちに国連キャンプや非武装地帯への誤射が止む、と出ていた。ほっと胸を撫で下ろす。
 手紙が届くようになる。
 アランヤプラテートから二通。戦況の様子。ジャーナリズムの中立という幻想と、誰もそうは許してくれないという現実。敵と味方を敢えて選択していかなければならない恐怖。・・・・最後に必ず一つは、タイ、カンボジア料理のレシピーが書いてある。コリアンダーを食べると、マラリア蚊にやられないそうだ、だから自分は毎日臭いコリアンダーを山ほど食べている、と面白おかしく付け加えてある。嫌よ。映画の『慕情』みたいなラストは。結局、手紙だけが死んでも後から後から送られてくるなんて。

 ふと蘭の花の水を取り替えてないのに気づく。新しいのにしてあげなくちゃ。そうすればあの人がちゃんと帰って来れるような気がする。
 クリスマスを前にしてビクトリア海峡に面したビルというビルにいろいろな絵のイルミネーションが灯る。香港の空気が一番透き通るころ。わたしも透き通っていく気がする。心地よい軽さ。背伸びも気負いも今はない。香料の分布図が出来上がる。エピソードを書き始めよう。あなたが帰ってくるまでに、どこまで書けるかしら。わたしたちが一体どうなっていくのか、それはわからない。でも今のわたしなら、フリーハンドで何とかやっていけそう。
旅行会社のほうから『戻って来ないか』とラブコール。給与をぐっと引き上げる、という。あの仕事のほうが正直言って面白かった。いろんな人に会えたし。
 力がまたしつこくアプローチをかけてくる。どうしちゃったの? わたし一人しか追いかける女がいないの? けっこうアマチュア。いつだったかしら、『眠れる豚』とはよくも言ってくれたわね。おあいにく様。まったく失礼しちゃう。
 わたしは人の間に落ちていかないようにしよう。愛のための愛でしかないわたしはもうやめよう。存在をあまり重くみないように。ほんとうは何もないということを思い出そう。人間にとって必要なのは二つだけ。太陽の光と冷たいレモネード。不安はまだ残っている。たぶんこれからもずっと。世の中はまるで海のようなもので、水に浮力があることを信じられない人は、必死にもがいて溺れていく。それを知っている人は、体の力を抜いて、自然に水が浮かせてくれるのにまかせる。どこの仏教徒だったか、そんなことを言っていた。

 レーン・クロフォードのバーゲンが始まる頃、修平からもう一通届く。バンコク発信。冗談ばっかり並べてる。最後に、香港に着いたら空港で電話をくれると書いてある。
 今度だって失敗するかもしれない。でもいい。もう一度傷ついても、憧れや郷愁にいつまでも変らない心のときめき。そんな恥ずかしい過去ならいくつあっても構わない。そう思えるようになる。正しくなければいけないとか、良くなければいけないということは、けしてない。そうあるようにしかわたしはなく、そう生きるよりほかにない。たいせつなのは、わたしがその人に、わたしを愛する勇気をあげること。そしてわたしを豊かにする人。その人が今、ひとり帰ってくる。本当にあなたはそう?
 アパートでナツメグのスケッチを描く。こういう部分に写真を使うのは止めよう。彼には悪いけど。図鑑にあるような絵で仕上げたほうが、よりエキゾチック。あなたは怒るかしら?
 そのとき電話が鳴る。わたしは切なくて、もう泣きそうな顔。慌てて受話器を取る。空港のアナウンス。雑踏の気配。『もしもし?』一人の部屋に、わたしの声だけが広がる。すると向こうであなたがわたしを振り返る。・・・・・・・・・・・・・・・
                                    完

 


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