応募小説


密林の記憶
                          アギレ

 離婚することが決まってから、わたしたち夫婦はそれまでの諍いがまるで嘘のように明るい日常を送っていた。
 ほんとうに東京に戻ったら、別れるのだろうか。
それまでとはうってかわって平穏な毎日に、時折、どちらともなく『もしかしたら、やり直せるかもしれないね。』などと言ってみたりもするのだが、その後に言葉が続かない。やり場のない沈黙が訪れる。そして、やはり結論は変らないと思い知るのだった。
 離婚の理由は書くまい。どちらかがどちらかに対して、一方的に悪いということは、まずない。そのきっかけが不倫であろうと、あるいはほかのどんな事情であろうと、けっきょく二人には相応の問題がある。そして、二人で始めた過ちは、けっきょくそれぞれ一人でその責めを負うしかないのだ。それが、男と女の間に横たわる不文律だった。
 駐在期間の終わりが近づき、それまでただの一度もしたことのない旅行を、わたしたちは計画した。日取り、フライトやホテルの予約、どれをとってもこんなに心が躍る毎日はなかった。まるで新婚旅行のようだ。いや、それ以上だったかもしれない。
 香港から一番行きやすく、あまり日本人の間では知られていないものの、穴場が一つあった。それはボルネオ。ちょうど、南シナ海を越えたところ。北半分がマレーシア、南側はインドネシア。わたしたちが行くのを決めたのは、マレーシア側のコタ・キナバルだった。わたしたちが泊まったタンジュン・アル・ビーチから、東の方に四千メートル級のキナバル山の威容がくっきりと見える。午後には山の稜線が見えなくなってしまう。ボルネオはその北から熱帯性低気圧が発生するために、一年中いつ行っても休暇にはうってつけだった。なにより、日本人観光客がほとんどいなかったことが痛快だった。
 わたしたちは前の日に申し入れておいた飲み物や食べ物がつまったバスケットやアイスボックスをピックアップし、ホテルの桟橋からボートに乗って、すぐ沖合いの島々をアイランド・ホッピングした。サピ島。スルッグ島。マムティック島。マヌカン島。そして一番大きなガヤ島のポリス(ベイ)。白人のグループ・ツアーも来ていた。
 目が無くなってしまいそうな白いビーチ。珊瑚礁の内側で波が息をとめていた。地元のコンダクターがついて、スキューバ・ダイビングをしたが、海の中でわたしたちはいつもよりずっとたくさんの会話をしたような気がする。
水遊びに飽きたわたしたちは、こんどは山へでも行ってみようということにした。車を借りてキナバル山の中腹にある国立公園に向かった。妻とわたしが交替で運転した。朝、コタ・キナバルを出て、海岸線に沿って北東へ走る。対向車はあまりない。途中、メンカボンの水上部落に立ち寄り、そのあとは走りづめで山に入る。道はどこまでもきれいに舗装されていて、密林地帯になってからもドライブは快適だった。
 昼過ぎ、キナバル国立公園に着いた頃には、予想通り山頂が霞み、霧雨が降ったりやんだりしていた。むせ返るような湿気は冷ややかで、ジャケットが要るくらいだ。このまま東へ道をたどれば、マムートの銅山があるラナウの町。その先は東海岸のサンダカンに至る。
 わたしたちは一渡り園内の入り口付近を散策した。なんの匂いだろう? 木犀(もくせい)のような濃厚な甘い匂いが時折運ばれてくる。南洋の樹木は圧倒的な重苦しさでわたしたちを包んだ。ざっと見渡してみて、安易に期待していた百花繚乱はなく、おまけに雨が次第にスコールのような激しさを伴ってきたので、わたしたちは慌てて入り口に近いレストハウスに駆け戻った。
 「すごい雨!」
 「そうとうやられちゃたね。」
 離婚する夫婦がやり取りする。
 「それにしても何にもないね。」
 「当たり前よ、ジャングルですもの。」
 「だけどおまえ、ジャングルって来たことあるのか?」
 「初めてよ。」
 「だったらもっと喜べよな。」
 「ぶー。・・・・」
 他愛もない文句の言い合いは、笑いと懐かしさを誘う。この期に及んで、喧嘩などありえなかった。
 わたしたちは雨で重くなった体を引きずりながら食堂に入った。お定まりのナシ・ゴレン(焼飯)、ソト・アヤム(鶏スープ)、そしてルンダン(辛い牛肉の煮込み)。これでまず一服。すこしは体が暖まってきた。熱帯で肌寒いというのも、奇妙な経験だった。肌は連日の水遊びで真っ赤にほてっていたので、密林の冷気がかえって気持ちよい。
 しかし雨に濡れたことは、キナバル山をトレッキングしようと思っていたわたしたちの気力を挫いた。途中、かつて日本兵がにわかづくりをしたというベトンで固めた露天風呂にも行きたかったが、とてもその勢いは失われていた。現代人は弱い。自然と闘うことしか考えていないからだ。
 天然のシャワーはさらにはじけるような強い雨足となって、密林の十メートル先を不気味な灰色で覆いつくし、濃い緑を視界から遠ざけている。離婚する夫婦は退屈そうにパンフレットの園内地図を見ていた。ほかになにをすることもなく、ただ雨に煙る密林を飽かず眺めていたのだ。
 「気持ちいいわね。」
 「落ち着くね。君は山より海のほうが好きだったよね。」
 「どっちも好きよ。」
 わたしたちの会話はそれだけ。でも、それで十分だった。
 ふと気がつくと、一人の男がわたしたちのテーブルまで来ている。五十代に近い。かなり若々しく見える。日焼けした体が頑丈に締まっている。グレーのサファリを着て、木綿の短パンをはいている。ほかには人っ子一人いないレストハウスだと思ったが、わたしたちが来る前から、その男はいたらしい。 
 「日本人ですか?」
 男は穏やかな口調で話しかけてくる。
 「はい。」
 「日本から?」
 「いえ、香港に住んでますので。」
 わたしたちは男に席をすすめた。こんなところでよりによって日本人に会うとは思わなかった。
 男は長野から来ていた。ボルネオにはもう十年にわたって、毎年二度やってくる。もともとは高校で数学を教えていたらしい。
 「以前は、学期末の休みに家にいると、家内や娘たちから粗大ごみと言われたものでした。」
 そう男は屈託なく笑う。『以前は・・・・言われた』という言い方が、妙に気になった。
 「ボルネオにはまたどうして?」
 「蝶を採っています。」
 新鮮な言葉だった。わたしは急に興味を覚えた。蝶なら台湾やヒマラヤ、それにアマゾンと相場は決まっている。 それがなぜボルネオ? 男の話によると、ボルネオはとても蝶で有名なのだそうだ。ただほかと違って、ここの蝶について図鑑の決定版が無いという。男はそれをつくりたい。十年。コタ・キナバルだけでなく、シブ、ミリ、ラブアン、クチン。そしてもっと多様な蝶を求めてインドネシア側のカリマンタン地区までずいぶん歩いたらしい。
 「バリクパパンとか、サマリンダにも行かれるんですか?」
 「よくご存知ですね。」
 「ええ、仕事がら。」
 妻は、あまりこういうことに興味がない。
 「ねえ、大変なものを見落としてたみたいよ。あの先に植物園があるって。道理でこのへんには花を見ないわけね。わたし、ちょっとあっちに行ってみるわね。」
 雨も嘘のようにあがっていた。妻は、男に挨拶すると植物園のほうに下っていった。
 男はポケットからグダン・ガラム(丁子(クローブ)の葉を詰めた煙草。)を取り出した。濃厚な甘い匂いがあたりに広がる。窓からは、霧が熱帯の陽にキラキラと輝いていた。
 「また降ります。三十分がいいところです。」
 男は気持ちよさそうにガラムを()う。わたしはいつしか男の話に耳を傾けていた。

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 K。と、その男のことをしておこう。
 教師。自らの未熟さを知り尽くした男が人を教えるという矛盾。思想とはけっきょく生きざまのこと。Kは思う。 自分が個人として生きる座標軸や目標や、あるいは夢を持たないかぎり、生徒たちはけして耳を貸さない。家族から粗大ゴミとして扱われるようなつまらない男の話を聞く酔狂な若者が、一体どこにいるだろう? 教え子たちが問題を起こすたびに、Kは焦りを覚えていた。
 十年以上も前。一つの事件がKにきっかけを与えた。ある男子生徒の自殺。遺書はなく、日記が残されただけ。Kは死の数ヶ月前からこの生徒の足跡をひとつひとつ辿ってみた。手がかりはいくらでもあった。いじめやいやがらせの類。文面の行間に漂う底知れない孤独感。失恋にまで至ってもいない、想いを凝らした一方通行の恋。でもそれらは自殺を説明する決定的なものにはならなかった。家庭にも問題がない。最後まで残ったのは、やはり動機だった。気になる文章がいくつかあった。
 ・・・秋に本を読んではいけない。
   夏に太陽を見つめてはいけない。
 きっと戸外では夏が始まっていたのだろう。『梅雨明け宣言と同時に死んでいこう。』とあった。『あの雨があがるのといっしょに死んでいこう。』ともあった。日記は日一日と焦りを示していた。日差しは狂ったように夜を通り過ぎ、明日一日をも焼き始めているように思われたのかもしれない。
 ある日、Kはふと気づく。この生徒はなにも特別な人間じゃないと。Kはいつしかこの生徒を非常に身近に感じるようになる。いつまでたっても動機が見つからないことが、きわめて自然に思えるようになる。過ぎ去る者を静かに見送るほんの少しの優しさ。卑怯な人間たちは、『死ね』とはけっして言わない。そして彼らの『生きろ』という言葉には血がかよっていない。・・・・・・・
 ある日、Kは家に帰ると突然地図を広げる。そして荷造りを始める。家族が怪訝そうな目で見守る中、最初の夏休みにさっさとインドネシアに出かけてしまう。急にKは、心の中で突き上げるようなものを覚え、昔から好きだった蝶のことで頭がいっぱいになってしまったのだ。なによりも自分自身の救済が緊急の課題だった。以前から長野だけでなく、全国のあちこちへ蝶を採集しに行っていた。南洋の蝶はずっとKの憧れだった。まだ見たこともない蝶に少しでも触れていたかった。Kは、『実に身勝手な、そして唐突な行動でした。』と苦笑いする。・・・・・・・・・・・・・・

 雨がまた激しく降りだした。
 「蝶でもご覧になりますか?」
 Kはわたしを奥の宿泊棟へ誘った。小さな部屋だが快適そのものだ。
 「失礼。片付けてないものですから。」
 フロア、机の上、椅子、いたるところに蝶の標本の作りかけが並べてある。そのほかには藁半紙(わらばんし)にびっしり書き込まれたメモと、画用紙に描かれた蝶のスケッチが散らかっていた。
 「週に一つは新種が見つかります。」
 マレーやインドネシアでは蝶のことをクプクプと呼ぶらしい。Kはマレー・インドネシア語ではまったく不自由がない。数えきれないほどの方言がある中で、人工的に作り出された言葉。だから語彙が最大公約数的に選ばれている。文法も発音もきわめて単純化されている。
 Kは、『コーヒーでも飲みませんか?』といって、茶色の麻袋からトラジャを取り出し、携帯用のグラインダーに入れてガリガリ始めた。こくのある原産の香りはここが紛れもなく熱帯だと告げていた。Kは豆を挽きながら、密林の記憶の一つ一つを静かな口調で話し出した。

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 博物誌の夢。十年の軌跡。図鑑の決定版がまだない赤道アジアの蝶たちについては、長いことKはライフワークにしたいと思っていた。
 最初はインドネシアのバンドンに人を頼っていき、蝶の分布や生態の手ほどきを受けた。そして学期末ごとにインドネシア全域にわたって踏査した。とくに香料諸島、西イリアン、スマトラとめまぐるしく歩き回った。西イリアンではどうしても軍隊の世話にならなければいけないので難儀をすると言う。
 南洋の蝶には魔性が棲む。ちょっとでも触れればすぐにでも壊れてしまいそうなその脆弱さ。哀しいほど深い色彩。悪魔のように冷たく官能的な存在感。優美に、またときには嘲笑するかのように補虫網の下をすりぬけていく危なげな舞踊。・・・熱帯や密林がまるでそのためにわざわざ演出してみせているかのようだ。
 蝶を追って少しずつスケッチ・ブックが増えていくごとに、Kは熱帯というものを理解していったように思う。熱帯という言葉が、『原始への回帰』から、『生命の再生』という意味に、Kの心の中で変っていく。
 たった一人で旅をしていると、バンガローや川辺の集落に宿をとるときなど、夜いろいろなことを考える。夜空に溢れる星たちはまるで音を立てているようだ。隠者のつもりはけっしてない。むしろ密林の中でKは、より深く社会とのつながりを意識できた。
 合理的な発想とは、非合理なものを合理的に分析したり、神秘的なものをむやみに暴きたてることではない。非合理は非合理のままに、神秘は神秘としえとらえること。だから、Kにとっても、合理的という言葉が自然という言葉に非常に近く感じられた。さまざまな錯覚もその正体が見えてくる。息を殺して草木をかき分けていくうちに、誰も世界の中心になれはしないといったようなごく当たり前の原理ですら、ここでは新鮮に思われたりする。
 三年経つうちに、学校でのKの言動も以前とは次第に変っていった。教師である前に、悩める人間であることを深く意識したことが、Kを大きく変えたようだ。自分の魂を、それまで気がつかなかった閉塞状況から救い出し、一人で立ってみせることは、最優先課題だった。生徒たちや、家族に、そのKの言動の一つ一つが受け入れられることはなかった。むしろ、以前より激しく批判の矢面に立つことが多くなった。決定的になったのは、傷害事件を起こした一人の生徒を彼が見捨てなかったことだった。親からも見捨てられ、学校からも拒否されたその生徒を、Kはあくまで見捨てまいとした。けっきょくKはその生徒に刺され、深手を負うことになった。学校からはすでに退学した生徒の問題だっただけに、職務範囲を逸脱した行為として、かえって責められた。家族からもそのやり方は度を越えているとして非難された。狭間でKはさらに苦悩した。公私の別なく信じる道を貫いた(とKは思った)結果、学校からも婉曲に辞職を促され、やがて家族も去っていくことになった。かろうじて塾の講師として一人で生計を立て、いくばくかを別れた家族に送金し始めた。不安定な工事現場の交通誘導の夜勤も始めた。周囲の誰も救うことができず、ましてや傷つけ、自らに残ったものは、わずかに蝶の夢だけとなった。
 「ハンドルの遊びが無さ過ぎたんです。いい歳をしてみっともないことでした。」
 Kは苦笑した。
 五年ほど前のこと。隣のスラウェシ島にあるウジュンパンダン(旧マッカサール)へ行ったとき、バンティムルンという『蝶の谷』で、一人の男の話を聞かされる。その男はもともとジャワ島のバンドンで大学勤めをしていた生物学者だが、蝶に魅せられて職を辞し、家族ともどもバンティムルンに移り住んだとのこと。何年かそこで仕事をしていたようだが、何のきっかけかボルネオ島のカリマンタン地区、サマリンダへ再び移り住んだという。なんでも世界最大といわれているアレキサンドラ・トリバネアゲハより大きく、舞う様子はゴライアス・トリバネアゲハより美しい蝶を、このサマリンダのずっと奥地で見たという。バンティムルンの自然公園でいっしょに働いていた人が、『よくいるんだ、ああいうやつがね。家族もとんだ迷惑だよ。きれいな奥さんだったがね。なんでもバンドン時代の教え子だとか言ってたな。』と吐き捨てるように言ったのをKは聞いていた。
 この話があったので、Kはその男に会いにサマリンダを訪ねることにした。標本一つで二百万円、三百万円もするトリバネアゲハは、日系の業者が血眼になっていたし、それに群がる地元の人たちにKはうんざりしていた。
 サマリンダの地元の役所で問い合わせてみたところ、偶然知っている人がいて、もう二年前にその男が亡くなっていること、そして未亡人と息子がマハカム河上流のバンガローにいることを教えてくれた。未亡人が夫と同じように蝶を採っていることも。
 サマリンダを河口に、六百キロ以上もマハカム河は流れている。ポンポンと悠長な音をたてるカパル・モトル(動力船)に乗ってマハカム河を遡った。まずテンガロンの町。このさらに上流には黒い蘭が群生するそうだ。特産の蝶がいるかも知れないなどと思いながら、船はさらに旅を続けた。河の両側は密林が迫り、赤土色の河はときどきワニの死骸が白い腹を見せてプカプカ浮いていたりする。いくつかの村を船は過ぎ、小さなモスクが見えてきた。・・・・
 原始、日本に熱帯があった。海沿いには潮干帯が広がり、マングローブが生い茂っていた。今、その名残は下北半島の猿だけだ。下北は地球上に生息する野生の猿の北限。熱帯原産の猿がどうして雪深い下北にいるのか。かつて日本にもこの熱帯があった。
 日を重ねてKはまた上流へ向かう。
 わたしたちの世界がどんなに広くても、わたしたちの精神生活はその一切を転がせるくらい広い。旅先で知り合う人ごとにKはそれを思う。
 カパル・モトルに揺られながら、時折Kはあの自殺した生徒の日記を思い出す。
 「あの澄んだ空を越えるような心を持ちたい。・・・・・
  あの燃える雲を凌ぐような高潔の中を生きたい。」
 二行の行間に明るい青空が見える。そしてそれらはみなここにある。
 ロンギラムの町。一泊してダヤク族の案内人を雇い、翌朝、密林に入った。
 ボルネオ南部のカリマンタン地区の交通は道によらない。すべて河が基点になる。ブギ族。ダヤク族。バジャウ族。そしてジャワ島やスラウェシ島からインドネシア人たちも来る。華僑。どこの国だろうか、白人の姿も見かけた。日用生活品の商売、木材の伐採と加工、石炭の積み出し、そして植林。きれいなサロンをまとったブギ人の女たちが荷物を頭に載せていく。洗濯物をパタンパタンと叩く音が次第に遠くなっていく。
 三時間ほど山に入るとダヤク族の小さな集落に着く。案内人を介して年寄りのダヤク人に尋ねた。
 「あんたも蝶を探している学者さんかい?」
 「学者じゃないが、確かに蝶を探してる。」
 年寄りはしわだらけの顔をほころばせて言う。
 「先生は夕方帰ってきなさるよ。息子さんといっしょになあ。・・・バンガローの中で待っていたらいい。日が落ちる前には戻ってくるさ。」・・・・・・
 バンガローはL字型になっていて、ベランダのように張り出した渡り廊下があり、四つの部屋がつながっている。ベランダには籐の椅子があり、そこからは小さな庭や木立を通して、むこうにダヤク族の集落が見える。裏のシャワー・ヤードには間近に森が迫り、空が思ったよりずっと高く感じられる。これでは日没が早い。
 案内人をロンギラムに帰し、Kは密林に入った。年寄りの話によると、この奥にやはり蝶の谷があるという。なにもスラウェシのバンティムルンだけではないようだ。
 八月。蝶が一番盛りの季節。細い獣道が走る密林はさまざまな驚きに出会う。蘭の花一つにしても、わたしたちが日常花屋さんで見るものと違い、熱帯に咲く蘭はずっと地味で小粒なものだ。野生というものの実態は得てしてそういうもの。人間が交配してつくりあげたハイブリッド(混血種)の素晴らしさはそれとしても、この野生の実相には強靭なエキゾティズムがある。
 目的の沢に着いたのは一時間後。小さな窪地。先にはマハカム河の支流がある。野草が生い茂り、歩行は困難をきわめる。二千五百メートル級の山が控えているので、このあたりはかなり冷気が漂ってくることもある。Kは(つた)の生態から『低地性のトリバネアゲハがここにもいるかもしれない』と思いながら河沿いに歩いた。すると急に女性の、からかうような声がした。
 「ここには高価なバードウィング(トリバネアゲハ)はいなくてよ。」
 Kは慌ててあたりを見回した。声の主は背後の低木のあたりから姿を現わした。汗まみれのサファリを着た女性と、あとから十歳くらいの子供が飛び出してきた。その子は肩から捕虫箱を下げていた。中には一匹のトリバネアゲハがはいっていた。
 「オルニトプテラ・プリアムス(ミドリトリバネアゲハ)。」
 Kはそう呟いた。
 その女性はうなじまでの髪で、『蝋けつ染め(バティック)』のバンダナを巻いていた。年のころ三十三前後。褐色の肌をしているが、どこか白人の雰囲気を持っている。都会からきたあか抜けた感じが見てとれたのだろう。少し痩せて、端正な顔立ちが、さらに知的に見せていた。
 「あら、よくご存知ね。でもこれは今までこの辺で見たことのあるミドリトリバネアゲハの亜種とはちょっと違うわ。雄なのよ。オレンジ色の(はね)がふつうなのに、これは金緑色がかっているでしょう?」
 「亜種が多いから、島ごとに多少の変化はあるでしょうね。それより毒性があるのに大丈夫ですか? この捕虫箱じゃいけないな。」
 「平気よ。触るときはいつも手袋しているもの。せいぜいかぶれるくらいだわ。それよりあなた、蛇のほうがこの辺は怖いのよ。そんなショートカットのブーツじゃ駄目よ。こういうロングのじゃなきゃ。」
 それはかなり使いこんだ革のブーツだった。薄茶色の表面が完全に剥げている。
 「ダリ・マナ?(どちらから)」
 「ダリ・ジュパン。(日本から)」
 「どこまでいらっしゃるの?」
 「あなたに会いに。・・・・・・」
 女性は驚いたように目を丸くした。彼女の名はメリアム・ノール。祖父がオランダ人。息子はルディ。母親の闊達さにくらべ、ルディは恥ずかしがりやだ。Kが握手しようとすると、はにかみながらそっとその手を差し伸べた。
 メリアムはこの国には珍しくクリスチャンだった。バンガローへの道すがら、彼女はこのあたりの地勢や植物の生態をくわしく教えてくれた。Kはひとつひとつの内容より、彼女の弾けるような声質に、ただ心地よく聞き惚れていた。話が時折途切れるごとに、Kは夫のノールが見たという新種のトリバネアゲハのことを聞こうと思ったが、最後まで言い出せなかた。
 けっきょくKはバンガローに泊まることになり、L字型の一番南側にある部屋をあてがわれた。
 「厄介じゃないかな?」
 「とんでもない。嬉しいわ。寂しいところですもの。」
 隣は亡くなったノールの部屋だ。その奥がキッチン兼ダイニング。北側の端が彼女たちの部屋になっている。
 Kはシャワーを浴びた。貯水タンクから水を引いて、木炭などを使いながら濾過(ろか)してある。ヤードには何の囲いもしていない。彼女もここで浴びるのだろうか? Kは年甲斐もなく気恥ずかしいものがあった。
 Kは夕暮れの中で紫色に染まっていくダヤク族の集落を、木立を通してぼんやり見ていた。ルディがブリキのバケットを提げて集落のほうへ歩いていくのが見えた。誰かが鶏を絞めているような、けたたましい鳴き声が聞こえた。
 密林では、夕陽を見ることができない。そのかわり、信じられないくらいの大きさと数の星が現れる。テラスの籐椅子に腰掛けていると、ふと何かを肯定する気持ちを思い出す。どんなに社会が変わっても、けして変らないものがあることを思い出す。何かに感謝したいような気持ちといってもいい。
 ルディは炊き上がったご飯(ナシプティ)と、(イカン)のスープをバケットに入れて戻ってくる。メリアムはすでにシャワーを終えて、すっかり主婦になっている。Kは自分もなにか手伝うと申し出た。『明日から手伝っていただくわ』とメリアムが笑った。魚にはたまねぎやトマト、ニンニク、チリ、ナツメグ、いろんな青野菜もいっしょになっている。それとアヤム・ゴレン(鶏の唐揚げ)だ。さっき裏で鶏を捌いていたのはメリアムだったらしい。これらをチャペという一種の味噌といっしょにご飯にまぜて食べるのだ。
 「今日は、ダヤクの人がニシキヘビがとれたっていって大騒ぎだったよ。」
 ルディがそう言った。
 「わたしは遠慮したいな。」
 「わたしもよ。」
 メリアムが笑った。
 ルディはわたしたちの話を聞きながら、静かに食事をしていたが、ときどきわたしと目があうとくすっと恥ずかしそうに笑うのだった。
 Kはメリアムとさまざまな話をした。蝶のこと。家族のこと。それから日本とインドネシアの異なる社会や文化や習慣のこと。メリアムは会話を楽しくする才能があるようだ。孤独で報われることのない仕事に熱中していたノールも、彼女の明るい語り口にさぞ励まされたに違いない。粗大ゴミとさえ言われたKには、羨ましくも思えた。
 「彼がまだ生きていたころ、わたしは蝶に全然興味がなかった。亡くなってから、なんとなく気掛かりで、彼が見たという新種のバードウィングを探し始めたの。かわりにみつけてあげたかったのかな。それがきっかけ。もともと専門は植物のほうなのよ。蝶のことなんか、最初ちんぷんかんぷんだったから、それはもう大変。」
 「よく頑張ったね。」
 「彼の一生を無駄な形で終わらせたくなかったのね。でも、本当はわたし自身のためだったかも知れない。」
 メリアムは急に寂しさを含んだ表情になった。
 「最近もしかしたら、そんな蝶、本当はいなかったんじゃないかって思うことがあるの。蝶を探しているうちに、実はわたしがもっと別のものを探してるんじゃないかって。」
 「それはなに?」
 「さあ?」
 メリアムは再び笑顔を取り戻した。
 夜が更けていく。雨のように降ってくる星屑に願いをかけようとは思わない。こうして生きてあることの新鮮さを、一人でも多くの人と分け合うことができれば、もうなにも望みはしない。けっきょくみんな一人だ。一人で生きていけない人間が、どうやって人を愛していけるのだろう?
 テラスのところでメリアムが言う。
 「ルディ、あなたが気に入ったみたい。」
 Kとメリアムは遅くまで話続けた。ポーチには自家発電があり、スポットライトが一つ、二人を照らし出す。
 「それにしてもかわいそうね。粗大ゴミだなんて。」
 「そう思われても仕方なかったと思うよ。ただ・・・・」
 「ただ?」
 「家内も孤独だったんじゃないかな、と。」
 「孤独?」
 「誰も自分を構ってくれないってことさ。」
 「いやあね、感傷的な言葉で。本当の孤独ってそういうものじゃないわ。きっと。わたしが、あなたにとって何でもないって感じることが本当の孤独よ。この人になんの力にもなってあげられてない、って思うとき。どんなに努力しても、それによって誰も救われていないって気づいたとき。・・・・・わたしにはそんなことを思える人すらそばにいないわ。」
 図星だった。わたしは言葉がそこまで追いついていかなかっただけで、確かにわたし自身の、そして別れた妻の寂しさというものを、メリアムはものの見事に表現した。そして、一見爽やかに言い放ったものの、スポットライトの光がメリアムの瞳の中でキラキラと輝いていたのをKは見逃さなかった。
 その夜、Kは若いころに覚えのある、何か新しい発見でもしたときのような興奮に襲われ、なかなか寝付けなかった。星の軌道は音もなく密林の屋根を通り過ぎていった。
 三人の奇妙な共同生活。蝶の採集は朝早くから始まった。ランチボックスを持って昼過ぎまで密林を歩く。午後にはバンガローに戻り、結果の整理をする。Kはノールの部屋だったところを借りて、標本をしたりスケッチをまとめたりした。
 ルディとはすぐに仲良しになれた。
 「今度、サマリンダの家に行ったら、ナマズを捕りに行こうよ。ときどき小さい子が河で泳いでいて、ぱっくり体ごと食べられちゃったりするんだよ。ものすごく大きくてさ。こんな歯、してるんだ。」
 ルディは自分の口を大きくして自分の歯を指す。
 「馬鹿な子ね。でたらめを言うんじゃありません。」
 「本当だよ、ママは知らないんだよ。」
 ある昼下がり、Kはメリアムと二人で山からの帰りに河沿いを歩いていた。ルディはその日、疲れて留守番をしていた。二人は岩場で一休みした。
 メリアムがクイズを出した。
 「ありそうで、ないもの。」
 「何、それ?」
 「原寸大の世界地図。」
 「あるわけないよ、そんなもの。」
 「駄目ねえ、想像力の貧困!」
 愉快だった。
 またたくまに一週間が経った。先にシャワーを浴びたKは、いつものように籐椅子に落ち着いて煙草を喫っていた。メリアムがサロンを巻いたまま、濡れた髪を撫でつけながら表に出てきた。
 「ねえ、日本にもウィンド・ベル(風鈴)ある?」
 「あるよ。貝でつくったものじゃないがね。どうして?」
 「ここにウィンド・ベルがあるの。とってもいい音色を出すわ。このウィンド・ベルを鳴らしているのはなに? 風? それともウィンド・ベルそのもの?」
 「風かな?」
 「風はただそこに流れているだけよ。」
 「じゃあ、勝手にウィンド・ベルが鳴るわけ?」
 Kはばかばかしい自分の答えに笑ってしまった。
 「それはそこに存在しているだけ。」
 「じゃあ、なに?」
 メリアムは微笑みながら髪をタオルで拭い、じっとKの顔を見つめる。
 「あなたの心。聞こうと思わなければ、なにも聞こえやしないわ。」
 メリアムはすぐに話題を変えた。
 「恋人(ブンチンタ)は?」
 「いない。」
 そういう言葉にKは気が引けた。本当に結婚して以来、浮気などしたこともない。離婚後も、付き合った女性は皆無だった。その気になれば、相手になりそうな女性が無いわけではなかったが、Kの心はとてもそこまでの余裕がなかった。
 「まったく、いないね。ひどいもんだ。」
 「ふうん。・・・・・」
 メリアムは真面目な顔をしたままキッチンに入っていく。きょとんとしたKはそれでも何か、仄かなものも同時に感じ始めていた。
 二週間。それは瞬く間に過ぎた。密林はいつも(きし)むような静かな寝息をたてていた。
 午後、メリアムがシャワーを浴びるたびに、Kはある醜いものを覚えた。時間というものがこんなに長く、また苦しいものだろうか。生々しい感情。メリアムにしたところで、この突然降って沸いたような現実に、ある意味当惑している部分があったはずだ。
 生存に対する妄執と、実体に対する執着。人はこれをエゴイズムと呼ぶ。でもこの原罪のようなものを通らないと、わたしたちは自分の生を全うできない。
 その夜、ルディが寝入ってから、Kとメリアムは表を歩いた。ダヤクの集落ではまだ老人たちが座り込んで煙草をやっている。二人とも言葉は少なく、ただ歩みをすすめてはお互いに何かを言おうとし、そして顔を見ると笑って何も言えなくなる。
 雨が降り出した。スコール。二人はたちまちびしょ濡れになった。大急ぎで駆け出す。無駄だとわかっていても、雨の痛さがたまらない。走りながら雨に打たれていることが、そのうちに無性に愉快になってきて、大笑いしながらバンガローに駆け込む。Kが自分の部屋のランプに灯をつけようとする。 暗闇の中でメリアムがまだ息をはずませながら言った。
 「なにをしてるの?」
 「いや、マッチをさがしてるんだ。」
 「灯りをつけないで。・・・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 水浸しのシーツの中で、二人の呼吸が次第に小さくなっていくまで、二人は恐らくなにも考えてはいなかった。メリアムのまだ弾力のある体は、衰え始めたKの筋肉をまるでくすぐっているかのようだ。バンガローの材に染み込んでいる樹液の油っぽい匂いが、これほど柔らかく、また懐かしく思えた夜はない。
 雨は一層激しく降り、それは永遠に続くかと思われるほど。メリアムは小さな声でささやく。『かんたんに飽きないでね。・・・・』肉体はまだ夢を見ていた。
 翌日、Kはバンガローを発った。メリアムとルディはロンギラムまでKを送った。Kはサマリンダへ下る船旅の間、ふとため息ばかりしている自分に気がついた。・・・・・・・・

 手紙の往復。Kは大それたことをしているという恐れと、若い日々に戻ったような興奮を抱きながら、毎日を過ごした。すべてを失ったはずの自分が、もう一度歩き始めようとしていることを、あらためて気づかされた。それまでの生き方の、どこが間違っていて、どこが正しかったのか、冷静に見つめなおす自分が生まれ始めていた。

 一年後、また夏がやってくる。
 サマリンダで迎えてくれたメリアムは、一年前と少しも変っていなかった。必ず来ると決めてはいても、Kにとってはやはり夢見心地だった。その年齢でこんな想いをするなど考えも及ばなかったのだ。そう言うとメリアムは、『夢は、その重さに耐えられる人だけに見る資格があるの。容易にかなう夢は、夢とは言わないわ。』と言って笑った。
 このときはルディがジャカルタの親戚のところにいたので、二人はずっと誰に憚ることなく愛し合うことができた。堰を切ったように愛し合えば愛し合うほど、かえって切なさは胸に迫ってくる。
 以来、三年。二人はけして相手だけのものではなかった。
 メリアムは何度かこれっきりであきらめようとした。彼女の手紙の内容は、むしろ彼女自身を勇気づけようとする文章が次第に多くなっていった。
 『あなたは信じろと言うの? あなたの心は信じようとは言っていないはず。わたしの力で出来ることをすればいい。出来なければ、そう祈るだけでいい。そう言っているはず。わたしは、わたしとあなたが選んだ結果をそのまま受け入れる。二人が苦しめば、そしてそれですべてが済むなら、わたしはどうなっても構わない。・・・』
 二人の間には、あまりにも遠い距離があった。それは物理的な距離だけではなく、生活の基盤や、二人が追い求めてきたことや、これから先なにを共同の目標にしていくのかということなど、山積みの問題が多すぎた。そしてそれらを支える収入のことも。
 二人は新種のトリバネアゲハを追い求めているうちに、実はもっと別のものを、もっと大切なものをいっしょに探していることに気づいた。
 あるときメリアムがこんなことを言った。
 「人間の心には善と悪との二つがあるでしょう? 人を信じるというのは、相手の心の中に棲む善のほうを励ますこと。それによってあなたは善よりもっと尊い報いを手にすることができる。」
 「善より尊い報いってなんだい?」
 「(カシ)よ。」
 「愛ってなに?」
 「それは調和。響きあうことよ。・・・・・」
 Kとメリアムがひっそりと大切に暖めていたものは、あらゆる無駄と無意味さの中で育っていった。なにもかもけして本当には無駄でもなく無意味でもないと信じられる日はいつだろう。
 すべてはどこか微妙な罪の匂いをひそみ隠したまま、先へ先へと二人を押し流していった。
 そんなある日、それは突然訪れた。
 ルディはずいぶん大きくなり、Kたちはもう家族と同様になっていた。ルディはこのところ蝶に本格的な興味を示し始めていた。
 三人はルディの学校が休みのとき、ひさしぶりにそろってロンギラムのバンガローへ出かけた。三日ほどたってルディは、ロンギラムの町へ買出しに行ってきた後、疲れて早々に寝てしまった。
 Kとメリアムはポーチを抜けて、ダヤクの集落へいつものように散歩した。まだ早い時間で、小屋からは明かりが零れ、人の声が騒々しく聞こえてきた。Kは雨が降り出したのに気づいた。突然雷が鳴り、ダヤクの人たちが慌てて小屋に飛び込んでいった。
 「スコールよ。」
 「前にもこんなことがあったね。」
 「妬いてるのよ、きっと。空の神様が。」
 二人はびしょ濡れになる前にバンガローに戻ろうとしたが、やはり無駄だった。
 あっと言う間にスコールに呑まれ、濡れ鼠になった。雨は不思議だ。Kはまるで自分が子供の時分にでも戻ったように錯覚する。雨にはそんな魔力がある。Kの部屋に入ると、メリアムはそっとルディのいる部屋のほうをうかがって言う。
 「大丈夫、もう寝てるわ。」
 メリアムは豹のような体になる。一つ一つKのボタンを外す。
 「ほんとうにあなたは何てことをしてくれたのかしら。」
 「責任を取れとでも?」
 「世の中に、取れる責任なんてないわ。取れないから責任っていうのよ。馬鹿なことを言った罰よ。」
 メリアムは、そう言ってランプに灯をつけた。
 「やめてくれないか、もう若くないんだから。」
 「それはお互い様よ。」
 部屋がオレンジ色に広がっていく。屋根を強烈な雨が叩き、雷も断続的に鳴り響いていた。メリアムはKの体に生命を与えた。ひんやりとした壁際に二人の影が大きく揺れる。野生の夜。切ない呼吸。・・・・・・そのとき、突然二人の間に、同時にあるするどい直感が走った。少しドアが開いていて、そこに柔らかいランプの光を浴びた少年の姿を映し出していたのだ。ルディは雷の音で起き、そこにずっと立ていて、ドアの隙間から二人がしていることを見ていたのだ。メリアムはKの上になったまま、髪をかき上げ、『ルディ』と静かに声をかけた。すると少年はさっと駆け出していった。
 「ルディ!」
 母親は立ち上がり、サロンを体に巻きつけながら、テラスづたいにルディを追いかけた。Kは来るべきものが、最も醜悪な形で来たことをかみしめていた。こんな風に少年の前に現実を無造作に投げつけてしまったと。ベッドに座りなおし、煙草に火をつける。苦い味が喉に染みていく。
 いつしか雨は下火になり、屋根からポーチに落ちる雨音だけがする。Kはテラスに出て様子をうかがったら、ちょうどメリアムが戻ってきた。そしてKに軽くキスをして言った。
 「まだ子供なのよ。ごめんなさい。」
 「わたしが話をしたほうがいいかな。」
 「ううん。今はいけないわ。少し時間がかかると思うの。嫌になった?」
 「とんでもない。でも不注意だったよ。なんて言ったらいいかわからない。」
 「気にしないで。きっとわかってくれるわ。」
 メリアムはKを抱きしめるが、どことなく力がこもっていなかった。
 翌朝、食事のときにはやはりルディは出て来なかった。メリアムは、『あの子、頑固なの』とそっけなく言うが、 心配している様子は隠し切れない。さらに二日時折、ルディの姿を見かけることはあっても、それはごく稀で、ほとんど意識的にKを避けていることは明らかだった。密林の夕暮れはまるでなにかの罪を負っているようだった。生きていることにもしも意味があるとしたら、それは生きてあることの代償に負う罰を受けることかもしれない。Kを襲う激しい後悔と苦痛。ロンギラムの桟橋まで送ってくれたメリアムは、できるだけ明るく装ってはいたが、少したつと気まずい沈黙が二人の間に広がっていた。
 一人でカパル・モトルに乗ってから、Kはメリアムの姿が河岸に小さくなっていくのをずっと見つめていた。マハカム河のゆっくりとした流れがすべてを忘却の彼方へ追いやっていくような気がした。・・・・・・・・・・・・・・・・

 メリアムからすぐに手紙が来た。サマリンダでは再びいつもと変らない日常が回復したこと。Kに自分で自分を責めないで欲しいということ。メリアムにとってもKの存在がなによりも取り返しがつかないほど大きくなってしまったこと。それは長い長い手紙だった。
 一年の間、同じように二人は文通を続けた。メリアムの手紙は以前より頻度がこころもち多くなった。もとよりジャカルタの実家は比較的裕福だった。ノールとは家族の反対を押し切って駆け落ち結婚したことで、勘当同然となっていたが、今ではもう和解できたこと。ルディの様子が最近少しおかしく、学校をサボることが目だって来たことなどが書かれていた。メリアムはルディとしばしば突っ込んだ話をし、ルディもけしてメリアムやKを責めてはいない、と言ったらしい。それでもルディの衝撃は癒される様子が見えない等々。
 結論は一つしかなかった。メリアムが一人の母親である以前に、一人の女性であることをルディにわかってもらうよりほかには。人が人と愛し合うということ。それがどんなに美しいことかを。簡単なようで、大変な勇気がいる。受け入れるルディにとって、大変な勇気のいることなのだ。しかも成否は不透明。
 今年の夏。Kは一年ぶりでボルネオに来た。メリアムは用事でジャカルタに行っているので、サマリンダに戻る頃を見計らって、しばらくこのマレーシア側のコタ・キナバルに滞在している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 すっかり表は晴れ上がり、蝶が舞い始めていた。植物園のほうで降り込められていた妻が、ほかの観光客たちと歓声を挙げながら戻ってくる。
 Kは南洋の深い緑に染まった一帯の密林を眺めながら、もっとずっとはるか向こうを思っている。
 「いつも転んでばかりです。」
 Kは自嘲気味に言った。
 「わたしも、実は転びそうなんです。」
 思わず、二人で笑った。
 「それで、これからサマリンダにいらっしゃるんですね?」
 「ええ、そのつもりです。出来ることはそれだけですから。あなたがたは?」
 「コタへ戻って、明日、香港に帰ります。」
 「そうですか。じゃあ、お元気で。またどこかでお目にかかれるかもしれませんしね。」
 「そうですね。ボルネオの蝶の博物誌。楽しみにしています。きっと完成させてください。必ず。」
 「ええ、必ず。」・・・・・・・・・・・・

 わたしたちは来た道をもとへ辿った。車は、やがて海岸線沿いに走るようになり、コタの街が近づいてくる。燃えるような夕焼けの中で、星が大きく現れ始めた。コタの海岸線に張り出したバイパスに灯りがともり、真珠のネックレスのように輝いていた。
 あと一ヶ月、あるいは二ヶ月すると、わたしたちは別々の生活を歩んでいくことになる。Kや、メリアム、そしてルディにもはっきりとした答えがなく、先が見えないように、わたしたちにも、この結論がほんとうに正しいことなのか、わかってはいない。答えのない問いを問い続けて、何度も転びながらそれでも歩いていくしかないわたしたち。
 国立公園からずっと押し黙っていた妻が、口を開く。
 「わたし、あなたのこと悪く思ってないよ。・・・」
 「うん。」
 ややあって、また妻が言った。
 「わたしの言うこと信じてる?」
 「いや。でも、きみの心は信じてるよ。」
 妻は、くすっと笑った。
 「いまさら思うんだけど、きみは悪い子のときに、とてもいい子だな。」
 「なにそれ。」
 「どうとでも。」
 わたしは明るかった。
 「別れの言葉はないよ。でもぼくたちには、いっしょにいた時間がある。」
 「いやあね、惚れなおしちゃうじゃない。」
 妻は、なんとなく鼻声になっていた。そしてことのほか小さな声で呟くように言った。
 「ありがと。」
 わたしは、ふと口にしかけた。
 「焼けぼっくいに・・・・」
 「火はつかないわよ。」
 わたしたちは、妙に幸せな気分だった。

                                        完

 


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