応募小説
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イレーヌ <2>
                          アギレ


 わたしたちは明け方までヌーメアの南にあるモン・ウェントロの丘で時を過ごした。
 次第に夜が明けていく。ほんのりと東のほうから貿易風が薄明の空を運んでくる。数少ない星たちが最後の輝きを放っては、震えながら慟哭していた。わたしたちは顔を見合わせてはどちらともなくほほえんでいた。そしてやわらかいキスを何度も繰り返した。それはほんとうに恋人どうしのようだった。沖合いには灯台がまだ光を送っていた。
 「アメーデ灯台・・・」
 「そう。君たちの頃にはもうあっただろう? ナポレオン三世の時代だっていうから。」
 返事がなかった。イレーヌはわたしの肩にもたれて瞳を閉じていた。そしてかすかな寝息がわたしの耳に聞こえてきた。海が爽やかな青を取り戻していく。わたしはしばらくそのまま明け方の海を眺めていた。・・・

 昼過ぎ、アパルトマンの部屋で目覚めたとき、イレーヌはまだわたしの腕の中で眠っていた。
 形のよい胸やしなやかな腰つきは、白い抜けるような肌とあいまって歌をうたっているようだった。かすかな産毛が呼吸のたびに揺れる。カーテンの間から午後の眠たそうな光が漏れてくる。それがショート・カットの亜麻色の髪にかかっている。まるで光が踊っているようだった。夜には気がつかなかったが、彼女の瞳はきれいな緑色をしていた。薄い唇が頼りなげだ。その後も、わたしたちは夕方、ヌーメアの町に二人で繰り出すまで、ずっと愛し合うのだった。まるで、七十年の歳月を取り返そうとでもするかのように。・・・

 夕方、わたしはとりあえず、一人でル・ヴィラージュに行って女性用のしゃれた服や、パレオの類を買い込んだ。イレーヌのはしゃぎようは尋常ではなかった。子供のように嬌声をあげながら、それらを試していた。彼女の時代の感覚では、とても考えられない破廉恥なデザインなのだろう。「こんなのとても着れないわ」と「これ素敵」を、何度繰り返していただろうか。
 けっきょく一番のお気に入りとなったパレオをまとい、薄いルージュをさしたイレーヌは、ショートカットがよく似合った。誰が尼と思うだろう? それでも彼女は髪型をえらく気にしているのがわたしには愉快だった。
 その夜は楽しかった。ヌーメアの町を一望できるビーナスの丘で食事をした。バスティードというフランス料理屋だ。夜景がわたしたちを夢の世界に誘った。プールサイドのテーブルをとり、わたしたちはおしゃべりに花を咲かせた。ライトが水に照り返して彼女の明るい表情に溶けていく。揺れるまなざしは、ほかのテーブルのカップルの注目を集めていた。それほど、彼女は目立った。
 わたしは夢中だった。
 「クスクス(北アフリカ料理)はないの?」と、彼女はギャルソンを困らせていた。踊りに行っても、彼女は男たちの熱い視線に気持ちよさそうだった。
 夜半、アパルトマンに戻ったわたしたちは、また体を求め合った。それは永遠に続くかとさえ思われたのだ。おろかなわたしを、今思い出す。終わってしまうとしたら、いったい何がきっかけになるのだろう? ふとそんな不安がよぎることもあったが、そのときのわたしはただもうイレーヌの透明な体液に溺れるばかりだった。
・・・・・・・・・・・・・・・
 翌朝わたしたちは四十人乗りの小型フライトで、本島東の沖合にあるリフー島へ渡ることにした。
 アパルトマンを出るとき、イレーヌが降りてくるのを階下でしばらく待っていたら、若いギャルソンと年寄りの門番が、にやにやしながらわたしに話かけてきた。
 「ムッシュー、あの娘、どこでひっかけたんです? フランス人でしょう?」
 「北アフリカと言ってたけどな。」
 「なんだ、アルジェの女か。」
 ギャルソンは急に興味を失ったようだった。フランス人とはいえ、自分の植民地生まれを棚に上げて、人のことになるとやけに差別的だ。
 「えへへ。旦那。あのギーのお化けじゃなくて、よかったね。綺麗な脚をしているものな。幽霊じゃあ、ああはいかない。」
 老人は例によって卑猥な笑い方をした。
 「さあ、どうかな。実はギーのお化けかもしれないよ。」
 わたしが意味ありげに笑ったので、老人は、「神のご加護を」と言って、肩をすくめてみせた。
 リフー島を選んだのには理由がある。わたし自身、本島の埃っぽい赤土や、しわがれたような木々の緑に飽き飽きしていたのだ。荒野の一本道にデニーズが一軒あったら、アメリカの西部だと思うだろう。その開き直ったような荒涼たる風景は、ともすると白樺並木と見間違えそうなニヤウリ(薄荷)の木の清涼感だけでは、とても補うことができなかった。これではせっかく南洋へ来た甲斐がないというものだ。離島の中でもリフー島は規模が大きく、また熱帯の原生林に溢れているという触れ込みだったので、わたしは一も二もなくリフー島に決めてしまったのである。
 フライトは快適だった。本島を横切ると海はまるで眠っているようだった。ガラスをちりばめたような波光に思わず目を伏せる。イレーヌは窓際に釘付けとなり、顔を見合わせるたびに新鮮な笑顔を返してくる。それまで見たこともないような明るい瞳が無数に彼女の表情に映し出され、そのたびにわたしを幸せにした。
 まもなくリフー島が見えてくる。緑が濃い。旅は今ほんとうに始まったばかりだった。イレーヌはしっかりとわたしの手を握っている。原生林の緑が彼女の汗を通して染み入るようだ。命が伝わってくる。・・・・・
 アイルを挟んでリフー島へいく中年のフランス人神父と知り合いになった。リフー島にも二つほど十九世紀に建てられた小さな教会があるそうだ。彼は島の北西部にあるシェペネヘの海岸のルーデという教会に用事があるということだった。わたしはリフー島の様子を聞いてみた。何の予約もしていない。神父は島の南東部にルエンゴニという一番きれいなビーチがあると教えてくれた。以前は観光客が泊まれるような施設が少なく、原住民の集落しかなかったが、最近では簡単なバンガローがいくつかできているはずだ、とそう言った。
 わたしたちがリフー島に降り立ったあと、その神父は親切にも交渉してくれて、知り合いから、車を手に入れてくれた。島にはそういうシステムが無い。すべては個別交渉だった。わたしたちは塗装がすっかり剥げ落ちて、そうとうガタのきたルノーに乗り、一路、島の南東部へ向けて走った。中央部にある最大の集落ウエの村はそれでもポツポツと郵便局やら役場やらが点在していた。真っ青なシャトーブリアン湾が見えてきた。この海岸線に沿って行くのだ。
 ウエの村はずれにまぶしいほど白い小さな教会が見えた。桟橋を過ぎると道は椰子と熱帯樹の群落に包まれていった。砂地に珊瑚を固めただけの道からはときどきの木立の切れ目を通して眩しい海が見える。椰子が多い。白地に大きな黄色の花模様を飾ったパレオが気持ちよさそうにイレーヌの肌に馴染んでいた。すべてはうまくいっていた。このまま永遠に時が止まってしまえばいいとわたしは思っていた。
 二十キロ近くを走りづめただろうか。そろそろあの神父が教えてくれたルエンゴニの村が現れるはずだ。
 「驟雨(スコール)・・・」
 イレーヌが不安そうに小声で言った。
 「滅多に雨なんか降らないよ、ここは。」
 しかし、イレーヌが言った通り、あたりは見る見るうちに鬱陶しい湿気に包まれていった。先行きが急に明かりを吹き消した夕闇のように真っ暗になった。そして十メートルと視界が届かないくらい激しい雨が森を襲った。わたしは川のように流れる道の脇にルノーをとめて、雨足の過ぎ去るのを待った。
 わたしたちは顔を見合わせては吹き出して笑い、またキスを繰り返すのだった。放熱する大地から白い蒸気がもうもうとたち、真っ暗な小道を幻想の世界に誘った。・・・
 やがて雨が通り過ぎ、わたしたちはうそのように晴れ上がった中をまた走り始めた。少し行くと道が別れ、標識もないままにわたしは左にそれてみた。もう距離的にはルエンゴニについてもよさそうなものだ。
 これ以上白いビーチはないと思えるほど海が透き通っていた。椰子の群落の間にわずかなバンガローが立ち並んでいた。わたしはそのうち煉瓦と石でできた母屋風の受付に車を寄せた。
 帳場は時代錯誤も甚だしいポスターや小物で埋め尽くされていた。まるで商売っ気のなさそうな白人の男が取ってつけたように笑ってみせた。眼鏡の底からイレーヌをジロジロ見ていた男は、わたしがなにも言わないうちから番号札のついた鍵をカウンターに置いた。
 「何も書かなくてもいいのかい?」
 「ムシュー、二度も記帳しなくたっていいと思うがね。ご親切は有難いがね。」
 「もうチェックインした?」
 「二日前にね。何泊されるんで?」
 「これから二日ほどかな。」
 男は薄っぺらい宿帳を取り出して、物臭そうに開いた。そして、記帳箇所を指差した。
 「だとすると、日にちの勘定は合うがねえ。」
 男はそう言って、わたしの顔をまじまじと見つめた。そこにはわたしの筆跡で記帳がすでになされていたのだ。二日前にチェックインしている。しかも、四泊の予定と、わたしがメモまで加えている。
 わたしはもしやと思い、「馬鹿なことを聞いてもいいかい?」と尋ねた。
 「この際、なんでもどうぞ。」男は、さすがにもうにが笑いをしていた。
 「今、西暦何年だね?」
 「パリでも、ここでもたぶん一九一八年だと思うよ。」
 「わかった。ありがとう。そういうことだね。」
 「ああ、そういうことさ。」
 わたしはクスクス笑っているイレーヌの腕を取り、急き立てるように表へ出た。海岸のすぐ近くまで密林が迫っていた。まったく人がいない。わたしたちのバンガローはいちばんはずれのところにあった。「あのスコールだ・・・・」わたしはやっと気がついた。イレーヌも思い出したように笑っていた。わたしは落ち着きはらって言った。
 「どうやらぼくたちは、以前ここへ来たことがあるらしいよ。」
 「そう?」
 イレーヌはおかしくてたまらないようだった。愚かにもわたしは七十年前のわたし自身に嫉妬を覚えた。そのもう一人のわたしはイレーヌとここで休暇を楽しんでいたのだ。イレーヌが、修道院をどう抜け出してきたのかは、わからない。ただ、ここで二人が甘い生活を夢見ていたことだけは確かだろう。その気持ちの動きが、彼女にもわかったのだろうか、イレーヌはとうとう声をあげてげらげら笑い出した。わたしは彼女を追いかけた。パレオが解けて目が焼け付いてしまいそうな白い肌が熱帯の光の粒子を弾いていた。転んだ拍子に、あっ、と小さな声をあげたイレーヌは、指を見つめた。珊瑚で左手の薬指を切ったのだ。真っ赤な鮮血が滲む・わたしがそれを口に含むと、彼女はどういうわけかはにかんだ。ほんの少しの優しさにてらいを覚える少女のようなところに、わたしはまた夢中になった・
 わたしたちはひとしきり渚で戯れ、そのうちに砂の塩辛さにまでまた愉快になっていった。
 彼女を追いかけて密林に分け入ると、彼女の嬉々とした声が鳥の歌の合間に尾を引いていく。彼女の姿を見失ったわたしは、慌てて大声で呼んでみた。
 「イレーヌ! どこだ?」
 すると彼女は太い椰子の木陰から姿を現し、自分の唇に人差し指をあてながら、『シーッ!』とわたしの言葉を制したのだった。
 「どうして?」
 わたしも思わず声をひそめて尋ねた。
 「森や海に聞かれてしまうから。・・・・」
 「?・・・・・」
 「精霊たちには内緒にしているの。わたしが抜け出してきたことを・・・・」
 イレーヌは、何をしていても、楽しそうだった。言っている意味の半分もわたしには理解できない現実だとしても、それでもわたしは十分に幸せだったのだ。
 夕方になってわたしたちは木陰でまた愛し合った。滑らかなバナナの大きな葉を敷き詰めてて、何度もわたしたちは力尽きた。柔らかい葉は素肌に優しい。木立の間から午後の眠たそうな日が差し込んでくる。かなわない愛とも、禁断の恋ともわからなかったが、それでもわたしにはなにか甘い冒涜の味のような気がして、彼女の中に入っていくたびに見せるうっとりとした表情を飽かず見つめていた。・・・・
 夜、わたしたちは、近くのメラネシアン部落で食料(といっても、魚と芋ばかりだったが)を手にいれ、それをバンガローで料理した。安物の赤ワインが格別白身の焼き魚と合った。ふと気がつくと彼女はわたしを見つめている。オレンジ色のランプに恋人の顔が揺れている。瞳は涙をこらえていた。かすかに笑う彼女をわたしは抱き寄せた。
 「東京へ行こう。」
 イレーヌは答えなかった。ただ、「トウキョウ・・・」と囁くだけだった。
 「明日、椰子ガニをつかまえようよ。」
 その言葉にも、イレーヌは震えながらうなずいていた。切ない感情のひだに埋め尽くされた微熱のような思いが滲み出るようだった。真っ暗な木立の間にぼうっと白いさざ波が浮かびあがる。黒い海を目で追っていくと、やがて星がちりばめられた空に続いていく。月は頼りないレースのカーテンを地上に引いていた。ふとイレーヌが、「あなたとは、またどこかで会える気がするわ。・・・」と囁いた。それが何を意味するものか、わたしの思考はもうほとんど追いついていかなかった。重くなっていくまぶたは、彼女の言葉を聞いていなかった。やがてわたしは寝入ってしまったのだ。ひんやりとしたゴザが、眠りをどこか遠いところへ連れて行くような気がした。永遠を手に入れるには、もしかしたらそれを一度手放さなければいけないんだろうか、などと妄想を抱いたのがわたしの記憶の一番最後のものとなった。・しかし、その夢の続きを、いったいどうやって、いつ見ることができるというのだろう。・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 いったい本当にそれは幻想に過ぎなかったのだろうか?明け方にわたしは夢を見た。それはあのヌーメアの慈善院で出会った弱弱しい老神父だった。彼が、「あの部屋」にいた。例によって、ロッキングチェアに腰掛けて、ゆっくりと揺れていた。目を閉じている。小窓から朝の最初の光が飛び込んでくる。それがスポットライトのように老人の姿を覆う。爽やかな風がゆったりとした深呼吸を誘う。老人はふと目をあけると、思い出したように微笑んだ。彼は長いあいだそれを待っていたのだ。償いきれないものにようやく終焉をもたらすことができたのか。老人は再び目を閉じると、二度と世界を見ることがなかった。後にはただ光の渦がまるでチンダル現象のように老人の亡がらを包み込むばかりだ。・・・・・・・・
 そのときだった。イレーヌが目を覚ましたのは。イレーヌの表情はこわばっていたものの、すべてを了解したような脱力感に襲われていた。彼女もきっとそれを待っていたのだ。乳白色の朝の光はここにも差し込んでいた。若さの息遣いをその滑らかな肌に匂わせながら、影はどこまでもつきまとった。わたしはその横で、まだ深い眠りから覚めることがなかった。ふとイレーヌはベッドに起き上がり、タオルを体に巻きつけると、窓辺に近寄っていった。あの雨雲がまた張り出していた。あたりはにわかに暗く、そして哀しい「にび色」に変わっていった。まるで鉛を空気に溶かしたようだ。イレーヌは脱ぎ捨てたわたしのシャツやジーンズをひとつひとつ拾い上げ、きちんとたたみ始めた。ときおり彼女はシャツを自分の顔に押し当てて、わたしの懐かしい匂いを嗅いでいるようだった。そのときジーンズからじゃらりと音がして、あの慈善院の老神父がくれた古いロザリオが床に落ちたのだ。イレーヌの瞳が輝いた。手に取るとそれを大事そうに握りしめて、まだ寝息をたてているわたしのほうを優しそうに見やった。そうだ。そのロザリオは君のものだ。わたしが現れるのをずっと待っていたんだ。そして七十年間もその罪を隠し、また悩み続けいたドーミエ神父もまたそれを君に返そうと、沈黙と懺悔の中で待っていたんだ。イレーヌはわたしに近寄り、そっと唇を重ねてきた。粘膜を通して、イレーヌの涙が染みていく。糸を引くように彼女の匂いがベッドに残る。イレーヌは窓の外を眺めた。もうすっかり表は激しい雨に襲われていた。暗い。水しぶきが、景色を覆うように潜み隠していた。彼女がバンガローを出て行く。わたしは彼女の名を呼ぶ。聞こえない。雨音が激しすぎて、それでも声にならないわたしの声が、きっとイレーヌには聞こえたのだ。タオルを巻いたまま彼女は濡れ鼠になっていた。密林へ伸びていく小道で彼女は振り返り、名前を呼ぼうとするわたしに、『シーッ!』と人差し指で注意する。わたしには、それが確かに見えた。熱を含んだ地面から蒸気が立ち上る。スコールとその蒸気の中を、イレーヌ、君はどこへ行こうというんだ。このわたしをおいて。・・・・・・・
 わたしが目を覚ましたとき、もうスコールはすっかり止んでいた。そして、イレーヌの姿はどこにもなかった。わたしはジーンズのポケットに手をつっこみ、あのロザリオも無くなっているのをたしかめた。夢は、ほんとうにあったことだったに違いない。
 わたしは慌てて表に飛び出した。まぶしい太陽が慣れないわたしの目に飛び込んできて痛いほどだ。地面は濡れている。たしかにさっきまで激しいスコールがあったのだ。わたしは受付のある建物へ駆けていった。違う。そこには違う建物が、明らかに現代的な様式の、色気のない事務所がそこにあった。振り返ってみると、わたしがいたバンガローも、昨日見たものとまったく違う代物に変わっていた。殺風景な事務所のステンレス製のドアを押し開き、カウンターに駆け寄ると、白人とメラネシア人の混血らしい太った中年女が缶コーラを飲んでいた。そして、横には一人、たぶんその息子だろう。少年がラジカセをいじっていた。アメリカのポップスが流れている。女は愛想よく笑いかけてきた。「ボン・ジュール、ムッシュー・オカダ・・・」
 「昨日の、・・・あの白人は君の亭主かい?」
 「わたしの連れ合いは白人じゃないし、それに今はヌーメアに行ってるからね。人違いでしょ。誰のことを言ってるのさ?」
 「いや、それはもういい。ところでわたしと一緒に来た女性だがね。今朝見かけたかね。スコールがものすごかったときだと思うんだけど。」
 その女は不思議そうな顔をした。
 「ムッシュー、あなたは疲れてるんだ。昨日は、あなた一人でいらしたじゃないの。夢でも見たんじゃなくて?」
 わたしは呆然と立ちすくんだ。見るに見かねたその女は、宿帳を取り出してわたしの前に開いて見せた。プラスチックのバインダーに綴じた宿帳だ。
 「ほら、ね。一人でしょ、チェックインは・・・」
 わたしは彼女の指差すところを言われるままに目でたどった。そのとおりだ。そして、日付の後ろにわたしは自分で、一九八五年と記してあった。わたしは次第に錯乱してきた。女は追い討ちをかけるように、古い写真を取り出した。それは昨日帳場にいた男の写真だった。ずいぶん痛んでいるが、はっきりと顔は認識できた。
 「わたしの曽祖父。白人といったら、一族で彼だけ。もうとっくに亡くなっているけど。まだわたしが生まれる前にね。・・・」
 わたしは朦朧とした気持ちになり、彼女の言うことをほとんど聞き流していた。昨日の帳場の男は、セピア色の世界に染まってわたしをまじめそうに見つめている。わたしはもう一言も口にすることなく、ふらふらとまたバンガローへ戻っていった。潮風が耐え難いほどに耳にさわった。部屋の中も、よく見れば、昨日わたしたちが愛し合った様子と、まったく違ったものになっていた。さっきまでイレーヌがいたベッドにも、もうなにも匂いは残っていない。わたしはすべてが終わったことを認めるよりほかなかった。・・・・・
 まる一日ルエンゴニでぼんやり過ごしたのち、わたしはようやく気持ちの整理をつけて出発した。ルノーは相変わらず不健康なエンジン音をがなっていた。空港ではもう帰りの便が満席で、わたしは幻滅した。リフー島にくるときに知り合った例の神父がたまたま居合わせて交渉にあたってくれたが、これはもういかんともなし難かった。わたしは丁重に礼を言った。
 「ところで、ルエンゴニはいかがでした?」
 「ええ、おかげさまでいい休暇になりました。あなたもまた早いお帰りですね。」
 「実は明け方に、サン・ジョセフ聖堂に長いこといた長老格の神父が亡くなりましてね。急いで戻ることになったんです。」
 わたしはそれがいったい誰のことを言っているのかわかっていた。
 「どなたでしょう? たぶん先日わたしが慈善院でお目にかかった方かもしれません。」
 「そうです、慈善院で静養していたんですがね。もう高齢でとうに引退していました。それでも今朝は、夜明け前にはきれいに身支度を整えて、ロッキングチェアで一息入れていたらしく、眠るように亡くなっていたというんです。若い神父が見つけたときには、朝日を一杯に浴びて、それはもう思い残すことはなにもない、という幸せそうな表情だったそうです。ご存知でしたか。ドーミエ神父というんですが。・・・」
 わたしは知っていた。なにもかもわかっていた。
 その日、わたしは飛行機をあきらめ、船に乗った。一晩かかるが仕方がなかった。日本の連休ももうすぐ終わる。それまでには、帰っていなくてはならない。船は、カプ・デ・パンという名で、ちょうど島の東南を周りこむようにして本島へ戻る航路をとった。ルエンゴニの海岸を過ぎ、松の岬(カプ・デ・パン)を通るからその名がついたらしい。
 わたしは甲板で午後の死にそうな倦怠を体いっぱいに浴びて海風を感じていた。思い出は思い出でしかない。時を逆転させても、後に残るものは、前以上の寂寥でしかなかった。
 観光客が同乗していた。フランス人が多い。どちらかというとバックパッカーのような連中ばかりだ。わたしはにわかに喧騒に包まれた甲板がたまらなくなり、早々にキャビンに戻ろうとした。そのときすれちがった女性の長い髪が、わたしの顔にかかった。
 「あ、・・・パルドン(ごめんなさい)」
 その女性がそう言って、わたしをちらっと見た。
 「イレーヌ・・・」
 わたしは目を疑った。Tシャツにジーンズをはいた彼女は、髪の長さこそ違え、イレーヌその人だったのだ。彼女は驚いて言った。
 「あら、どこかでお会いしましたっけ?」
 話し方まで、そっくりだ。声の質、フランス語のアクサン、イレーヌその人だったのだ。
 「いや、人違いかもしれない。」
 「あら、そう? あなたは・・・ジャポネ?」
 「ええ。」
 「わたしもこれからトウキョウに帰るのよ。」
 「帰る?」
 「そう。銀行の駐在員でいまはトウキョウ勤務なの。これでちょうど一年。リフレッシュ休暇でここまで足を伸ばしたの。」
 「出身はどちらです?」
 「フランス・・・」
 彼女は、目を大きく見開いて、あたりまえじゃないの、という表情をした。
 わたしは苦笑した。
 「それはそうだろうけど。」
 「よくわかるのね。ほんとうはアルジェ。両親が60年代にパリに移ったの。発音が北アフリカっぽいかしら?」
 「行ってみたいな、北アフリカに。」
 「いいところだわ。といいたいけれど、わたしも実は行ったことがないの。」
 わたしはそれ以上話が出来なかった。にもかかわらず甲板を立ち去り難く、風に当たりながら時折彼女を見ると、彼女のほうも、緑色の瞳がなんとなくわたしを気にしているようだった。これは、夢ではない。あの晩、イレーヌが言った、「またいつか、どこかであなたと会えるような気がするの」という言葉を思い起こしていた。
 ふと横にいる彼女の左手の薬指にわたしは目がとまった。バンドエイドで巻いてあったからだ。わたしは勇気を出して聞いてみた。
 「あの・・・薬指、どうしたの?」
 イレーヌというその女性は、明るく笑いながら言った。
 「ああ、これ? わたし馬鹿なの。ルエンゴニっていうビーチ、ご存知? 昨日、あそこの珊瑚で怪我をしちゃって。・・・まだ痛むの。・・・」
 そう言ってイレーヌはまたにっこりと微笑むのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                完
 
 


 


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