【知の庭】
2009.9.14      

上田藩 風土と人 Vol.67
Local historians

智将のほまれ高き真田昌幸
徳川の大軍を二度も撃破する

天下に誇る名城、上田城

渡辺 誠

 猿飛佐助といえば、少年雑誌もまだ普及していなかった大正時代の子どもたちにとって、夢をはぐくむ唯一の娯楽読物だった「立川(たてかわ)文庫」の中でも、すこぶる人気を博した忍者。花も実もある大将、真田幸村の配下の「真田十勇士」の中にあって、最もかがやいて見えた漢である。


真田昌幸

■真田井戸が抜け穴に
 戦国真田氏の居城、信州・上田城には、その猿飛佐助らの忍者が潜んでいた隠れ穴がある。――というのは架空の話で、実は抜け穴として伝えられているもので、本丸の南西にのこる井戸のことだ。
 ――真田井戸
 と呼ばれるその井戸から、穴は北方三キロメートル、太郎山の麓の砦まで通じているという。
この抜け穴は、二度にわたる籠城戦で、兵糧の搬入に使われた、とも伝えられている。いずれも対徳川の戦いだったが、二度ともに敵を撃破したのは、上田城が堅守をほこる名城だったからでもあろう。


上田城

■自然の要塞
 上田盆地のほぼ中央に位置するこの平城(ひらじろ)は、千曲川の分流を引いた尼ヶ淵(あまがふち)の断崖を南にひかえ、太郎山が北を扼し、本丸、二の丸、三の丸を水堀が囲んでいる。
 しかし、徳川の大軍を迎えて、これを撃退した要因の最たるものは、この城を築いた当人、智将真田昌幸(まさゆき)の奇策であった。
 初度の籠城戦は天正十三年(一五八五)の秋八月だ。千曲川を渡河して神川(かんがわ)、国分寺の周辺に寄せてきた徳川軍は七千余騎、立て籠もる真田軍は、わずか二百余騎に雑兵千五百余人だった。
 戦端は閏八月二日に開かれた。
 ――敵城は天守をもたぬ小城なり
 と、侮った徳川の軍兵は、昌幸の嫡男の信幸(信之)率いる小隊が城内へ退くのに乗じ、城下から大手門に押し寄せてこれを破ると、城壁をよじ登る。
 このときであった――昌幸の合図と同時、かねて繋留していた大木、大石が、切って落とされてかれらの頭上に降りかかって、矢玉が雨あられと浴びせられたのは。
 たまらず、徳川の兵卒は、算を乱して敗走したけれど、城下へと逃げたところを柵で退路を阻まれて、伏兵の一斉射撃の的となった。城東三キロメートルの神川辺に追走された兵も、折から水嵩の増していた川にはまり、大半は溺死したのである。
 ――第一次上田合戦
 また、「神川の戦い」と、それは呼ばれている。
 真田の誘導作戦がまんまと功を奏した大勝利であった。


真田幸村

■徳川秀忠軍を釘付けに
 越えて慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の役に際して、上田城は再度、籠城戦を展開するのである。
 天下分け目のこの戦争で、東山道(とうざんどう)方面の西軍を押さえるべく、徳川秀忠は、二十二歳の初陣ながら、三万八千の大軍を動かし、強豪の真田昌幸と次男の幸村(正しくは信繁)の牙城に迫った。対する真田軍の兵力、二千五百。敵の十分の一にもはるかに達しない数だった。
 「喧嘩」は、九月六日に始まった。
 城の東へ侵入してきた徳川兵は、
 ――刈田(かりた)
 という作戦に出る。
 収穫期の稲穂を刈り取るというもので、これに業を煮やして籠城兵が突き出してくるのを「みなごろし」にせんとする、一種の陽動作戦だ。黄金に色づいた稲穂を全滅されては、領民はたまらない。領主としては、とうてい見過ごすわけにはいかない。
 確かに、「刈田」を防ぐべく、兵が城から出ては来た。しかし、それは小競り合いをするほどの寡兵であった。
 一進一退、押し出しては退く、その繰り返しで、その少数の兵は十分に徳川兵を城へ引きつけると、大手門に寄せた敵兵に、一斉射撃をかけた。
 刈田作戦を防ぐと見せて、敵を挑発し、誘い込んで、一気にこれを討つ、奇策中の奇策がこれであった。
 ――将兵のみならず、足軽、小者から、百姓、町人に至るまで、敵の首一つ取れば百石を与える
 こう令した真田昌幸のリーダーシップのために、この戦いにのぞむに士気が大いに高まっていたことも、この「第二次上田合戦」を勝利に導いた因となった。
 関ヶ原の役後、昌幸は幸村とともに高野山(和歌山県)に蟄居させられて、同地に没している。幸村がその後、豊臣方に属して大坂の陣に参戦して戦死したことは、周知のことであろう。

■信幸が生き残る
 幸村の兄信幸は、関ヶ原では東軍に参じて、父と弟を敵にまわして戦った。
――東西両軍、どちらに勝利がころがりこんでも可
 という、信州・真田氏の生き残り策から出た行動だったとする説が有力だ。
 ともあれ、信幸は役の後、上田に九万五千石を与えられている。
 上田藩は、真田信幸の松代(まつしろ)への移封(元和八年〈一六二一〉)後、仙石忠政が入城て代をかさねたが、その転封(宝永三年〈一七〇六〉)以後は、藤井松平氏が藩主の地位を世襲して、維新をむかえている。

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渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
 
 


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