【知の庭】
2009.8.24      

山形藩 風土と人 Vol.66
Local historians

東北で競い合った
最上義光と伊達政宗

戦いのさなかに義姫が輿を入れて諌める

義光は初代山形藩主に

渡辺 誠

 山形県は、南北に縦走する奥羽山脈と出羽丘陵との間にできた三つの盆地と、最上川が北流して日本海にそそぐ地に開けた庄内平野とから成っている。



最上義光像

■群雄割拠
 盆地は、南から置賜(おきたま)・村山・最上と順に並んでいて、伊達氏の置賜を除いて、村山・最上の両郡は、群雄が割拠して、麻のごとく乱れていた。
 最上地方の山形城に生まれた最上義光(よしあき)が二十五歳のとき(元亀元年=一五七〇=)に家督を継いだころ、最上氏の勢力は、まだ微々たるものだったが、彼は一族の重臣を抱き込み、これを用いて、その主家を滅ぼすのを常套手段として、諸氏を根絶やしにして、勢力を強大にしていった。
 最上義光は容貌魁偉、軍場にのぞむとき、
 ――義光持之(これをもつ)
 と刻んだ鉄の棒を常に手にしたというほどに、膂力は人に勝れていたという。
 その伝えからすると、典型的な「猛将」といったイメージを受けがちだが、むしろ彼は、稀代の謀略家として鳴った戦国武将だったのである。
義光は、最上一族の内政に干渉する周辺の豪族たちに対応する、若き日からの苦闘により、いつしか謀略家としての性格が、身についたのだったが、そうした諸氏の背後に君臨していた大族が、伊達氏である。
 その伊達氏の政宗が十五歳にして初陣した天正九年(一五八一)、三十六歳を数えた最上義光が北辺の現・最上郡に進出し、庄内の武藤(むとう)氏と、この地を争奪しあうことになったころである。
 
 義光は、そして越後に接する豊饒の穀倉地帯である庄内を切り取るべく、得意の謀略戦を展開していったのだが、自身の領内には、反・義光派の分子が胚胎していたのである。
 そういう分子の後背には、十八歳で伊達氏十七代の当主となった政宗の影が、絶えず立ちはだかっていた。

■政略結婚させられた義姫
 そもそも、伊達氏は、義光の家督継承のときから最上氏に干渉してきている。
 先代の最上義守(よしもり)が、義光を嫌い、その弟の義時(よしとき)に家督を継がせようとしたことから、お定まりの内紛が家中に生じたとき、これを好機として最上氏の地を侵すべく干渉してきた近隣の諸族の中に、政宗の父・伊達輝宗(てるむね)もいたのだ。
 輝宗の室・義姫は、実は最上義光の二歳下の妹である。輝宗は、義兄の義光の苦境につけ込もうとしたのだった。
 境界を接する伊達・最上の両氏は、久しい以前から、しばしば紛争を繰り返してきた。すなわち「犬猿の仲」の両氏の融合のために、義姫は政略の資とされたのであろう。彼女は米沢城の東の館(やかた)を居所としていたので、「お東(ひがし)さま」と呼ばれた。しかし、両氏の間の波風は、その後も鎮まる気配がなかった。
 義姫が二十歳のとき産んだ政宗も、父輝宗の非業の死の後、母の実家・最上氏と和そうとしなかった。
 手の込んだ謀略に長じた伯父の義光に、かえって、政宗は不信感を募らせるばかりで、両者の関係は、ますます険悪になる一方であった。



山形城

■伊達政宗との争い
 そういう最上義光と伊達政宗とが、直接に対決することになったのは、天正十六年(一五八八)のことだった。
 義光が二十一歳下の甥の政宗と戦ったこの戦争の主戦場は中山(なかやま)口、現在の上山(かみのやま)市と南陽市との境に置かれた両陣営の橋頭堡の間に、そのとき忽然と、一人の美貌の女性を乗せた輿(こし)が現れたのである。
 お東さま――義姫(保春院)、このとき四十一歳。
 実兄の義光と、長男政宗との激突を回避すべく、米沢からの三〇キロメートルほどの道を北へやって来て、両陣営の中間に輿を据えさせた彼女は、殺伐とした戦場に咲いた、白百合のようなそれであった。
 義光も、政宗も、帰るようにと説得したが、気性激しい義姫は、梃(てこ)でも動こうとしない。
 実に八十日の間、輿は割って入ったままだったという。
 結局、義姫のこの唐突な行動により、義光と政宗は和解するに至っている。

■摺上原の戦い
 翌天正十七年(一五八九)は、有名な「摺上原(すりあげはら)の戦いだ。磐梯山麓(福島県猪苗代町)でくりひろげられたこの戦いで、伊達政宗が蘆名氏を撃破すると、最上義光が蘆名・佐竹氏と合従(がっしょう)してつくりあげた伊達包囲網は崩壊し、義光は孤立していく。
 しかし、中央から進出してきた豊臣秀吉の勢力の前に、最上・伊達の両氏は、もはや北の大地を争奪しあうどころではなくなったのである。
 それからの義光は、ひたすら中央の政権に対して、露骨に媚態を示し、忠勤に励んだ。一時は宿願の庄内を掌握したこともある、清和源氏・足利氏の流れをくむ誇り高き武将、義光の昔日の面影は、もう、そこには見られなかった。
 その間に彼は、三男・家親(いえちか)を豊臣の大部将・徳川家康の近習に差し出し、愛娘の駒姫を秀吉の養子・秀次の侍妾(じしょう)として、京へ送り、さらには次男・義親(よしちか)を、秀吉の実子である秀頼に奉仕させている。



灯篭流し

■直江兼続と戦う
 関ヶ原の役には東軍に参じ、会津の上杉景勝の参謀の直江兼続と死闘(出羽合戦)をくりひろげた義光は、戦後、庄内と羽後(うご)の由利郡(秋田県)を加えられて、五十七万石の太守となり、慶長十九年(一六一四)に没した。
 これより先、豊臣秀次の切腹一件に連坐して、駒姫は斬殺され、長男・義康(よしやす)は、家康の意をくんだ父義光の手で殺されている。
 山形藩は義光の死後、御家騒動のはてに次男・義親は自害、三男・家親は変死をとげ、やがて元和八年(一六二二)、最上氏は改易に処せられている。
 その後、鳥居氏、保科氏など、めまぐるしく藩主が交替し、幕末の弘化二年(一八四五)、最後の領主の水野氏が入城したときは、最上氏時代に実収百万石を誇った山形藩は、わずか五万石の小藩になっていたのである。

このサイト「そら飛ぶ庭」を主催する「企画の庭」は朝日新聞のサイト「朝日コム」と、毎日新聞のサイト「毎日jp」に情報提供しています。

 

渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
 
 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.