【知の庭】
2009.6.8      

秋田藩 風土と人 Vol.64

Local historians

久保田神明山に新城を築く
北条氏と常陸で拮抗、強くなった佐竹一族

連歌を好んだ義宣

渡辺 誠

 戦国の世もひと昔前となったころである。あるとき徳川二代将軍秀忠が仙台藩主の伊達政宗、秋田藩主の佐竹義宣(よしのぶ)、米沢藩主上杉景勝の三人を茶の湯の席に召したとき、秀忠から政宗に、「生涯随一の会心の合戦は何であったか」と下問(かもん)があった。政宗が言上したのは意外な合戦であった。



秋田城跡

■佐竹義重との戦い
 政宗二十二歳を数えた天正十六年(一五八八)夏六月上旬から一ケ月余りの間、岩代(いわしろ、福島県中央部と西部)の安積郡窪田(くぼた)(現郡山市の内)において、会津・黒川(会津若松市)の城主・蘆名義広(あしなよしひろ)とその援軍、すなわち実父である常陸太田(茨城県常陸太田市)の城主・佐竹義重(さたけよししげ)の軍勢と対峙した戦いである。
 東関東随一の戦国大名佐竹氏十八代の義重は、このとき政宗より二十歳上の四十二歳、長男の義宣は十九歳、そして次男で蘆名氏二十代の当主に入れられて「蘆名盛重(もりしげ)」と称した義広は十四歳を数えたばかりだった。
 三年前(天正十三年)の十一月には、対陣の場の北一二キロメートル、会津・仙道(せんどう)の要衝の本宮((もとみや・福島県本宮市)辺で、政宗は佐竹・蘆名の連合軍と相見えている。
 連合軍の唐突な撤兵(理由については諸説がある)によりようやく敗戦の危機を脱したこの「人取橋(ひととりばし)の激戦」を、政宗が挙げなかったのはもっとものことである。 しかし、この翌年(天正十七年)六月に蘆名氏を撃破した磐梯山麓(猪苗代町)の「摺上原(すりあげはら)の決戦」ではなく、あえて前年の戦いをわが「生涯随一の会心の勝負」と、将軍秀忠に答えたのが不可解である。
 右は佐竹側の資料(『佐竹家譜』)に載る口碑なのでやや問題があるとしても、ともかく政宗は、佐竹義重と義宣といった名将率いる大軍と、寡兵をもってよく敵したことを、誇らしげに御前に言上したことになっている。

 話はつづく――。佐竹義宣はその席では黙っていたが、屋敷に帰るや臣下の前で政宗のこの日の回顧談を嗤(わら)ったのである。あのときは母上が甥の政宗の身を案じ、とかく庇護するところがあったので、父上(義重)もとうとう政宗に止めを刺されなかったまでのことよ、という意味のことを義宣は語って聞かせたという。
 この話にあるように、義重は政宗の叔父に当たる人だ。その室(芳寿院)が輝宗(政宗)の妹だから、義宣も義広も、政宗とは従兄弟同士の関係にある。
 「骨肉(こつにく)相食(あいは)む」は戦乱の世の常である。義重の室は佐竹の智将東義久を介して伊達氏救済のことを嘆願したともいうが、それが事実ならば、これはむしろ戦国に稀有のことだったといえよう。
佐竹義重・義宣の父子と独眼竜政宗とは親縁ある関係にありながら、こうした背景からして、その対決はほとんど宿命的といえるものであった。



佐竹義宣(天徳寺蔵)

■政宗を恐れさす
 新羅三郎源義光の孫で常陸の佐竹郷(常陸太田市の内)に居住した昌義(まさよし)を祖とする佐竹氏は、義重が父義昭より家督をついでから、相模国・小田原(神奈川県小田原市)の北条氏が関東一円を併呑しようとするのに対抗すべく、とみに版図を広げて、常陸だけではなく下野国(栃木県)に威を張るに至っている。義重が早くから鉄砲隊を整備し、外交においては中央の織田信長、ついで豊臣秀吉と款(かん)を通じ、越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄との交わりを策したのも、宿敵北条氏に対すことがその強い動因だったのである。
 政宗のような壮大な野望こそ持ち合わせないが、北条氏の強大な勢力と拮抗するために、すこぶる精強になった佐竹の軍事力は、政宗にとっては真に畏怖すべきものであった。そして彼は、自分よりは二歳若い十六歳という年で家督を継承したという叔父の義重を畏れ、かつ尊敬してもいたのである。
 「坂東太郎」利根川の流れのごとく雄々しく、筑波山のすがたをほうふつとさせる堂々たる器量をそなえた生粋の戦国武将が、「鬼義重」と称えられた佐竹義重だ。
 ――天英(てんえい)様(義宣)のお顔しみじみと見たてまつる者は、これ無き由。(『長野先生夜話集』)
 その勇姿おのずから凛然たるものがあったので、臣下はまともには顔を見ることができなかったという義宣だが、父義重にいたっては、見る者の心胆(しんたん)をひとしお寒からしめるところがあったという。
 「義重の器量只人(ただひと)ならず、威、面(おもて)にあらわれ、髭、逆(さかしま)にして透間なく、眼中の光すさまじく、夜叉、羅刹(らせつ)とも云いつべし」と『奥羽永慶軍記』にあるのも、あながち誇張ではないかもしれない。
 その剛胆とともに、寝首を掻かれぬ用心のため近習にも知らせずに毎夜寝場所を変えたというほどの細心さも、義重は持ち合わせていた。



伊達政宗

■剛勇の気質
 さて、そういう義重に対して、諸説あるが天正十四年(一五八六)十七歳で家督をついだともいう義宣は、父ゆずりの剛勇の気質の反面、戦国武将には稀なことに「文」の道の教養を身につけ、ことに連歌を好んだ。そしてその性格は、「今の世に佐竹義宣ほどの律儀者はおるまい」と、徳川家康にいわせたほどであった(『徳川実紀』)。
 これはほめ言葉ではない。「あまりに律儀に過ぎても困る。時には一工夫がなくてはならぬ」と家康は評している。関ヶ原の役に際して、恩義ある石田三成に対しとかく配慮するところあり、東西両軍のいずれに属すか旗幟(きし)をついに鮮明にしなかったことを突いたものであろう。
 役から中一年おいた慶長七年(一六〇二)になって、僻遠の地である羽後・秋田に二十万石をもって佐竹氏が国替えとなったのは、天下分け目の決戦の時に発した家康の不信感が根底にあるのではないか、と推測されている。
 秋田に移った義宣は、最初は古城(湊城)に住んだが、翌年(慶長八年)に領内支配の拠点として久保田・神明山に新城を築いて移っている。そしてこれを核として、城下町を建設したのである。
 国替えから十年後(慶長十七年)に義重が死去し(享年六十六)、それから二十一年後の寛永十年(一六三三)、義宣は六十四歳で歿している。以後、佐竹氏は藩主として連綿と続き維新をむかえている。

【写真出典】
秋田城跡:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』秋田城
佐竹義宣:秋田市文化財保護協会
伊達政宗:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』伊達政宗

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渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
 
 


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