【知の庭】
2009.5.11      
石田三成らが反徳川の下に大垣城に集結

豊臣秀吉が「大事の要の城」と呼ぶ

大垣まつりには十一台の山車

渡辺 誠

 大垣城は、島国日本の「へそ」に築かれた城である。
 美濃の国(現・岐阜県)の西南部、いわゆる西濃(せいのう)は、列島の中心地に位置し、その中核都市として発展したのが大垣であり、そして、その発展の拠点とされたのがこの城だ。



揖斐川の風景

■堅固な大垣城
 美濃の守護、土岐(とき)氏の被官(ひかん)だった宮川安定によって天文四年(一五三五)に築かれた、と一説にいう大垣城は、戦国の末期に氏家直元(斎藤氏の臣)以下、城主がめまぐるしく代わっているが、豊臣秀吉は、
 ――大事の要(かなめ)の城
 として重視し、一族の者とその家臣をこの城に置いて守らしめた。天守閣は、その一人である伊藤祐盛(すけもり)によって造営されたものだという。
 関ヶ原の役に際して、西軍の石田三成が入城して反徳川軍の牙城としたことが、中でも知られている。やがて三代将軍家光の治世、寛永十二年(一六三五)に戸田氏鉄(うじかね)が封ぜられて、大垣十万石は戸田氏歴代が藩主を相続して、明治維新をむかえている。
 大垣城の構えは、平城(ひらじろ)ながら乱世の中原(ちゅうげん)に位置していたことから、すこぶる堅固であった。



大垣城

■籠城にも備える
 郭(くるわ)内は内濠(うちぼり)と外濠とに囲まれ、その外濠に、大手(おおて)をはじめとする七口(ななくち)の城門がある。郭外の総濠が破られたときにはただちにこれを閉じて、籠城戦に移る備えとしたのである。
 ――大垣七口
 といった。

 さて、その七口の門番に、第四代藩主の戸田氏定(うじさだ)の世のことだったが、時おり奇妙な命令が上から下されることがあった。
 ――今夜四ツ(午後十時)頃、蓑笠(みのがさ)をつけた者が一人で登城するであろう。その者は決して怪しい者にあらず。よって、姓名の儀は誰何(すいか)するに及ばず、すみやかにこれを許可して門を通行させるべし。
 こんな命令だ。すると、はたしてその刻限に蓑笠の士がやって来て、城中に入り、深夜に下城するのだった。
 後に明らかにされたが、蓑笠の武士は大石内蔵助――かの赤穂四十七士の頭目その人であったそうな。



大石内蔵助

■大石内蔵助
 いわゆる元禄赤穂事件は、赤穂城主の浅野内匠頭(長矩)の江戸城刃傷が発端とされるけれど、この内匠頭は、ほかならぬ大垣城主の戸田氏定の従弟に当たっていた。なお詳しくは、両人の母同士が姉妹であって、つまり母系の従兄弟の関係ということになる。
 刃傷から赤穂城明け渡しにいたるまでの間、戸田氏定が幕府と赤穂遺臣との間で種々周旋し、または鎮撫(ちんぶ)に働くことをよぎなくされたのも、両家が親戚関係にあったからだ。
 述べたような伝説が本当ならば、氏定は、赤穂開城後も極秘のうちにこの事件と関わっていたことになるのである。
 大垣に伝えられている話によれば、大石内蔵助が夜陰(やいん)にかくれて登城したのは、彼が京都・山科(やましな)に閑居していた時分である。
 つまりは吉良邸討入りの前年、元禄十四年(一七〇一)の六月から十月にかけてのことだ。氏定と内蔵助の両人が内々に談合した場所が、城中の「松之丸」だったということ。また、内蔵助の宿所は、城南の竹島町なる清貞(きよさだ)甚五郎という刀鍛冶の家だったということ。そんな口碑もある。
 かれらが何を密談したものか、憶測にはかぎりがない。
 大石内蔵助という人ほど、みずからは語らず人をして語らしめる英雄も稀だが、その評価の一つに「戦国の世に内蔵助がもし生きていたら、一級の智将になっていただろう」というのがある。元禄の泰平の世は、彼のような漢(おのこ)にとっては実に退屈きわまりない世と映じていたかもしれない。

■万力鎖
 なるほど、生まれるべき時期を逸したと惜しまれる人物が、歴史には少なからずいる。たとえば、元禄二年(一六八九)の生まれで、戸田氏定・氏長・氏英の藩主三代にわたって仕えた正木太郎太夫利充(としみつ)という大垣藩士が、そうである。
 近世の美濃が生んだ奇傑であった。
 唯心(ゆいしん)一刀流の剣、先意(せんい)流の薙刀に達して、また、万力鎖(まんりきぐさり)という奇妙な武器を発明している。長さ二尺ほどの鎖に分銅(ふんどう)を二つつけた護身用の武器である。
 正木利充という男、なにしろ尋常の生まれではない。母親の十一日間に及んだ陣痛の後に産み落とされてから六月(むつき)を経ると、もう小さな木履(ぼっくり)をはいて歩き出した。
 五歳のとき、雀の子を喰おうとしていた大蛇を、撲殺してしまった。八歳を数えると、一人で狼を退治しに行くこと、たびたびだった。十二歳のとき、二十五貫(約九五キログラム)の庭石を、軽々と持ち上げて、大力の片鱗を現している。長じては、大鉞(おおまさかり)を八百回振るのを朝の日課とした。
 大力に加えて、大音(だいおん)の士として家中に知られていた。
 城下の八丁縄手(はっちょうなわて)――八七〇メートルほどある道の端まで達していた朋輩を「おおおい!」と呼び止めると、その声が相手の耳にはっきりと聞こえた、という大声の持ち主だった。
 こんな逸話の数々が、「正木利充がもしも天下分け目の関ヶ原の役にでも出陣していたら、かの豪傑後藤又兵衛に劣らぬ、一騎当千(いっきとうせん)の働きをのこしただろう」と想像させるのである。



大垣まつり

■揖斐、杭瀬川に囲まれる
 関ヶ原の役の西軍の本拠とされた大垣の城下町は、揖斐(いび)川、杭瀬(くいぜ)川といった河川に囲まれている。
 ――水の城下町
 といわれるゆえんである。
 市民の氏神、八幡神社の例祭「大垣まつり」が今年も五月の九・十の両日に催される。繰り出す十一台の山車(だし)の中でよく知られているのは、「鯰(なまず)やま」の呼称のある山車だ。その瓢箪(ひょうたん)で鯰を押さえようとする操(あやつ)り人形は、郷土玩具にもなっている。
 そういう風変わりな山車のねりあるく水の城下町の川風には、およそ四百十年前に反徳川家康の旗印のもとに徒党した、つわものたちの熱気が、そこはかとなく偲ばれる。

【写真出典】
揖斐川の風景:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』揖斐川
大垣城:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』大垣城
大石内蔵助:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』大石内蔵助
大垣まつり:大垣市ガイド観光ホームページ

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渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
 
 


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