【知の庭】
2009.4.13      
宿場と掛川城で持つ

葛布の名産地で女性の天下

賊徒日本左衛門の馴染みの地

渡辺 誠


「六十余州に隠れのねえ、賊徒首領の日本左衛門、盗みはすれども非道はせじ」
『白浪五人男』(歌舞伎『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』の通称)で知られる大盗賊、日本左衛門、または駄右衛問の啖呵である。つづけていわく、
「人に情けは掛川(かけがわ)から、金谷(かなや)をかけて宿々で、義賊と噂高札に、巡る配付のたらいまわし」



白波五人男

■盗みはすれども非道はせじ
 頃は江戸時代中期、八代将軍吉宗の享保四年(一七一九)に尾張で生まれた彼(本名・浜島庄兵衛)は、今の静岡県西部、遠江(とおとうみ)の国にアジトを置いて、美濃・伊勢・甲斐・相模などの八カ国を、一説に二百人余の手下を使って荒らしまわった。
 狙うは金持ちばかり、豪商、豪農であって、内実はカネに困っていた大名なんかには目もくれなかった。

■京都町奉行に自首
 日本左衛門は、実に息長く掠奪をくりかえしたものである。一体、遠江は天領(幕府領)と藩領と旗本領が入り組んでいて、ある領内で「しごと」をして追捕(ついぶ)される身となれば、別の領へ潜り込んでしまうと、治外法権というやつで、高枕(たかまくら)を決め込めば済む道理。盗っ人にとっては、またとない「かんきょう」だったから、生きながらえることができた次第だった。
 そういう大盗賊も、とうとう年貢を納めるときがきた。延享四年(一七四七)のことである。
 自首したのだ。「名にし負う日本左衛門とは、それがしでござる」と、京都町奉行所に名のって出た彼は、江戸に送られて市中引き回しのうえ、斬首されている。二十九歳だった。
 ところが、事はこれで終息したのではない。
 かせいだカネを石ころのように投げ捨てて豪遊した東海道の宿場の中でも、掛川宿は馴染みの宿場だった。あまつさえ、「それがしは掛川藩領をかせぐこと、しきりでござった」と、左衛門が供述したことから、「そもそも掛川藩がこのような賊を野放しにしたのが、不届き至極と申すべきである」との沙汰が下されたのである。
 こうして時の藩主小笠原長恭(ながひろ)は、奥州・棚倉に移封された。一介の盗っ人が、六万石の大名を、僻遠の地へ左遷させたのである。



掛川城御殿

■葛布の名産地
 大井川と天竜川とのほぼ中間点に位置する掛川の名産品は、葛布(くずふ)である。緯(よこ)糸にクズの蔓の繊維を用いた布で、強く耐水性もあることから雨具や袴に作られる。
 葛布を織るのは女の仕事だから、この土地では女のほうが稼ぎがあった。自然「カカア天下」の気風がはびこって、男は「髪結いの亭主」ならぬ「織女の亭主」となって、女房の稼ぎで遊びあるく風であった。だから女は鼻息が荒い。中には、ちょいと苦みばしった男と見ると、酒を奢ってくわえ込む放蕩女もいたそうな。
 掛川宿に、東海道の宿場としては稀なことに、酒色を得る飯盛女(めしもりおんな)がいなかったのは、かかる女尊男卑(?)の風潮のせいだった。
 それはともかく、掛川は宿場と城で持っていた土地といってよかろう。



掛川城

■天王山に掛川城を築く
 掛川城が標高六五メートルの天王山に築かれたのはずいぶん古く、室町時代の応永年間(一三九四〜一四二八)とも伝えられている(鶴見氏の築城)。別の説によれば、下って文明五年(一四七二)に駿河の守護今川氏の遠江への進攻の根拠地として、その重臣だった朝比奈氏が築いた、とある。
 しかし、これは御殿・櫓・模擬天守などが現存する現在の掛川城とは異なるものだ。今の城の原型である、近世の平山城(ひらやまじろ)が、天王山の南西の竜頭山に築かれたのは永正五年(一五一三)のことで、創築者は朝比奈泰能という。徳川家康のために駿河を追われて遠江に逃げた今川氏真(うじざね)が籠もったのは、重臣朝比奈氏の拠るこの掛川城だ。

■山内一豊が改築
 だが、この城が東海の名城と称えられるにいたったのは、司馬遼太郎の小説『功名が辻』に描かれた山内一豊(かずとよ)が大修築をほどこしたことによる。
 それは天正十八年(一五九〇)のことであった。


山内一豊と千代

 この年、小田原・北条氏攻めに軍功あった家康は、豊臣秀吉の勧誘により関東に入国して江戸を居城とすることとなったが、その旧領地の遠江に秀吉が配した大名の一人が、掛川に五万一千石をもって封ぜられた一豊である。
 初めは織田信長、ついで豊臣秀吉に仕えた彼は、中国・毛利氏攻めから出世街道を昇り、掛川に入る五年前(天正十三年)、近江・長浜二万石を領し、同時に豊臣直轄領(一万石)の代官を兼ねるまでになった。
 その「功名」は、しかし武勇によるものとはいえない。一言でいえば先見の明、さらには戦国という時代に処する知恵才覚、抜け目なさをそなえていたからである。
 掛川に入城して十年、関ヶ原の役での身の振り方に、それは如実にあらわれている。
 一豊は秀吉在世のころから家康に近づき、秀吉後の天下の趨勢を予見するところがあったが、天下分け目のこの一戦に際しては、諸将に先がけて居城掛川城を明け渡して東軍のためにこれを供する意を表したものである。
 決戦当日は毛利の本隊を牽制する働きにとどまった一豊が、戦後の論功行賞で一躍、土佐二十万二千石を与えられたのは、そうした機を見るに敏な処世術が功を奏したからにほかなるまい。

■土佐の国主に
 さて、土佐一国の国主にまで立身出世をとげた山内一豊といえば、妻の「内助の功」が語られぬことはない。
 新婚の時代に妻の千代がヘソクリの黄金十枚を夫一豊に差し出して、駿馬を買ってやり、その名馬が信長に認められたことで、彼が出世の糸口をつかんだ、という話はあまりにもよく知られている。
 千代が夫の出世を内で支えたことは、ほかにも話がいくつか伝えられている。機知にとむ女性で、その点では一豊に似ていたといえよう。
 一豊以後、掛川藩は譜代の大名が城主を交代すること、めまぐるしく、太田氏の代に維新をむかえている。
 そのせいでもあろうか、山内一豊とその賢妻のサクセスストーリーとの関わりばかりが、殊更に喧伝されて今日にいたっている。


【写真出典】
白波五人男:三代目歌川豊國画『稲瀬川勢揃いの場』
掛川城、山内一豊と千代:掛川市ホームページ
掛川城御殿:掛川観光協会

朝日新聞のサイト、朝日コムの「トラベル」コーナーに「諸藩見聞録」を情報提供しています。

 

渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
 
 


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