【知の庭】
2009.3.9      
藩政の改革を進め、
幕政にも生かした吉宗


 麻酔を使っての外科手術をした華岡青州

 紀ノ川や長く美しい海岸を擁す

渡辺 誠

 紀伊国は、国土のほとんどが山地にしめられ、良材を豊かに産した。そこで古くは「木の国」とよばれたが、黒潮洗う、長く美しい海岸を擁(よう)し、海の幸にもめぐまれている。広くはないけれど、紀ノ川ほか大小の河川がもたらした平野も開けている。

写真
紀ノ川

■要は、武備なり

 自然、そして物産の恩恵にあずかるこの国に、徳川家康の第十子頼宣(よりのぶ)が入国して藩祖となったのは、大坂の陣で豊臣が滅亡してから四年後の元和五年(一六一九)のことである。
 頼宣はこれより先、ある者から、
「この国は外からの入口がたくさんございますので、警固の人数を相当要しましょう」
 こう忠告されたが、生まれつき豪胆な彼は、打ち笑って答えたそうな。
 ――藩の武備(ぶび)が万全であるならば、たとえ百の入口があろうと、何の恐れるところがあろうか。逆にいえば、武備が衰えて弱体となれば、入口が一つであっても、外寇(がいこう)に対してもちこたえられるものではない。要は、武備なり。これ全(まった)からんことを志すまでのことよ。

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和歌浦

■由比正雪の乱
 その言葉の通り、頼宣は何よりも武備に力を注ぎ、城を拡張したり、諸国の浪人の中から武辺(ぶへん)に覚えのあるつわものを、どしどし召し抱えたりした。このために、徳川御三家の一ながら、彼は幕府に対する叛意ありと睨まれた。
 その嫌疑を代表するのが、軍学者由比正雪(ゆいしょうせつ)とその党による謀叛を、陰で策謀したとする一件だ。慶安四年(一六五一)七月のこの変は、由比側に密告者が出たために関係者が処罰され、未然のうちに鎮定された。頼宣は正雪に兵学の講義をさせたことはあったが、謀叛には関わっていない。
 その審問のために江戸城に召喚されたとき、
「もしもこの頼宣に、このうえお疑いあらば、今、この場において紀州五十五万五千石を上(かみ)に差し上げ申すであろう」
 と言い放ったのは、いかにも彼の硬骨を思わせる話である。

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暴れん坊将軍将軍吉宗

■和歌山城生まれの暴れん坊将軍
 「暴れん坊将軍」こと、八代将軍吉宗は紀州藩二代藩主光貞(みつさだ)の四子として、和歌山城の吹上(ふきあげ)の屋敷に生まれている。藩祖頼宣の気質は、庶子ながらその強運により二十二歳にして藩主となったこの吉宗に、殊に受け継がれたのである。
 吉宗は色浅黒く、あばた顔で、身の丈六尺(約一八〇センチ)余りあった。八百人ほどの供を率いて鶉狩(うずらがり)に出たとき、吉宗だけが集団の中で頭一つ分、高く抜き出ていたそうな。
 戦国の古武士をほうふつとさせる、いかつい風貌、体躯の殿様だった。
もとより骨格たくましく、膂力(りょりょく)も勝(まさ)っていた。十八、九歳のころ、父光貞に命じられて関取(せきとり)と角力を取って、苦も無くこれを投げ飛ばしたほどの大力だったから、十六匁筒(重量十六匁の玉を装填する火縄銃)など、片手で竹の杖を振るごとく軽々とあつかった。

■文より武を奨励
 砲術の技術は、もちろん非凡のものがあり、大猪を打ちぬいた話などが伝えられている。弓術も達者で、一度に六千本の差矢(さしや・矢をつづけざまに射ること)を行じることもあった。テレビ時代劇の「暴れん坊将軍」には弓を射る場面がつきものだが、その心得は十分にあったのだ。
 吉宗は、今風の言葉をかりると「体育会系」の殿様であり、将軍であった。自他ともに好学と認めていた五代将軍綱吉とは、彼はまったく対照的で、藩主時代にすでに「芸目付」という、武芸の稽古場を視察して藩士の鍛錬のほどを監察する役職をもうけたほどに、臣下にも「文」より「武」を奨励している。
 体育会系人間の特徴は、行動において果断、思考においては事実に即して物を考える点にある。吉宗が、まさにそうであった。徳川幕府の「中興の英主」と仰がれ、「寛政の改革」「天保の改革」の範とされる「享保の改革」を断行した彼の政治には、さしずめ米国のオバマ新大統領に優るとも劣らぬ果断な行動性、実践的人間力、そして空理空論を排す思考力を、見て取ることができるのである。

■倹約家の吉宗
 吉宗は、また質実剛健(しつじつごうけん)の気風を愛するリーダーだった。大の倹約家であり、それについては紀州藩主時代を含めて数多くの話が伝えられている。  そもそも新藩主として紀州に入った当初から、彼は質素を絵に描いたような身なりで、出迎えの臣下を瞠目させたものである。
これより先、越前・丹生(にう)郡・鯖江(さばえ)三万石の領主だった吉宗は、兄たちの相次ぐ死により藩主の座につくことになったものの、小倉織(こくらおり)の粗末な袴に大模様(おおもよう)の木綿羽織姿で、しかも駕籠にあらず、馬に打ち乗って初登城している。
 吉宗の粗衣、そして粗食は、藩主、将軍時代をとおして、つらぬかれている。
 質素倹約は、しかし、べつに彼の好みではなかった。藩財政が窮迫しているときに藩主となった吉宗は、これを再建するべく、まず自身から範を示し、家臣にも倹約を奨励し、また、横目付(よこめつけ)をして監察させたのだ。

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華岡青州

■藩政の改革を進める
 その一方で、家臣に対し俸給の二十分の一を藩庁に差し上げさせ、農民・町人に新税を課し、御用金を取り立てるかわりに、新田を開発し、殖産興業をはかった。その結果、彼が将軍に昇る享保元年(一七一六)までに、和歌山の金蔵はすこぶる内福になったのである。
 幕藩体制の立て直しをはかった吉宗の改革政治の多くは、たとえば倹約令にしても、上米(あげまい・諸大名から一万石につき百石の割で上納させる米)の制度や、新田開発や、有名な目安箱(めやすばこ)の設置にしても、十二年間に及んだ紀州藩主時代に成功した政策を基礎としている。
 実験によって成果をあげたことを幕政に転用する、という方法論は、これまた事実に即した思考を重視する彼らしい組織再生のメソッドだったといえる。

■華岡青州を生む
 紀州という国の歴史は、いつも中央のあゆみと深い関わりをもってきたが、近世には中央にさきがけて新しいことを打ち出している。その格好の例が吉宗の藩政改革だが、明治維新後の改革も、それに含まれる。この近代的な改革は明治政府の注目するところであり、米・英・独の公使たちの視察も受けて、その先進的成果が広く認められている。
 紀州びとは、南海の気象そのまま、明朗かつ情熱的、そうして進取(しんしゅ)の気象に富み、行動的だ。麻酔薬による乳がん手術に世界で初めて成功した華岡青洲(はなおかせいしゅう)は、この意味で代表的な紀州人の一人といえよう。
 そういえば、吉宗がキリスト教以外の洋書輸入の禁を解いたこと、渾天儀(こんてんぎ・天体観測機械)や望遠鏡を製作させたこと、さらには測量台(天文台)を建設したことなどにも、旺盛なる進取の精神を認めることができるのである。
 これらはもしかしたら、中央に対する地方からのチャレンジ精神という、藩祖以来の気風と、どこかで関わっているのかもしれない。


【写真出典】
紀ノ川:紀ノ川
和歌浦:番所庭園
徳川吉宗肖像画:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』徳川吉宗
華岡青洲肖像画:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』華岡青洲


渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
 
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