【知の庭】
2009.1.13      
貿易を通して
海に開かれた街


 丹羽長秀、浅野長政と支配者が代わる

 幕末には杉田玄白、梅田雲浜らを生む

渡辺 誠

 若狭の小浜(おばま)は、最も新しい世界的ニュースとともに、その名が喧伝されることとなった。
 ――オバマ大統領を勝手に応援する会
 そんな会が、おやじギャグといわれるのをご承知のことだろうが、この旧城下町に生まれている。

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酒井忠勝肖像画(部分)

■貿易の要港

 この町が臨む若狭湾の中央にある小浜湾は、波静かな典型的な副湾である。
 東側の内外海(うちとみ)半島も、西側の大島半島も、いずれもその先端が二つの崎に分かれていて、真ん中に迫り出た形状は、カニが両の鋏で海を抱いているようにも見える。ありふれた譬えを引けば、巾着のような形の湾だ。
 天然のこの良港は、古来、内外の貿易の要港として、商人たちの「巾着」をふくらませ続けてきた。
 小浜の港として発達を見るのは鎌倉時代というから、たいそう古いのである。敦賀とともに日本海屈指の要港となった理由は、むろん交通の便が優れていたことにある。
 皇室の御領、今富(いまとみ)の名(みょう)の港湾とされた小浜の津から、琵琶湖の北西畔、今津までは九里半(よってこれを九里半街道という)。そこから湖上を大津に入り、さらに京都に至るまでの道程は、合わせて二十五里。近江の朽木(くつき)谷から八瀬大原を経由する、十八里ほどの近道もあるために、日本海沿岸各地の荘園からの貢租物は、小浜に陸揚げされて、近江や京都に送られた。

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小浜城

■畿内の玄関口

 時代は下って南北朝のころになると、小浜の商業は貨物の運搬・委託・販売、また旅宿などを兼業する問丸(といまる)や刀禰(とね)を中心にすこぶる発展する。かれらは租税の徴収をゆだねられたのみならず、港に出入りする船の取り締まりも任されて、政治にも関わった。
 陸揚げされる移出品は年貢米だけではなく四十物(あいもの)、すなわち塩や塩魚などもあった。そして畿内の玄関口であるそこには、南蛮船の来航も頻りとなり、小浜商人の中には積極的に海外貿易にたずさわる者も少なくなかった。
 オバマ大統領と結ばれる、世界に開かれた進取の気象は、早くから培われていたのである。

■海のある奈良

 小浜には一方、「海のある奈良」というキャッチフレーズがあるように、奈良時代の古仏像が多く伝存しているし、古刹(こさつ)も少なくない。そういえば、
 ――お水送り
 という行事もよく知られている。
 奈良・東大寺の二月堂の三月十三日夜の「お水取り」に先立つ同月二日、若狭の神水を送り届ける行事で、遠敷(おにゅう)川上流の鵜の瀬という所で行われる。
 開明的な風土に、まほろばの大和の古色が混然としていた、その小浜を支配した武士団は、古くは一色氏、さらには若狭源氏の武田氏であった。
 安芸(あき)国の守護だった武田信栄(のぶよし)が若狭ほか三国の守護一色義貫(よしつら)を大和の陣で討ち、安芸・若狭両国の守護となったのは永享十二年(一四四〇)。そうして戦国時代、武田元明が永禄十一年(一五六八)に越前・朝倉氏に拉致されて武田氏による若狭支配が終焉をむかえるまでのおよそ百三十年間、同氏は終始安閑としていられたわけではない。そこには一色氏の残党との戦いがあった。その一色氏が応仁・文明の乱後に丹後を領すると、両国の間に戦いが度重なっている。

■武田氏は本能寺の変で光秀方に

 かくて若狭を失った武田元明は、織田信長の旗本に属したが、本能寺の変に際し、明智光秀にくみしたために、丹羽長秀に殺される。若狭武田氏の滅亡である。
 この国はそれから丹羽長秀、長重、浅野長政、木下勝俊と、支配者が変わり、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の役後、京極高次が近江・大津から小浜に入部した。
 京極高次は武田氏の後瀬(のちせ)山にあった居城を廃し、小浜湾にそそぐ北川の河口に小浜城、別名「雲浜(うんぴん)城」を築いたが、二代を経て出雲の松江に移封された。これが三代将軍家光の治世の寛永十一年(一六三四)のことで、そしてその後に、酒井忠勝が武蔵・川越から十二万三千五百石で入ったのである。

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解体新書

■家光の信頼を得る

 酒井忠勝が小浜に移されたのは、ちょうどこの年に上洛して天下に徳川の権威を知らしめた家光が、京都周辺の固めをするために、信頼し得る譜代大名を配する策をとったからによる。つまり朝廷ににらみを利かせておくための配置転換であり、中でも年寄(後の老中)の忠勝は、「余の右腕なるぞ」と家光が明言したと伝えられるほどに信任を得ていた。
 こうして加増されて小浜藩祖となった忠勝は、小浜城の天守閣の造営に着手する。江戸城の富士見櫓を模した天守閣であり、その莫大な建設費をひねりだすために、彼は領民に重税を課した。そこで、領内の二百五十ヶ村余の農民が抗議のために立ち上がっている。
 小浜は忠勝を祖として酒井氏十二代を数えて明治維新をむかえているが、代々の藩主の多くは幕府の重職に就いているし、譜代の中でも将軍家に殊遇されている。しかし、その内政は藩祖以来かんばしいものではなく、江戸後期の十一代忠順(ただより)の治世になると、財政難が深刻なものとなった。

■財政難に

 そこで、三十余万両という先代以来の借金をかかえた財政を建て直すために、思いきった策を忠順は打ち出したけれど、窮迫に歯止めをかけられずに、それは庶民の生活を疲弊させて、ついには大一揆が勃発している。天保四年(一八三三)のことである。
 酒井忠義(ただあき)が家督を受けて小浜藩最後(十二代)の藩主となったのは、その翌年(天保五年)のことだ。忠義は奏者番兼寺社奉行から京都所司代となり、いったんこれを辞した後、安政五年(一八五八)に再任された。
 内には再建おぼつかない財政危機をはらみ、外には動乱の世に対して、その発信地たる京都の治安にあずからねばならなかった忠義の辛労は、ひととおりのものでなかったに相違ない。

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梅田雲浜

■安政の大獄

 ここに皮肉な事件が生じた。大老井伊直弼のいわゆる「安政の大獄」に際して、尊攘の志士逮捕を命ぜられた京都所司代の酒井忠義が、その手始めに捕えたのが、小浜藩出身の梅田雲浜(うんぴん)だったということである。
 梅田雲浜は小浜藩の藩校(順造館)を卒業後、京都、ついで江戸に学んだが、その間に佐久間象山、藤田東湖らと交わり、尊攘思想を啓蒙される。それから大津、京都に移ったが、三十八歳のとき(嘉永五年〈一八五二〉)、国事を建言したかどで藩を追放されて、浪人儒者の身に落魄していた。
 その翌年に「ペリー来航」がある。雲浜はここに至って熱烈な尊攘論を提唱し、幕府より「悪謀の張本人」とみなされることになったのである。
もとはといえば主だった酒井忠義に、真っ先に逮捕された彼は、江戸に護送されて小倉藩邸に幽囚中に病死している。享年四十五だった。
 梅田雲浜は、幕末の尊攘運動の先駆的指導者の一人であった。
 小浜藩が生んだ杉田玄白は、医学の先駆者として有名だが、古来、貿易をとおして海に開かれていた小浜の風土に培われた開明、進取の気象が、雲浜の生涯にも投影されているかのようである。


【写真出典】
酒井忠勝肖像画:若狭小浜デジタル文化財
小浜城:お城の旅日記
解体新書:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』解体新書
梅田雲浜:近代日本人の肖像(国立国会図書館)


渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
 
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