【知の庭】
2008.11.10      
  水郷は城防備のために
  人工的につくられる

 義烈の武人だった立花宗茂

 柳川は詩人、北原白秋を生む

渡辺 誠


 筑後・柳川(旧・柳河)は立花氏十二万石(表高十一万九千石)の城下町で、何よりも水郷として旅客の足を引く観光地でもある。
 民衆に最も親しまれた詩人であり、児童文学に「童謡文学」というジャンルを樹立した北原白秋は、この城下町の沖端(おきのはた)というところにあった「油屋」なる大きな造り酒屋の生まれだが、こんなことを『生い立ちの記』に書いている。

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柳川下り

■白秋、「生い立ちの記」

 私の郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである。自然の風物は如何にも南国的であるが、既に柳河の街を貫通する数知れぬ溝渠(ほりわり)のにほひには日に日に廃れてゆく旧い封建時代の白壁が今なほ懐かしい影を映す。
 そうして白秋は、
 ――水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩(ひつぎ)である。
 ともいっている。
 柳川を、その詩情ある文章で全国に知らしめた北原白秋の命日、十一月二日は市を挙げての「白秋祭」である。数十艘のドンコ舟が、白秋の童謡のメロディーにのってする前夜祭の川下りは、没後六十五年を過ぎて、今なお盛大に催されている。

■柳川城防備のため人工的に開削

 「水郷」と一口にいっても、その成り立ちはさまざまだ。たとえば下総・佐原(さわら)は利根川の支流が自然と織り成したそれだが、柳川は筑後川と矢部川の支流を利して、人工的に開削した掘割(ほりわり)から成る水郷である。そして、そのそもそもの目的は、柳川城の防備にあった。
 今は石垣の一部を遺すばかりの柳川城は、蒲池鑑盛(かまち・あきもり)という土豪が戦国前期の文亀年間(一五〇一〜三年)に支城として築き、下って天正六年(一五七八年)に本城としたものだが、肥前の雄(ゆう)、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に滅ぼされて、その後は龍造寺氏、鍋島氏の支城となっていた。そこへ立花氏が入城してきたのである。

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北原白秋の生家

■立花宗茂が入城

 筑前の立花城の城主、立花宗茂(たりばな・むねしげ)は、豊臣秀吉の九州征伐に武功あったことから、十三万石余で柳川に封ぜられたもので、時に天正十六年(一五八八年)のことだったが、二年後の関ヶ原の役で西軍にくみしたために、戦後に所領は没収、奥州・棚倉(たなくら)へ配流されている。
 そして、この役で石田三成を生け捕りにした田中吉政が柳川城に入る。三十二万五千石の太守となった吉政は、これを本城として掘割を開削し、もって城の防備を固めたのである。

■田中吉政が水郷の原型をつくる

 蜘蛛の巣のごとく掘割の開かれた、水郷柳川の原型は、だから田中吉政によってつくられたといってよい。だが、田中氏がこの地にあったのは、二十年間だった。嗣子が無かったために改易となったのだ。元和六年(一六二〇年)のことだ。
 ここに、大名配置の上で異例の沙汰があった。

■宗茂が柳川に返り咲く

 その軍略の才が惜しまれて徳川家康・秀忠のもとに五千石で召し出されていた、旧城主の立花宗茂が、大坂の陣に東軍に属して軍功あったので、柳川城主に返り咲いたのである。
 もう戦乱の終息した世になっている。これより明治維新をむかえるまでの立花氏十二代に及ぶ治世のもとで、北原白秋のいう「数知れぬ溝渠」の水は、殺伐とした役割を離れて、もっぱら灌漑用水、水運としての利便を柳川にもたらしつづけたのだった。

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■加藤清正らと親交

 ところで、関ヶ原の役で徳川に敵対した立花宗茂が処刑されなかったのは、加藤清正や黒田如水らの肝煎りがあったからである。かれらは朝鮮出兵における宗茂の抜群の働きを、高く評価していた。そこで戦後もなお柳川城に籠城して抗戦の構えを示していた宗茂に、和議を強くすすめて降伏させたものである。
 立花宗茂、元来、義烈の武人であった。
 義に殉じることを潔(いさぎよ)しとする、いかにも鎮西九州のもののふ然とした骨太の男だったが、それは養父の立花道雪(どうせつ)ゆずりのものだったといえる。

■鬼の雪道

 ―鬼の道雪
 九州のみならず中国、東海まで、その異名の聞こえていた道雪は、もともと豊後の大友義鎮(おおとも・よししげ)――剃髪して宗麟(そうりん)に仕えていた。
 戸次鑑連(べっき・あきつら)というのがその初名だが、主の宗麟に命じられて同族の立花(旧・戸次)鑑載(あきとし)を討伐して後、立花城の守りを任されて、同時に立花姓を与えられたものだ。以来、三家老の一人として忠勤し、「西の大友」と称された。
 この道雪は、若年の頃に雷にうたれた怪我がもとで、歩行のかなわぬ身体だった。下半身不随だったのである。

■駕籠で指揮をとる

 その七十一年の生涯をほとんど軍場に送った道雪は、三十七度の合戦に兵を指揮している。駕籠に乗って、指揮をとったのである。
その軍兵が、戦況不利の中にあっても道雪の駕籠を戦場に放置して逃げることが一度もなかったのは、将卒の絆がよほど強固だったからであろう。また、兵の畏敬するに値する武勇と人間的魅力を、道雪がそなえていたからでもあろう。
 大友宗麟の九州制覇の強力な先鋒とされた道雪は、軍功赫々(かっかく)があったが、やがて肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏の攻勢のために、ようやく大友氏は衰勢にかたむいていく。
 しかし彼は、斜陽の主家をひたむきに支えつづけた。その烈々たる忠義は、反覆(はんぷく)ない、有為転変(ういてんぺん)の戦国乱世にあっては、むしろ奇貨としなければならない生き方といえよう。
 立花宗茂は、道雪と共に落ち目の大友氏を支えた高橋紹運(たかはし・しょううん)の長子で、道雪の婿養子にむかえられたのだが、天正十三年(一五八五年)に道雪が筑紫の陣中に歿した後も、養父の名誉を汚すことなく、その遺風を柳川の地に伝えている。

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御花御殿

■御花御殿

 そういう遺風をあらわす柳川武士の一人に、山崎無善(政房)という名物家臣がいる。
 日露戦争のいわゆる「二〇三高地」の戦いに戦死した陸軍歩兵少佐、山崎昇の祖先にあたる人である。
 今日は料亭として柳川の観光スポットの一つとされている「御花(おはな)」は、三代藩主鑑虎(あきとら)の代に建てられた別邸だが、その鑑虎が元禄十五年(一七〇二年)に逝去したとき、殉死の許しを請うた士が、山崎無善だった。
 すでに殉死は武家諸法度の発令以来、厳に禁じられていたから、当然のことながら藩許は下されなかった。すると、無善はたちまち職を辞したのみならず、自分はこれより後いかなる大病に罹っても療治するものではない、と公に誓言したのだ。

■飛ぶ燕の羽を切る

 その後、宗門改役に任じる旨の藩命にも従わなかったので、蟄居(ちっきょ)に処せられたこともある。余事にわたるが、無善は景(かげ)之流という居合をよくして、飛翔する燕の羽を、人の所望に応じて左右いずれも切り分ける妙技をそなえていたという。
 詩人北原白秋のふるさと、閑寂な水郷の風光とくれば、柳川は芸術、学問の伝統に比重がかかっているような印象を受けがちだが、硬骨の気風こそは、柳川人に今もそこはかとなくただようそれであろう。


【写真出典】
柳川市観光情報


渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
 
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