そら飛ぶ庭
   

【知の庭】
2008.09.22  
りんとして筋金の通った
会津の女性


 戊辰戦争では、娘子軍が率先して戦う

 保科正之の残した「土津公御家訓」

渡辺 誠    

写真
保科正之

 会津の鶴ヶ城(若松城)には出丸(でまる)が北と西とにある。本城から張り出して築いた郭(くるわ)を出丸というが、北の出丸には、ちょっと、ぞっとさせられるような名がある。

■みなごろし丸

 みなごろし丸――。
 こう呼ばれている。ここに攻め入った敵兵は、四方から銃弾を浴びて一人残らず死地に放り込まれることになっている、とされているのである。
 城史をさかのぼると、豊臣秀吉の奥州仕置きにより会津に入城した蒲生氏郷(がもううじさと)が、蘆名(あしな)氏の居城・黒川城を改築して近世の城郭としたのが、この城の草創とされている。その子秀行(ひでゆき)が宇都宮に移封された後は一時、上杉景勝が入城したけれど、関ヶ原の役後、再び蒲生秀行が入るも、改易となり、寛永四年(一六二七)に加藤嘉明(よしあき)が城主となって、子の明成(あきなり)の代に至って、七層の天守閣が五層に改められるなどの大改築が施された。

■保科正之が入城

 北出丸――みなごろし丸が築かれたのはこの時であり、時に寛永十六年(一六三九)のことだ。拝金主義者で「馬鹿殿」の評価をもっぱらとした明成だが、土木工事には精通していて、城改修のほかに新道を開くなど、この方面ではいい仕事を残しているのである。
 しかし、四年後の寛永二十年(一六四三)、その加藤氏は封地を没収されて、会津には将軍家光の異母弟の保科正之(ほしなまさゆき)が入った。そして、その三代目の正容(まさかた)の時、将軍家の命により保科を改めて、徳川一門の証しである松平の姓を名乗ることとなり、葵の紋章を許されている。
 幕末維新の悲劇の藩主として歴史に名を刻す松平容保(かたもり)は、九代目の殿様である。

写真1
鶴ヶ城

■戊辰戦争

 ところで、鶴ヶ城第一の要塞というべき「みなごろし丸」が、いかんなくその堅固な守備力を示したのは、築造から二百三十年を経た、容保代に突入した戊辰(ぼしん)戦争(一八六八)最中の八月二十三日のことだった。
 土佐兵を先鋒とする征討軍(西軍)は、この日の朝、寡兵で守る鶴ヶ城を一挙に抜かんとして攻め寄ったのだが、夜陰に及んでもついに北出丸を侵すことができなかったのである。
 婦女子と老人、それに少数の水戸脱走兵とで守るばかりの城だったにもかかわらず、北出丸の石垣から雨霰(あめあられ)と銃弾を浴びて、文字通り「みなごろし」の目にあったからだ。落城を免れた城に、それから会津軍は一ヶ月にわたって籠城することになる。

写真
会津民芸品あかべこ

■砲弾が襲う

 凄まじい籠城戦であった。
 砲弾はこの孤城の本丸を襲った。二の丸の空井戸二つは、このために城兵の死体で、たちまちにして満ちた。そこで、余の骸は梨畑に仮葬されている。
 酸鼻(さんび)の極みというべき様相の城中で、このとき気丈にも八面六臂(はちめんろっぴ)の働きを示したのは、女性たちだった。玄米の飯を握って配る。大豆と南瓜(かぼちゃ)の味噌汁を仕込む。弾薬を補充する。傷病兵の救護に当たる。こうした労働に長い髪はじゃまだというので、彼女たちはとうとう女の命ともいえる黒髪を断ったから、そのさまは雛人形のそれと化した。

■娘子軍の活躍

 これより先、会津の婦人の一部は、城を守るべく、一団を組んでいる。やはり断髪をして白鉢巻をきりりと締め、義経(よしつね)袴を穿いた彼女たちは、征討軍来襲の当日(八月二十三日)に城に駆けつけると、城門すでに閉ざされ入城がかなわぬと見て、城外の戦闘に転じたのである。
 この一団――後に「娘子(ろうし)軍」と称す――は会津陣屋に至ると、藩の軍事方に対し、「お許しがなければ、自刃いたします」と、自分たちの従軍許可を迫った。そして許可が下るや、同二十五日、薙刀(なぎなた)を振るいつつ、勇躍して乱戦の真只中に吶喊(とっかん)した。
 その美貌で家中に知られていた中野竹子(藩士中野平内の長女)も、その一人であった。奮戦むなしく倒れた彼女は、妹の優子に介錯を命じた。優子は見事に姉の首を落としてこれを持ち帰っている。
 もののふの猛(たけ)き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも得意とした薙刀に、辞世をしたためた竹子のこんな短冊が結ばれていた。

■筋金入りの会津女

 会津若松市への取材旅行では、挙措物腰(きょそものごし)の凛(りん)とした女性に、毎度、一人か二人は出会ってきた。それには老いも若きもある。その話をするとなると長くなるからよしておくが、会津女は、どこか一本、筋金入りという気がしてならない。歴史を大切にする風土、気質からくるものだろうか。
 崩壊せんとする徳川のために最後まで泣血(きゅうけつ)を注いで戦った、会津武士の「士魂」が今でも息づいていることが、この城下町の現代女性の物言い、表情からも伝わってくるのである。

写真
土津神社

■正之の家訓

 会津の士風の淵源(えんげん)について思いを致すとき、すぐにも想起されるのは、藩祖保科正之が定めた家訓である。『土津(はにつ)公御家訓』という。左記するのは、十五ヶ条から成るこの家訓の第一条。
 ――大君の義、一心に大切に忠勤を存すべし。列国の例を以(もっ)て自ら処すべからず。若(も)し、二心を懐(いだ)かば則(すなわ)ち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず。
 将軍(大君)に忠勤を尽くすべし。わが会津藩の処する道は他藩のそれとは違うのである。もしも将軍家に異心をいだく者あれば、それはわが子孫ではないから、臣下の面々は従ってはならぬ、と正之は訓えている。
 自藩の繁栄はさておいて、第一に徳川将軍家への忠勤を家訓としているのは、他の大名家のそれにほとんど見られない。

 会津藩が最後まで徳川を奉じ、紅顔の若者たちには「白虎隊(びゃっこたい)」を、そして婦女子にも隊を組ませてまで、「賊軍」との戦いから一歩も退かなかったのは、実に藩祖以来の垂訓を守ったからにほかならないのである。

写真
会津の縁起物起き上がり小法師

■漱石の「坊ちゃん」

 夏目漱石の『坊っちゃん』に、坊っちゃんと、同僚の教師の山嵐とのこんな会話が書かれている。
「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「君はどこだ」
「僕は会津だ」
「会津っぽか、強情なわけだ」
 同じ福島県人でも、奥羽山脈の西の「浜通り」、その東の「中通り」、その東側を縦走する阿武隈台地の東の「会津地方」、それぞれに異質の気質があり、山嵐のような会津びとは強情だという、もっぱらの評があったようである。

 それには地理的背景の影響もあろうが、述べたような歴史的事情も深く関わっているに相違ない。藩祖の遺風の脈々と流れる「会津っぽ」の強情さは、しかし、悲壮な美しさをたたえた強情さではある。
 保科正之は磐梯山の麓、土津神社(福島県耶麻郡猪苗代町・国指定史跡)に祀られている。そこには松平家の廟所もある。





【写真出典】
会津若松市 観光・おでかけ情報
水土の礎[ISHIZUE]
ウィキペディア:土津神社
 
【 おらが藩 掲載記事一覧 】
紀州藩 風土と人/ 藩政の改革を進め、幕政にも生かした吉宗本文を読む
水戸藩 風土と人/ 天下の福将軍と呼ばれた光圀本文を読む
小浜藩 風土と人/ 貿易を通して海に開かれた街本文を読む
赤穂藩 ひと口メモ/ 塩田を持ち裕福な赤穂藩本文を読む
柳川藩 風土と人/ 水郷は城防備のために 人工的につくられる本文を読む
彦根藩 風土と人/ 幕末の大老の井伊直弼を生む本文を読む
会津藩 風土と人/ りんとして筋金の通った会津の女性本文を読む
会津藩 ひと口メモ/ 白虎隊の悲劇を呼んだ、会津藩本文を読む
佐賀藩 風土と人/ 「田舎風」を武士の誇りとした鍋島藩本文を読む
佐賀藩 ひと口メモ/ 山本常朝の「葉隠聞書」が武士道の手引きに本文を読む
福井藩 ひと口メモ/ 一乗谷には戦国時代に栄えた朝倉氏の栄華が本文を読む
岡山藩 ひと口メモ/ 宇喜多秀家が造った自然石使用の岡山城本文を読む
岡山藩 風土と人/ 瀬戸内海に面した気候温暖な「うまし国」本文を読む
広島藩 ひと口メモ/ 広島城の天守閣は戦後に復元本文を読む
長州藩 風土と人/ 時の流れを忘れた町、萩本文を読む
長州藩 ひと口メモ/ 守りへの備え意識した萩城本文を読む
津軽ひとくちメモ/ 関東で唯一残っている瀟酒な弘前城の天守閣本文を読む
太宰と津軽/ 不安な心に浮かぶ、ぽっかりとした日常の平和本文を読む
津軽武士の士風/ 士族が指導して育てた「青森りんご」。「桜の古城」と反骨精神が強い津軽人。津軽城を基点に広がる街並本文を読む
伊達藩ひとくちメモ/ 仙台城(青葉城)は伊達藩の象徴。七夕祭りは伊達政宗公時代から続く行事。藩内には日本三景のひとつ松島も本文を読む
伊達兵部/ 伊達政宗の末子、宗勝の墓所が五台山に。柴田外記も長宗我部家と由縁が。土佐との因縁を多く持つ伊達藩本文を読む
東北各藩の実力を調査か/ 根深い松尾芭蕉の隠密説。遺髪は故郷の愛染院に。調べれば調べるほど謎深い「奥の細道」本文を読む
伊賀上野・津ひとくちメモ/ 伊賀上野城に天守閣が無かった理由。保守感覚に異常に敏感だった藤堂高虎。司馬遼太郎「街道をゆく」より本文を読む
美しい女城主の物語/ 積極的に生き抜いた女の人生。四国の雄の年上の側室に。阿波徳島、勝瑞城の小少将本文を読む
阿波徳島ひとくちメモ/ 東西に流れる吉野川。奇岩が迫る大歩危・小歩危。阿南海岸では熱帯魚が泳ぎまわる本文を読む
米沢藩ひとくちメモ/ 早くから備蓄政策を実行した上杉鷹山。多くの人材を育てた興譲館本文を読む
奥羽越列藩同盟/ 奥羽・越後など31藩が同盟。薩長の新政府軍に抵抗を盟約。本文を読む
任侠の士・雲井龍雄/ 藩閥の専横に抵抗。小柄で女性のような風貌本文を読む
熊本藩の横井小南/ 「公共の政」を盛り込んだ綱領献策本文を読む
盛親変化/ 生きていた大坂の陣の雄本文を読む
熊本ひと口メモ/ 西南の役で、西郷軍の攻撃に耐えた熊本本文を読む
熊本藩/ 曲がったことが嫌いで、頑固者本文を読む
愛媛・別子銅山/ 天領、別子銅山は世界でも有数の鉱脈本文を読む
歴史と人物伝/ 文武両道の藩風を起こす 鷹揚で寛大な風容を備える 十一代藩主、松平定通
本文を読む
松山ひと口メモ/ 夏目漱石も好んで入った道後温泉 かんきつ類の生産は日本一
本文を読む
放浪の詩人種田山頭火の世界/ 「一きれの雲もない空のさびしさまさる」 あるがままの自然を愛した山頭火 松山の「一草庵」で生涯終える
本文を読む

夏目漱石と坊っちゃん列車/ 「5分ばかりで、たった3銭」 坊っちゃん列車が2001年に復活 当時の車両は正宗寺の境内に展示
本文を読む

松山藩の人と風土/ 自分の幼命から「野球」と名づける 打者、走者、直球、死球、などの用語も正岡子規が 高浜虚子、内藤鳴雪ら多くの俳人を生む
本文を読む
岩手と宮沢賢治/ 風や草木といった自然が息づく 空が手で掴めそうに近い 名悪役の内田朝雄も宮沢賢治を訪ねての旅に
本文を読む
南部藩の風土と人/ 田舎なれども南部の国 近代日本の重厚な偉人を生む 未見の運命を担う牛のごとき魂が飛翔
本文を読む
盛岡/ 芯が強く、一途に初志を貫く どこかのどかな、盛岡弁 位階、勲等を嫌った原敬
本文を読む
長崎/ 白い浜木綿の上を蝶々がひらひらと魚の種類が多くて美味しい遣唐使の寄港地、福江島
本文を読む
長崎/ 長崎の地に日本最初の株式会社 港を見下ろす丘の上に事務所跡 地名をとって「亀山社中」
本文を読む
加賀/ 金沢生まれの三文豪 徳田秋聲、泉鏡花、室生犀星 ゆかりの地や記念館の散策も
本文を読む
加賀/ 参勤交代の最初は前田利長 金沢から江戸まで12泊13日 宿泊費、労賃など4億円余の出費
本文を読む
コーヒー/ 琥珀の香りとともに「北国の〜」 喫茶店でカラオケの練習も 金沢はコーヒー消費量日本一の街
本文を読む
加賀/ 川風が、とびっきり美味しい街友禅流しがよく似合います犀川、浅野川が金沢の街に潤い
本文を読む
松江/ 日本の神話や伝説に魅せられる 武士の妻をもらって松江の武家屋敷に ギリシャからやってきた八雲
本文を読む
霧島/ 霧島が日本最初の新婚旅行の地 坂本龍馬とお龍の二人 西郷隆盛のあしらいで
本文を読む
薩摩藩/ 中央政権に正面から挑む 英国艦隊との激戦も 独立意識の強い土地柄
本文を読む
名古屋城/ 緊急時の藩主の逃走経路を守る 築城から幕末まで社会から隔絶し、生活 名古屋城の裏手には沼地が広がっていた
本文を読む
八丁味噌/ 八丁味噌は兵糧に 原料は大豆で、栄養価高い 味噌カツ、味噌煮込み、味噌饅頭
本文を読む
象2頭とチンパンジーの命を救った東山動物園/ 東山動物園の延長たちの必死の思い 「象列車」が名古屋にやってきた
本文を読む
知恵を教える名古屋カルタ/ 尾張藩の下級武士が考案 教訓いろは喩え、百人一首が源流
本文を読む
福岡県飯塚市「嘉穂劇場」/ 嘉穂劇場が復旧に成功 石炭から石油への転換の波被る 全国座長大会も開かれる
本文を読む
博多散策/ 海の風と川風に背中をさすられご機嫌です 自然の恵み豊かで食糧危機はありません
本文を読む
福岡藩/ 九州の炭鉱地帯で咲いた一輪の花 恋を貫いた柳原白蓮
本文を読む
博多・屋台フレンチ/ 屋台でコース料理 冷泉公園沿いのフレンチ屋台で大満足
本文を読む
四国の雄・長宗我部/ 全国制覇を夢見た男のロマン 織田信長に「鳥なき島のコウモリ」といわれたが 四国の雄 長宗我部元親
本文を読む
土佐和紙と養甫尼/ 紀貫之が土佐和紙の伝統を作る 悲しき定めの元親の妹、養甫尼 いの町 に記念碑建立の動き
本文を読む
土佐藩/ カツオのタタキや鯨料理 宴会好きで、議論好き 一弦琴に和紙の伝統
本文を読む


 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.