【知の庭】 おらが藩
2007.04.23
中央政権に正面から挑む英国艦隊との激戦も独立意識の強い土地柄
 北の地方に行くに従って、人間の意識は暗くなるという人がいる。確かに、 「流れ流れてさすらう旅は」という具合に北国を描いた歌謡曲を口ずさんでみると、確かに心はなんとなく、暗くうつむき加減になってしまうようだ。上野に建つあの西郷さんの堂々とした感じにはなかなかなりそうもない。札幌などは転勤族には人気のあるところではあるが、札幌で、天下国家を論ずるというよりは、九州の鹿児島あたりの方が、日本の国家の先行きを案じたりする舞台としてはより似合っていそうな気はする。
 司馬遼太郎が西郷隆盛と太宰治の出生地を入れ替えると同じ人間に育ち、成長したであろうか、といった意味合いのことを書いていたが、獏としてではあるが分るような気がする。
 九州のあの明るく抜けるような青い空の色と、桜島の噴煙を見上げていると「日本の国はこれでよいのか」とか、考える、気合が湧いてきそうだ。
 
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春もくもくと煙を上げる桜島。活火山である。それを前にすると、自然に天下国家のことが頭に浮かんででくるのだろうか。鹿児島は多く偉人を輩出している。
【写真協力:(社)鹿児島観光連盟】
 
 薩摩隼人が中央政権に向けて、反乱を起こしたという歴史が残っている。薩摩は何度も中央政権と戦っている。たった一国、あるいは一種族のみで中央政権と戦うというのは無謀の挙と思うが、西南の役も中央政権と薩摩の戦いであった。
  薩英戦争はイギリスの優秀な艦隊七隻との戦いである。こともあろうにこの時は、薩摩藩士がスイカとか野菜を船に積み込んで、船の八百屋に変装、攻めてきた英国艦隊に接近した。乗り込んで、敵を捕虜にして連れてくるという作戦だったという。この時はさすがに作戦を中止して事なきを得たというけれど、無謀この上ないやり方だ。こんな向こう見ずなことを、やってのける。この薩英戦争は、文久二年(1862年),横浜郊外の生麦村で、島津久光の行列の前を横切ったイギリス人を、無礼討ちにした「生麦事件」が発端。この事件の賠償を要求し、英国が艦隊を薩摩藩に向けて出した。英国は最新鋭の軍艦を見れば驚いて、薩摩は賠償に応ずると計算していたかもしれない。
  しかし、薩摩藩は臨戦態勢を敷いて戦った。この時の損害は物的には薩摩藩の方が甚大だったが、戦死者の数は英国の方が圧倒的に多かった。結局、薩摩藩は賠償に応ずることになった。しかし、その後の判断がなかなかのもの。薩摩は大砲などの軍備をはじめ、あらゆる点で英国の産業が優れているとみるや、すぐに英国との交易を開始した。英国の助けを借りて、近代化を猛スピードで進め、実力を蓄えていく。やはり、鹿児島はただ戦う強さだけではなく、政治的にも、柔軟というか、機敏というか、感の鋭さを兼ね備えているといえる。
  明治維新にかけての西郷隆盛、大久保利光らの、働きも政治の大きな流れを把握しての動きだ。この時も薩摩をはじめ、中国の長州、四国の土佐と北ではなく、西の軍勢が動いて、時代をつくっていった。
 
鹿児島ひとくちメモ
◆ 黒が似合う
 鹿児島はなぜか黒が似合う。「七人の侍」、「椿三十郎」などを撮った映画監督の黒澤明は、鹿児島産の黒豚が好物だった。しゃぶしゃぶでいく。それも垂れではなく、塩を少しつけて食べる。わざわざ取り寄せて、撮影が終わってからの楽しみにしていたそうだ。
  黒といえば黒毛和牛も鹿児島産の占める割合が高い。大島、曾於など鹿児島県内で広く飼育されている。それこそサツマイモを与えられ、焼酎も飲まされているそうだ。
  太陽が強く、サトウキビもよく育つので、奄美大島などでは黒糖を特産品にしている。サトウキビの絞り、そのままに詰めて作る。黒糖焼酎やお菓子の材料にも使われている。このほか、黒ごま油、黒酢などの商品もある。
 
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イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 


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