米沢市外のほぼ中心地にある。米沢城が最初に造られたのは鎌倉時代とされる。大江広元の次男である広時が築城して、その後、長尾姓を名乗っていたと伝えられる。安土桃山時代には伊達氏の支配下になり、伊達晴宗が米沢を本拠として現存する米沢城の元となる城を造る。一時蒲生氏が入るが、その後上杉氏の支配下となる。
米沢藩は藩財政の振興策として、財政に大ナタを振るうとともに、産業振興策も実施した。そのひとつが蚕を育てる養蚕業で、同時に武士の子女の手内職を推奨した。藩は新潟の小千谷から織物の技術者を呼んで、藩内に住まわせて、指導にあたらせた。これが米沢の産業として米沢縮みや絹織物に発展していった。 米沢の織物の歴史的流れを解説した「米沢織物歴史資料館」(電話0238―22―1325)が米沢市門東町にあり、機織機などが展示してある。
米沢藩の第十代藩主である上杉冶憲(鷹山)によって安永5年(1776年)に開設された藩校である。米沢にはもともと直江兼読が創設した「禅林文庫」があったが、鷹山は細井平州を師として「修身冶国」に向けた実学を志向していたことから、実学を修めるための教育を再構築するために「興譲館」を始めた。鷹山は細井平州をわざわざ招いて学則を定めたりもしている。山形県立米沢興譲館高等学校がその流をくんでいる。興譲館は広く県外でも活躍する多くの人材を輩出した。
米沢藩は、戦国上杉家の始祖ともいえる上杉謙信の思想もあり、家臣を大切にする伝統が強かった。このため景勝も会津120万石から、関が原の戦い後に米沢30万石に減封された後も、家臣の数をほとんど減らさなかった。こうしたこともあって、藩の生活も困窮した。 このため飢饉の際の乗り切り策が重要だった。上杉鷹山は藩政の改革の一つに備蓄政策を据えた。安永3年(1774年)には5棟の籾貯蔵庫を造り、三万俵の籾を蓄えた。さらに、これに加えて鷹山は50年計画と称して毎年籾5千俵、麦五千俵の備蓄を進めた。この備蓄政策により米沢藩はその後飢饉を乗り切っている。
上杉謙信に、謙信の実姉の仙桃院の推薦で小さいころから仕えていたといわれるが、そのあたりの事実関係は今ひとつ定かではない。天正年間には、山城の守と称して、上杉秀冶時代に病床についた秀冶を助けて政務を担うようになっている。天正14年(1586年)上杉景勝が従四位下に任じられるが、このころは景勝につき、兼続も従五位下の地位になり、景勝が豊臣秀吉に会津120万石を封ぜられると、上杉家の重臣として米沢を任される。
■ 夏目漱石と坊っちゃん列車/ 「5分ばかりで、たった3銭」 坊っちゃん列車が2001年に復活 当時の車両は正宗寺の境内に展示