【知の庭】諸藩見聞録

第64回 諸藩見聞録 上田藩/長野県(後編)

昌幸の嫡子信之が、上田藩を守る

写真

上田城櫓門(やぐらもん)上から見た景色

 家康軍を撃退して、武名をあげた真田昌幸( さなだ・まさゆき )、信幸( のぶゆき )父子は翌天正14年(1586年)に、豊臣秀吉の仲介で、徳川家康と和睦 ( わぼく )した。家康は信幸の実力を評価して、駿府 ( すんぷ )での出仕を求める。そして、昌幸は秀吉の小田原の陣の際の、戦功を認められて、これまでの信濃国小県(ちいさがた)に加え、上野国沼田(こうづけのくにぬまた)を安堵(あんど)される。

 慶長5年(1600年)の、関ケ原の戦では、真田父子は、西と東に分かれて戦うことになる。父昌幸と次男の信繁 ( のぶしげ=幸村 )は、西方について戦うが、嫡子の信幸は家康に認められた縁で、東の家康軍につく。このため、徳川秀忠が率いて中山道を進んだ3万人を超す大軍は、真田昌幸、信繁の立てこもる上田城の攻防にてこずり、関ケ原の戦に遅れることとなる。

 結局、関ケ原の戦は家康方の勝利となり、真田昌幸、信繁父子は高野山ふもとの九度山蟄居 ( くどやまちっきょ )とされる。これは信幸の家康に対する懸命の助命努力によるものである。このいきさつから、以降信幸は自分の名前から「 幸 」字を外し、信之と改名する。信之は、加増され小県に加え沼田も領し、一時沼田を本拠とする。

 大阪の陣では、弟の信繁( 幸村 )が大阪方に付いたことで、信之は再び苦境に立たされたが、なんとか家康の信任を得て、所領を安堵(あんど)された。元和2年(1616年)から信之は、上田城に戻る。だが、元和8年(1622年)、隣国の小諸藩主、仙石忠政( せんごく・ただまさ )が、上田藩主として入り、信之は信濃国松代藩に転封される。ただ、上田には真田氏以来の中小の土豪が多く、仙石氏は上田に入ったものの、支配体制作りは難渋した。忠政没後は嫡男の政俊( まさとし )が家督を継ぎ、引き続き新田開発や産業の振興に努めた。

 仙石体制は3代続いたが、3代目の政明が但馬国出石( いずし )に転封となり、上田には出石から松平忠周( まつだいら・ただちか )が入った。その後、松平氏が、上田藩を治めることとなるが、城下で豪雨が発生するなど災害が続き、財政が窮乏するなど、藩政には厳しいものがあった。

 


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