【知の庭】諸藩見聞録

第63回 諸藩見聞録 上田藩/長野県(前編)

真田昌幸が徳川軍と戦った上田城

写真

真田昌幸所用具足
(写真提供:上田市博物館)

 信濃国の地域領主として生きてきた真田氏は、勢力を伸ばしていた武田氏に仕えていた。真田幸隆( さなだ・ゆきたか )の三男として生まれた昌幸 ( まさゆき )は、天文16年(1547年)、武田晴信( たけだ・はるのぶ=信玄 )のもとに、人質として出される。
 その後、元亀3年( 1572年 )の三方ケ原の戦い ( みかたがはらのたたかい ) などに参加して、信玄死後は武田勝頼( たけだ・かつより )に仕えた。

 一方、武田家は昌幸の父親である幸隆が死去、家督を信綱( のぶつな )が継いだが、天正3年 ( 1575年 ) の長篠の合戦 ( ながしののかっせん ) で、信綱、そして次兄の昌輝( まさてる )がともに討ち死にしてしまう。
 そのため、武藤家に養子に出ていた、昌幸が武田家に戻り、その跡を継ぐことになる。昌幸はその後も、武田家に仕えるが、武田家の勢力は次第に衰えてゆき、天正10年 ( 1582年 ) には、急速に領地を広げていた織田信長 ( おだ・のぶなが ) に攻められることとなる。だが、その段階では、信長の武田征伐に立ち向かう力は武田軍には無く、織田軍に次々と侵食されてゆく。

 この戦で武田勝頼が死去した後、真田昌幸は、織田信長に仕えることになった。 だが、それからわずか、3カ月ほど後の同年6月2日に織田信長は、明智光秀(あけち・みつひで)に、本能寺で襲われ、死去する。
信長亡き後の信濃は、徳川家康、上杉景勝( うえすぎ・かげかつ )、北条氏直( ほうじょう・うじなお )の勢力が争うことになるが、結局昌幸は徳川家康について、上田領を安堵(あんど)される。
 そこで、豊臣秀吉と通じている越後の上杉景勝の脅威から上田領を守るための城構えが必要となった。
 天正11年( 1583年 )、昌幸は千曲川流域に沼や崖( がけ )を利用して、上田城を築く。しかし、歴史は皮肉なもので、北条氏直と和議を結ぶことになった家康は、和議の条件として真田領である上野国沼田 ( こうづけのくにぬまた ) を氏直に与えようとしたのである。このため、昌幸は、これに強く反発、秀吉方に通じた。

 この結果、完成したばかりの上田城は、豊臣についた昌幸の行動に怒った家康軍を、迎え撃つこととなった。だが、昌幸は、嫡男の信幸( のぶゆき )とともにこの家康の大軍を撃退、武名をあげるのである。

 


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