【知の庭】諸藩見聞録

第62回 諸藩見聞録 山形藩/山形県(後編)

保科、堀田ら幕閣の要人が相次いで藩主となる

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山形城跡二の丸東大手門

 山形城は、霞城 ( かすみじょう ) とも呼ばれた名城だが、現在はわずかに二の丸跡などが残っているだけである。そのため山形市はその復元計画を進めている。

 もともと山形城は斯波兼頼 ( しば・かねより )が羽州探題 ( うしゅうたんだい )として、山形に入った時に、その原型が造られたとされる。その後、慶長出羽合戦 ( けいちょうでわかっせん )の功績で山形城を与えられた最上義光( もがみ・よしあき )が、大改修を行い、その基礎を築いた。そして、最上氏が改易され、その後に入った鳥居忠政( とりい・ただまさ )により、さらに改修が行われた。

 山形城は本丸を中心に、二の丸、三の丸が円心状になった、輪郭式の城である。また、三の丸のみで235万平方メートルと、日本でも有数の広さを持っていた。ところが、山形藩は改易が度重なったことで、その費用などにより、藩の財政は厳しくなってゆく。そのために管理費がかさむ城の広さが重荷にとなり、広い城は次第に荒廃が進む結果となった。

 山形藩は最上義光によって立藩されたが、その義光に実力があっただけに、そのカリスマ性により藩政が進められていた面があった。それだけに組織としては完成されていなかったといえる。
そのため、二代家親( いえちか )の相続をめぐって、早くも藩内は揺らぐ。慶長19年(1614年)の義光の死後、家親が家督を継いだものの、家親は元和3年(1617年)に急死してしまう。その後に藩主となった義俊(よしとし)はわずか13歳で、藩政はなかなか安定せず、継嗣 ( けいし )をめぐる内紛は続いた。とうとう老中の酒井忠世(さかい・ただよ)が介在しての裁断となり、改易が決まった。

 その後も鳥居氏、保科氏、堀田氏らと次々と藩主が代わり、山形藩は、まるで幕閣で活躍した人物の左遷地の様相を呈した。
このように藩主が相次いで入れ替わったために、安定した藩政は進められず、城下町の育成や文化も育たなかった。しかし、出羽三山参詣の基地として、山形には多くの人が集まり、にぎわいを見せた。また、山形は紅花や漆などの集散地として、発展もしたのである。

 


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