【知の庭】諸藩見聞録

第61回 諸藩見聞録 山形藩/山形県(前編)

兼続を撃退、最上義光が初代山形藩主に

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最上義光騎馬像

 東北を代表する武人といえば、多くの人が独眼流・伊達政宗(だて・まさむね)をあげるであろう。だが、山形にも直江兼続( なおえ・かねつぐ )率いる上杉景勝( うえすぎ・かねかつ )軍と粘り強く戦い、ついに撃退した武将がいる。最上義光( もがみ・よしあき )である。山形城址( じょうし )には、馬上で勇壮( ゆうそう )に戦う義光像がりりしく立っている。

 最上氏は奥州の大崎から最上郡に、羽州探題( うしゅうたんだい )として入り、最上氏を名乗ったといわれる。義光の存在が広く知られるようになったのは、慶長5年(1600年)に、展開された慶長出羽合戦( けいちょうでわかっせん )<長谷堂城( はせどうじょう )の戦い>である。この戦いは奥羽版の関ケ原の戦ともいわれている。

 東方の徳川家康と石田三成らによる西方に分かれて、天下が牽制( けんせい )しあう格好になってくる中で、奥羽では、最上義光が孤立する形になっていった。そこを狙って攻めてきたのが、上杉景勝である。いわば西方の上杉景勝は、直江兼続に2万を超える軍勢を与えて、東方ともいえる最上軍に襲い掛かってきた。まず、兼続は江口光清( えぐち・あききよ )が守る畑谷城( はたやじょう )を標的にした。光清の手勢はわずか300程度である。これでは勝ち目は無い。最上義光は、ひとまず退却するように指示する。しかし、江口光清はこれを受け入れず、籠城( ろうじょう )策をとる。直江兼続も、降伏を勧告したが、光清は「 武士が城を捨てるのは恥 」として、徹底抗戦し、敗れる。

 畑谷城を陥落させた直江兼続は、勢いを得て、長谷堂城攻めにかかるが、城を守っていた志村光安( しむら・あきやす )らの諸兵はよくこの攻撃をしのいでいた。苦戦を強いられていた最上義光は、伊達政宗に援軍を要請する。しかし、この間に関ケ原で、西軍が敗れたとの情報が入って、上杉軍は包囲網をといて、引き揚げはじめる。最上軍はこれを追撃して、上杉軍に損害を与えた。

 慶長出羽合戦による功績で、最上義光は、徳川家康から山形城を与えられ、初代の山形藩主となった。

 


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