【知の庭】諸藩見聞録

第60回 諸藩見聞録 富山藩/富山県【後編】

前田利次が富山藩を立藩

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戦国の世に思いをはせる安田城跡
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 佐々成政( さっさ・なりまさ )は、豊臣秀吉の大軍の前に、天正13年( 1585年 )降伏し、富山から越中国新川郡( えっちゅうのくに にいかわぐん )に移封された。富山城は、やがて前田家に与えられることになる。前田利家( まえだ・としいえ )が慶長4年( 1599年 )に亡くなり、嫡男( ちゃくなん )の利長( としなが )が家督を継ぐことになった。そして、利長は関ケ原の戦では、徳川家康方についた。この関ケ原の戦功で前田利長は加賀をはじめ、越中、能登の三カ国を領有、百万石を超える大名となる。

 利長は慶長10年( 1605年 )に、家督を父の利家の四男、利常( としつね )に譲る。そして、利常は寛永16年( 1639年 )に、嫡男・光高( みつたか )に、前田宗家を継がせ、次男の利次( としつぐ )には、10万石を与えて、富山藩を立藩させる。利次は、当初越中国婦負郡百塚( ねいぐんひゃくづか )に新城を建てる計画だったが、財政的な問題もあり、結局寛永17年( 1640年 )、富山城に入ることになった。そして、万治( まんじ )4年( 1661年 )に、利次は計画を変更し、富山城の改修に取りかかる。五層の天守閣、櫓( やぐら )、冠門( かぶらぎもん )などができた。

 富山藩は立藩当初から家臣が多かった。このため財政面については新田の開発を積極的に進めるなどの強化策をとり、城下についても、整備に着手、利次は藩政の基礎を固めていった。だが、凶作、洪水などの天災にもみまわれて、富山藩の財政は二代の正甫( まさとし )になると、多くの借財を抱えるようになる。

 一方、正甫は病弱だったことから、長崎から医師を招くなど医術を奨励した。自らも本草学( ほんそうがく )を学ぶなど薬にも関心が深かった。富山にやってきた岡山出身の医師、万代浄閑( もず・じょうかん )から、伝えられたのが 「 反魂丹( はんごんたん )」 で、これが富山の売薬のきっかけになったといわれる。

 


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