【知の庭】諸藩見聞録

第57回 諸藩見聞録 秋田(久保田)藩/秋田県 [前編]

常陸国から佐竹義宣が久保田に入り立藩

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久保田城御隅櫓 ©秋田市役所

 久保田藩の初代藩主となった佐竹義宣 ( さたけ・よしのぶ ) は、源氏の流れにあり、名門の出と言われる。もともと常陸 ( ひたち ) の守護の家柄で、義宣の父、佐竹義重 ( さたけ・よししげ ) は常陸国で勢力をのばし、北条 ( ほうじょう ) 家、伊達 ( だて ) 家とも争っている。

 佐竹義宣は、豊臣秀吉の小田原攻めでは、秀吉のもとに参陣して戦功をあげた。これにより義宣は、秀吉の奥州仕置 ( おうしゅうしおき ) で所領を安堵されている。また、秀吉時代には、佐竹氏は、前田、島津、毛利、上杉、徳川の各氏と並んで、六大将の一角を担 ( にな ) っていた。

 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦で、佐竹義宣はかねてから石田三成 ( いしだ・みつなり ) と親交があったために、石田側の立場を表明して、徳川家康 (とくがわ・いえやす ) の出陣要請に従わなかった。家臣団の協議では家康側につくべきだとの結論がなされていたが、それまでの三成との友情を重視した義宣が、それを押し切って取った措置だったと言われる。

 しかし、父親の義重は、独自の考えで、徳川家康寄りの立場を表明していた。このため、関ケ原の戦では、結果として佐竹氏全体の意向は、不鮮明であったわけだ。こうしたいきさつから、家康からは、佐竹家の総意が明確でなかったことを理由に、常陸国を召し上げられて、出羽国 ( でわのくに ) に、減封されるという措置が取られた。また、家康としては、関東周辺の要衝 ( ようしょう ) は、譜代 ( ふだい ) か親藩 ( しんぱん )で固めたいという考えを持っていたので、佐竹義宣の移封が必要だったとみられている。 佐竹義宣は慶長7年(1602年)7月に、秋田実季 ( あきた・さねすえ ) の居城であった土崎湊 ( つちざきみなと ) に入り、立藩した。義宣は、この城では手狭だったことから、城の場所を、久保田 ( 現在の秋田県秋田市千秋公園周辺 ) に選んで、幕府に許可を求めた上で、新城の着工に入った。

 久保田城は、秋田城とも呼ばれ、慶長9年(1604年)に完成している。平山城 (ひらやまじろ ) で、石垣は基底部分にわずかにあるだけで、その上に土塁 ( どるい ) が盛られている。天守閣は無く、御出書院 ( おだししょいん ) という御殿を造った。また、8棟の櫓 ( やぐら ) を建てている。防御では、自然の川を利用して堀の代わりとした。
この築城と同時に、義宣は城下町の建設や、総検地を実施して、藩の支配体制の構築にも着手している。

 


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