【知の庭】諸藩見聞録

第56回諸藩見聞録 岐阜県/大垣藩【後編】

戸田氏鉄が大垣藩の基礎を固める

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関ケ原古戦場跡 ©(社)岐阜県観光連盟

 雨が降り、見通しがきかぬまま関ケ原の戦は火ぶたを切った。伯仲していた戦況は小早川秀秋 ( こばやかわ・ひであき )の裏切りとともに、徳川家康の東軍が一気に有利となり、石田三成の西軍は敗走した。

 関ケ原の戦の後、大垣城は東軍の松平康重 ( まつだいら・やすしげ )が城番 ( しろばん ) として入っていたが、慶長6年(1601年)に、上総国鳴渡 ( かずさのくになると ) から、石川康通 ( いしかわ・やすみち ) が移って、大垣藩を立てた。康通が没した後は、嫡男 ( ちゃくなん ) の忠義 ( ただよし ) がまだ幼かったことから、隠居中だった石川家成 ( いしかわ・いえなり ) が、第2代藩主となった。第3代藩主は、家成の外孫の大久保忠隣 ( おおくぼ・ただちか ) の次男忠総 ( ただふさ ) が継いだ。

 この後、大垣藩には下総国関宿 (しもうさのくにせきやど ) から松平忠良 ( まつだいら・ただよし ) が、大坂の陣の功績によって大垣城に入り、大久保忠総は豊後国日田 ( ぶんごのくにひた ) に転封となった。その後も、大垣藩主は何回か入れ替わったが、寛永12年(1635年)に摂津国尼崎 ( せっつのくにあまがさき ) から入った戸田氏鉄 ( とだ・うじかね ) になって、戸田氏が明治の廃藩までを、11代に渡って治めることになる。

 戸田氏鉄が、大垣に入って、2年後に天草四郎による島原の乱が起こる。そして、氏鉄はその征討のために、老中の松平信綱 ( まつだいら・のぶつな ) とともに島原に向かい、総攻撃に参加、戦功をあげる。この働きもあって、大垣藩の家臣団の統制も取れるようになり、藩内の政治も順調に進んだ。検地や新田開発も行われ、農業生産力の確保もできて、氏鉄の治世は17年続いた。その間、氏鉄は林羅山 ( はやし・らざん ) らに学んで儒学 ( じゅがく ) を修め、「 戸田左門聞書 」 などを著している。氏鉄の時代から、3代目の藩主となった氏西 ( うじあき ) の頃から、藩財政は切迫し始め、延宝8年(1680年)には、家中の改革のため、家臣の削減などの大改革を実施した。これが 「 延宝の大暇 」 である。

 


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