【知の庭】諸藩見聞録

第55回諸藩見聞録 岐阜県/大垣藩【前編】

関ケ原の戦で三成が大垣城に入る

写真

大垣城 ©岐阜県観光連盟

 『 「 三成(みつなり)、出たか 」とするどく叫び、枕を蹴って起き上がった。時に慶長五年九月十五日午前二時であった。家康は全軍の発進を命じた。 』 これは作家、司馬遼太郎(しば・りょうたろう)の小説 「 関ケ原( せきがはら ) 」 の、極めて重要な場面のひとつである。

 西に向けて進軍した徳川家康は大垣近くの赤坂に陣を張った。相手の石田三成は大垣城に入っている。この両軍が、この後どう動くかが、天下分け目ともいわれるこの一戦の成り行きを決めることにもなりかねない。家康は、攻めにくい大垣城を三成が出て、決戦を挑んでくるのを待っていたとみられる。そして、三成は動き、決戦場となる関ケ原へと向かう。家康も、それに応じ、合戦は始まるのである。

 この関ケ原の合戦でも、石田三成が大垣城に陣取ったように、美濃国(みののくに)の大垣は、西と東を結ぶ重要な拠点となる位置にあった。また、これまでの歴史でも大垣は何度も戦乱の中に置かれている。美濃大垣城の諸説はあるが、もともと宮川安定 ( みやがわ・やすさだ ) が、築いたのが最初であるといわれる。しかし、当時は 「 牛屋城 」 と呼ばれ、簡単なものであった。その後、西美濃 ( にしみの ) 三人衆の一人とよばれた氏家直元 ( うじいえ・なおもと ) が、堀、土塁 ( どるい ) などを改修して、整備した。

 豊臣秀吉の時代に入り、池田恒興(いけだ・つねおき)が城主となり、その後も豊臣秀次 ( とよとみ・ひでつぐ ) 、豊臣秀長 ( とよとみ・ひでなが ) らと代わり、石田三成が入った時の城主は伊藤盛正 ( いとう・もりまさ ) であった。三成は盛正が西軍についていたため、大垣城に陣が取れたのである。このため、家康は大垣城近くの赤坂に陣を敷くことになったわけだ。ところが、三成が大垣城を出たため、結局関ケ原が主戦場となった。

 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.