【知の庭】諸藩見聞録

第54回諸藩見聞録  静岡県/掛川藩[ 後編 ]

相次いで代わった藩主、太田氏でようやく安定

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掛川大祭 ©社団法人 静岡観光協会

 掛川藩は戦略的に重要な位置にあったためか、藩主の交代が激しかった。山内一豊( やまのうち・かずとよ )の後に掛川城に入った松平定勝( まつだいら・さだかつ )が江戸期の掛川藩を立藩した。しかし、それもつかの間、徳川家康が駿府に移った慶長12年(1607年)に、定勝は伏見城代に任ぜられる。このため、掛川城主には嫡男の定行( さだゆき)が入るが、元和3年(1617年)には父子ともに伊勢国桑名に加増のうえ、移される。

 掛川には駿府城主の徳川頼宣( とくがわ・よりのぶ )の家老、安藤直次( あんどう・なおつぐ )が入る。しかし、安藤直次も、頼宣が紀州藩主になると、紀州の田辺に移封される。

 この後も、掛川藩主は、相次いで入れ替わる。そのために、安定した藩政は行われなかったといえる。ようやくそれがおさまるのは武蔵国岩槻から掛川に入った小笠原長熈( おがさわら・ながひろ )の子孫・長恭( ながゆき )が延享3年(1746年)に、陸奥国棚倉に移され、その後を受けた太田道灌( おおた・どうかん )の子孫といわれる太田資俊( おおた・すけとし )が上野国館林から、掛川藩主となって、入ってからである。掛川藩は、これ以降7代にわたり、太田氏による藩政がしかれることになる。

 太田資俊は掛川城主になって、まず藩政の安定を第一として、警察力の強化を図り、厳罰の姿勢をとる。盗賊が横行していたためである。太田家第2代藩主の資愛( すけよし )は、享和2年(1802年)に、藩校の徳造院を創設して、藩の人材育成に力を注ぐ。地誌 「 掛川志稿 」( かけがわしこう )の編集にも着手した。また、第5代藩主の資始( すけもと )は徳川幕府の老中も務めている。

 


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