【知の庭】諸藩見聞録

第53回諸藩見聞録  静岡県/掛川藩[ 前編 ]

山内一豊が荒廃した掛川城を修築

写真

掛川城 ©社団法人 静岡観光協会

 江戸時代の掛川は、東海道五十三次の重要な宿場町となっていて、幕府にとっても西に対する防備の要であった藩である。掛川城は、駿河の守護職であった今川義忠(いまがわ・よしただ)が、重臣の朝比奈泰熈(あさひな・やすひろ)に築かせたものだ。JRの掛川駅を降りて、まっすぐ北へ進み、逆川(さかがわ)を渡ったあたりに城はあり、今は城跡公園となっている。

 甲斐の武田信玄は、永禄11年(1568年)にそれまで同盟を結んでいた今川氏真(いまがわ・うじざね)を攻め、今川氏は居城にしていた駿府城を追われた。そして、掛川の朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)のところに身を寄せた。

 しかし、天正18年(1590年)、今度は織田信長と同盟を結んだ徳川家康に攻められて、掛川は落城した。その後の掛川城には家康の譜代の家臣である石川家成・康通(いしかわ・いえなり、やすみち)父子が入った。だが、家康は豊臣秀吉に関東に移封されたため、これを機に掛川城には山内一豊(やまのうち・かずとよ)が近江国長浜から入ることとなった。一豊は、掛川に入るとともに、荒廃していた城の修築に着手、東海の名城といわれるまでにして、城下町の整備も行った。

 秀吉の死後、一豊は家康に急接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、率先して居城であった掛川城を家康に、明け渡すことを正式に示す。この一件で、家康の関心をかったことは広く知られている。一豊は関ヶ原の決戦後、土佐一国を与えられる。山内一豊の後には、家康の異父弟の松平定勝(まつだいら・さだかつ)が下総国から、掛川城主として入る。

 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.