【知の庭】諸藩見聞録

第52回諸藩見聞録  和歌山県/紀州藩[ 後編 ]

紀州藩は徳川御三家の地位を確保、将軍吉宗を出す

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和歌山城の春

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和歌山の世界遺産・熊野古道

 和歌山城に入った徳川頼宣(とくがわ・よりのぶ)には、安藤直次(あんどう・なおつぐ)、水野重央(みずの・しげなか)の二人の重臣が徳川家康から付けられた。これにより紀州徳川家は、御三家の一角としての地位を堅固なものとした。

 頼宣は入封後、着々と城下町の拡張整備を行い、また土豪層も支配下に入れる地士(じし)の制度を採用するなど、藩の体制強化を図っていった。しかし、家臣団の増強は支出増につながり、土木工事の遂行や参勤交代の経費などで藩の財政は次第に窮迫してゆく。

 そんな折の慶安4年(1651年)、由井正雪(ゆい・しょうせつ/まさゆき)による「 慶安の変 」 が起こる。幕府を覆そうとしたこの事件で、頼宣はその黒幕の疑で江戸城に呼びつけられ、その後十年ほど和歌山城には戻れなかった。その後、頼宣は寛文7年(1667年)隠居して、嫡男の光貞(みつさだ)に家督を譲る。この光貞の嫡男、綱教(つなのり)は5代将軍綱吉の娘、鶴姫を嫁に迎える。これにより慶安の変ですきま風が吹きがちであった将軍家との関係は修復できたものの、江戸屋敷の火災なども加わり藩財政はさらに苦しく、幕府や商人からの借財が増える結果となった。

 紀州藩が江戸時代に脚光を浴びるのは、徳川宗家の第8代将軍として吉宗を出したときである。吉宗は宝永2年(1705年)に紀州藩の第5代藩主となる。着任と同時に、窮迫の度を強めていた藩財政の再建に乗り出す。初登城の際には、木綿の羽織を着て家臣に対面するなど、身をもって倹約を奨励し、新田の開墾や殖産なども積極的に行った。またその一方で、新税を課すなど、着々と財政再建を果たし、藩の借財も減らしていった。

 吉宗は享保元年(1716年)に将軍に就任し、紀州藩第6代藩主の座には、支藩の伊予西条藩主の松平頼純(まつだいら・よりずみ)の次男、宗直(むねなお)がついた。吉宗は将軍職就任後、ただちに幕府の体制強化に着手している。また、紀州藩主からは第14代将軍徳川家茂(いえもち)も出ている。

 


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