【知の庭】諸藩見聞録

第51回諸藩見聞録  和歌山県/紀州藩[ 前編 ]

「 若の浦 」 を一望できる和歌山城の天守閣

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「 若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る 」

 奈良時代の歌人、山部赤人(やまのべのあかひと)が詠んだ歌である。ここに登場する 「 若の浦 」 のあたりが、和歌山城の天守閣からは一望できる。和歌山県という名も、この歌に出てくる 「 若の浦=和歌浦(和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称)」 から来ているといわれる。紀州は美しく、気候も温暖で、住みやすいところである。

 だが、戦国時代には、このあたりは根来寺(ねごろじ)を本拠とする根来衆や鉄砲集団であった雑賀衆(さいかしゅう)が勢力を持っていた。このため織田信長が攻めたが屈せず、結局豊臣秀吉の時代の天正13年(1585年)に、6万の大軍を用いて紀州攻めを敢行、平定した。

 このときの副将を務めたのが豊臣秀長で、秀吉はこの戦功として紀州を与えた。秀長はこれを機に紀州・和泉を治めるための本拠地として和歌山城の築城にとりかかった。秀長は大和郡山(やまとこおりやま)を居城としていたため、和歌山城には家臣の桑山重晴を城代として置いた。その後は、関ケ原の戦いで家康方について戦功をあげた浅野長政の嫡子・幸長が甲斐国府中から、和歌山城に入ることになった。幸長は検地を実施するなど藩の基礎固めを行ったが、慶長18年(1613年)に没した。

 浅野幸長の後、嫡男の長晟(ながあきら)が家督を継いだが、長晟は大坂の陣の戦功により安芸国広島に加増移封となる。浅野氏の後には駿河国駿府から徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)が和歌山城主として入り、紀州徳川家の初代となる。これで尾張、水戸と並ぶ徳川御三家の一角が誕生した。

 豊臣秀長が天正13年に築城に着手した和歌山城は、三層の天守閣があり、姫路城、伊予松山城と並び日本三大平山城ともいわれる。秀長の後浅野氏により、大手門を移すなどの大改修が行われ、現在も城門や石垣、堀などが残っている。

(写真上)八代将軍吉宗の誕生の地、和歌山城。城内には古代遺跡の発掘品から徳川家ゆかりの品々が展示されている   (写真下)紀三井寺(きみいでら)。「名水百選」や早咲き桜の名所として知られ、境内からは和歌浦が一望できる

 


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