【知の庭】諸藩見聞録

第50回諸藩見聞録  茨城県/水戸藩[ 後編 ]

副将軍として徳川政権を支えた水戸藩主

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水戸偕楽園
( みとかいらくえん )

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弘道館

水戸藩は関東の要衝に位置すると、幕府は認識していた。従って水戸藩主を徳川直轄で治めることとし、徳川頼房(とくがわ・よりふさ)もその考え方に基づいて、水戸城主となったのである。

 こうしたいきさつからも、水戸藩主は代々将軍の補佐役の地位にあった。頼房は7歳で水戸藩主となったが、家康の存命中は駿府ですごし、家康没後は江戸詰となる。また頼房は、尾張名古屋藩主の義直(よしなお)、紀伊和歌山藩主の頼宣(よりのぶ)とともに徳川姓を許され、寛永年間に入ると、水戸をはじめ尾張、紀伊の徳川家については、いわゆる 「 徳川御三家 」 という格式が定まった。

 水戸徳川家は、禄(ろくだか)高については尾張、紀伊と比べると少なく、大きな差があった。しかし、将軍家の選任を始めとする重要な諸政策にかかわることになり、「 天下の副将軍 」 とも呼ばれるようになる。頼房は、実際没するまで五十年以上も水戸藩主の地位にあって、尾張、紀伊とともに、秀忠、家光、家綱の歴代将軍を助けてきた。寛文元年(1661年)に武家諸法度の改定により諸大名の参勤交代制度が決まったが、水戸藩主は短期間の国入り以外は常に江戸藩邸にいて、将軍補佐として幕府の指揮を執った。

 頼房のあとを継いだのは、三男の光圀(みつくに)であった。光圀は頼房が敷いた藩政のレールの上で、その強化、安定を図っていった。光圀の仕事として、注目されるのは 「 大日本史 」 の編纂(へんさん)である。光圀は江戸の駒込で、明暦3年(1657年)からこの編纂事業を始めた。「 大日本史 」 が完成したのは正徳5年(1715年)で、その時すでに光圀は没していた。

 また、第9代藩主の徳川斉昭(とくがわ・なりあき)は、文武修行の場として藩校弘道館を天保12年(1841年)に開設、その翌年には藩士らの安らぎの場である水戸偕楽園(みとかいらくえん)を造っている。

 代々の水戸藩主が居城とした水戸城は、北に那珂川の流れがあり、南には千波湖がある。この二つに挟まれた洪積台地の突端部に城がある格好で、天然の要害といわれた。

 


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