【知の庭】諸藩見聞録

第49回諸藩見聞録  茨城県/水戸藩[ 前編 ]

徳川頼房が水戸の初代藩主に

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徳川光圀公像

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水戸東照宮

 戦国時代、水戸城を中心とする常陸( ひたち )の国は那珂( なか )氏の流れをくむ江戸氏が勢力圏として治めてきた。しかし、江戸重通( えど・しげみち )の代の天正18年(1590年)、豊臣秀吉が 「 小田原の陣 」 を張った際に、重通がこの誘いを断ったため、秀吉軍に加わっていた佐竹義宣( さたけ・よしのぶ )に攻められて、江戸氏は没落する。

 佐竹義宣は江戸氏に代わって水戸城に入る。そしてこれを機に、佐竹氏に敵対していた小野寺照通(おのでら・てるみち)らを攻め、常陸国の内部統一を図って行く。これにより佐竹氏は秀吉政権のもと、徳川家康をはじめ前田氏、毛利氏らとも肩を並べ、「 六大将 」と呼ばれるまでになっていった。

 ところが佐竹義宣は石田三成との親交を深めていて、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍につく。しかし父親の佐竹義重( さたけ・よししげ )は徳川家康側につく立場を表明していた。つまり佐竹一門としては、総意の統一をはからなかったことになる。このため関ケ原の戦いの後、家康に佐竹一門の不統一な態度をとがめられる結果となり、義宣は水戸から出羽国の久保田への転封を命ぜられる。

 佐竹氏の後、水戸城に入ったのは家康の五男で、下総国の佐倉城主だった武田信吉( たけだ・のぶよし )である。その背景には、幕府を作ってゆくにあたって関東の要となる水戸を徳川直轄で固めるとの方針もあったようだ。しかし、この信吉は、水戸城入場の翌慶長8年(1603年)に21歳の若さで病没する。このため家康の十男である徳川頼将( とくがわ・よりまさ )が慶長14年(1609年)までその任にあったが、駿河・遠江( とおとうみ )・三河の藩主として移される。

 新藩主として入ったのが家康の十一男である徳川頼房(とくがわ・よりふさ)だ。そして第2代藩主を継いだのが、頼房の三男で天下の副将軍として世に知られることになった徳川光圀(とくがわ・みつくに)である。

 


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