【知の庭】諸藩見聞録

第47回諸藩見聞録  福井県/小浜藩[ 前編 ]

若狭湾のそばに造られた京極高次の小浜城

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小浜城跡*1

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京極家菩提寺・滋賀県徳源院*2

 若狭国は、室町時代に守護だった武田信賢(たけだ・のぶかた)が、現在の小浜城(おばまじょう)よりも南西方向の青井山に城を築いて治めていた。武田氏は元光(もとみつ)の代になって後瀬山(のちがせやま)に城を移したが、元明(もとあき)の時に織田信長の若狭攻めにあい、滅亡した。

 その後、後瀬山城には豊臣秀吉の家臣である丹羽長秀(にわ・ながひで)、次いで浅野長政(あさの・ながまさ)が入った。そして、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの際は木下勝俊(きのした・かつとし)が城主であった。しかし、勝俊は西軍の石田三成方に加わったため、関ケ原の後は徳川家康により京極高次(きょうごく・たかつぐ)が、近江国大津から入り、立藩することになる。

 京極高次は、関ケ原の戦いでは当初西軍につき、居城である大津城を出て西軍とともに越前に向かうが、突如大津に引き返す。そして、家康の四天王のひとりだった井伊直政(いい・なおまさ)に籠城(ろうじょう)することを告げて、大津城に立てこもる。

 この高次の裏切りを聞いて、逢坂山(おうさかやま)から毛利元康(もうり・もとやす)軍が大津城に攻め寄せた。これに柳川の立花宗茂(たちばな・むねしげ)軍も加わる。このため高次は抗しきれず、剃髪(ていはつ)して高野山に入る。しかしこの籠城作戦で、西軍の精鋭部隊が足止めされたために関ケ原の本戦には参加できなかった。家康はその功績を高く評価、井伊直政を使者にたてて高野山から下りるように伝え、若狭を高次に与える。

 後瀬山城に入った京極高次は、慶長6年(1601年)、城が手狭だったため、若狭湾近くの現在の地に小浜城を建てることを決め、築城に着手した。城近くにあった海岸が雲の浜と呼ばれていたことから、この城を雲浜城(うんぴんじょう)ともいう。

 慶長14年(1609年)に高次は死去し、その子の忠高(ただたか)が家督を継ぎ、小浜城の造営継続と城下町の整備を続けたが、天守閣までは築けなかった。忠高は寛永13年(1636年)には、出雲の松江藩に移封となり、京極家の小浜城主の時代は高次、忠高のわずか二代で終わることになる。

 京極家は、もともと琵琶湖周辺で、勢力を持っていた一族であった。このため菩提寺(ぼだいじ)は滋賀県米原市の清滝にある徳源院である。関ケ原のすぐそばにあるこの寺は萩の名所でもある。境内には季節がくると、萩の花が咲きほこり、むせるような香りがあたり一面に漂う。

写真提供 *1:(社)福井県観光連盟   *2:(社)びわこビジターズビューロー

 


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