【知の庭】諸藩見聞録

第46回諸藩見聞録  兵庫県/赤穂藩[ 後編 ]

浅野家の後は森蘭丸の家系、長直が藩主に

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赤穂義士祭*1

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大石神社*2

 「 風さそう 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん 」

 江戸城中での刃傷事件によりお家断絶、その身は切腹となった赤穂藩城主・浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)の辞世の歌である。この松の廊下での刃傷における動機については、吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしなか)の長矩に対するいわゆる「 いじめ 」 というのが一般的だが、このほかにもいくつかの説がある。

 その一つに、塩をめぐる恨みによるものではないか、というのがある。吉良義央が造っていた三河の塩と赤穂・浅野の塩は市場で競合していた。だが次第に分が悪くなってきていた吉良が赤穂にその調整を依頼したが、赤穂はこれに応じなかったという。さらに、吉良は製塩技術についての提供を赤穂に求めたがこれも拒否された、などがその背景にあったのではないか、という。しかし、いずれにしてもこの刃傷事件の真相を決定づけるものはない。ただ、幕府の目付であった多門 重共(おかど・しげとも/通称・多門伝八郎 おかど・でんぱちろう)が書いたという 「 多門筆記 」 というのがあり、その中に 「 上野介はいかが相成り候や 」 と、長矩が吉良のその後を気にしていて、それに 「 (吉良の)養生も心もとなく 」 と答えると、長矩の顔がゆるんだ、といった記述が残っている程度である。

 浅野長矩亡き後、赤穂は一時幕府領とされていたが、間もなく下野国烏山から永井直敬(ながい・なおひろ)が入るが、宝永3年(1706年)、直敬は信濃国井伊山に転封となる。代わって備中国西江原から森長直(もり・ながなお)が赤穂藩主としてやってきた。森家は織田信長の家臣筋で、 「 本能寺の変 」 で信長とともに討ち死にした森蘭丸(もり・らんまる/森成利 もり・なりとし)の家系である。だが長直の後は、森長孝(ながたか)など森家養子筋の藩主が続くことになる。

 家臣筋の森忠洪(もり・ただひろ)が藩主に就いた延享4年(1747年)、赤穂は藩政の大改革に着手した。倹約令による諸経費の削減はもちろんのこと、塩田の開発にも一段と力を注いだ。塩の品質を上げるために、塩改めという新制度の導入も図った。だが、藩財政は好転しないまま、赤穂藩は幕末を迎えることとなる。

*1:赤穂市で毎年12月13・14日の2日間行われるイベント。最大の目玉は忠臣蔵パレードだ。   *2:大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)以下、四十七義士と萱野三平などを合祀(ごうし)、義士宝物館も併設されている(JR播州赤穂駅から徒歩約15分)

 


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