【知の庭】諸藩見聞録

第45回諸藩見聞録  兵庫県/赤穂藩[ 前編 ]

松の廊下の刃傷で赤穂浅野家はお家断絶に

写真

赤穂城跡大手門隅櫓(すみやぐら)

写真

赤穂市立歴史博物館・愛称"塩と義士の館"

 赤穂は塩田を持っており、もともと豊かな土地柄ではある。だが、城主がさまざまな事情で相次いで代わるなど、一面不幸な影を落としている藩でもある。

 姫路藩主であった池田輝政(いけだ・てるまさ)の後を継いだ、利隆(としたか)がその弟(輝政の五男)の政綱(まさつな)に播磨の国の赤穂を分与。政綱が元和元年(1615年)に赤穂藩を立藩した。しかし、この政綱は若くして没したためその弟の輝政の六男、輝興(てるおき)が、その後赤穂に入った。ところが、そこでまた不幸が起こった。輝興はどうしたことか、正保2年(1645年)に乱心して妻子らを斬殺してしまう。このため輝興は赤穂を没収されたうえ、岡山藩主の池田家にお預けの身となる。

 輝興の後には、常陸国の浅野長直(あさの・ながなお)が入る。赤穂藩主となった長直は、慶安元年(1648年)に新しい城造りに着手するが、新城には経費がかさみ、赤穂の財政を大きく圧迫することになる。このため長直は、赤穂特産の塩に目をつけ、塩田の開拓を進める一方で、塩に対する年貢の引き上げなど増収策とともに塩の販売面でも市場を広げるなどの努力を行うが、成果はあまり上がらなかった。長直の後を継いだ次男の長友(ながとも)は、家臣の解雇を断行するなど緊縮財政政策を実行したが、30代で亡くなる。この長友の後を継ぐことになったのが、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)である。長矩は塩の専売制度をつくり、統制を強化するなど引き続き藩財政の建て直しに努力する。

 しかし、こうした財政建て直しなどの努力も吹き飛ばしてしまうような事件が赤穂藩に突如起こった。それは、江戸城中・松の廊下でおきた刃傷事件である。長矩は伊達宗春(だて・むねはる)とともに勅使接待役を仰せつかっていた。このため指南役の吉良上野介義央(きらこうずけのすけ・よしなか)に教えを受けることになったが、長矩はこの義央に松の廊下で脇差しを抜いて斬りかかる。元禄14年(1701年)3月のことで、義央に不心得と侮辱されたことが理由とされるが、真相は不明である。

 この不始末について、第5代将軍の綱吉は長矩に即日切腹を命じ、赤穂浅野家は断絶する。残された浅野の家臣は、お家再興を願い出るが、幕府はこれを拒絶した。このため浪人となった浅野家の家臣のうち、大石内蔵助ら47人は、元禄15年(1702年)12月14日に吉良邸に討ち入り、義央の首級(しるし)を討ち取る。これが 「 元禄赤穂事件 」 、いわゆる 「 忠臣蔵 」 である。

 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.