【知の庭】諸藩見聞録

第44回諸藩見聞録  福岡県/柳川(柳河)藩[ 後編 ]

水郷は蒲池氏が築いた柳川城の防備が原型

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柳川が生んだ詩人・北原白秋の命日11月2日の前後3日に開催される白秋祭水上パレード

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立花家別邸は現在、宿泊、レストランと資料館 「 御花御殿 」 として観光スポットになっている

 『 からたちの花 』など多くの童謡を書き、広く親しまれた詩人の北原白秋は柳川の造り酒屋で生まれ、育った。その白秋が『 抒情小曲集 思ひ出 』 の序文 「 わが生いたち 」 の中で、柳川についてこんな記述をしている。

 「 私の郷里柳河は水郷である。そうして静かな廃市の一つである。自然の風物は如何(いか)にも南国的であるが、既に柳河の街を貫通する数知れぬ溝渠( こうきょ )のにほいには、日に日に廃れゆく旧い( ふるい )封建時代の白壁が今なほ懐かしい影を映す。 」

 このように北原白秋に大きな影響を与えたと思われる柳川の水郷は、筑後川と矢部川の支流を利用して人工的に造られた掘り割りから形成されていて、その原型は蒲池治久( かまち・はるひさ )が築いた柳川城の防備のために造られたものである。

 柳川城は、蒲池氏、龍造寺氏らが入った後、立花宗茂( たちばな・むねしげ )が城主となったが、宗茂が関ケ原の戦いで西軍についたため、田中吉政( たなか・よしまさ )とその子の忠政( ただまさ )が入城するもその期間は短く、再び宗茂が城主となり、それ以降幕末まで立花氏の居城となる。

 陸奥国棚倉から柳川に返り咲いた立花宗茂は、柳川に帰ると棚倉からの家臣のほかに旧家臣も呼び戻して家臣団の陣容を固める。さらに柳川城の改修を行い、城下町を整えていった。

 宗茂は弟直次( なおつぐ )の4男である忠茂( ただしげ )を養子に迎えて後を継がせる。道雪( どうせつ )を初代として立花家の第3代当主となった忠茂は、宗茂とともに寛永15年(1638年)に起こった島原の乱に出陣して島原城詰の丸を陥落させる働きをしている。また武芸、学問をともに奨励して柳川藩の基礎作りに努めた。

 第5代当主の立花鑑任( たちばな・あきたか )の時代には、家老に立花親長( たちばな・ちかなが )を登用して新田の開発などをすすめた。また、家老の小野春信( おの・はるのぶ )は三池郡平野山に炭鉱を開発し、これがのちの三池炭鉱となる。また、この時代に完成した立花家別邸 「 集景亭( しゅうけいてい ) 」 は現在 「 御花御殿 」 と呼ばれ、宿泊、食事、館内見学ができる観光スポットになっている。

 幕末にペリー率いる黒船が浦賀に入港した際、警備のために江戸に出ていた家臣団は、柳川藩が藩政、軍備ともに立ち遅れていることに大きな驚きを覚える。このため第13代当主の立花鑑寛( たちばな・あきとも )は、経済政策とともに軍備の整備、強化も行う。明治維新の際には、柳川藩は新軍備で奥羽征討に参加、長洲征伐にも出兵した。しかし戊辰戦争では政局の流れを受け、新政府軍に属して戦うことになる。

 


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