【知の庭】諸藩見聞録

第43回諸藩見聞録  福岡県/柳川(柳河)藩[ 前編 ]

武将の器量を備えた藩主、立花宗茂

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立花家の菩提寺・福厳寺

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水の城下町柳川の川下り風景

 柳川藩の藩主として、江戸時代に長く栄えることになった立花家の基礎を築いたのは立花宗茂(たちばな・むねしげ)である。宗茂は、もともと豊後・大友氏の家臣であった高橋紹運(たかはし・しょううん)の嫡男だったが、同じく大友氏の家臣、立花山城主の立花道雪(たちばな・どうせつ)にその器量を買われ、立花家に養子に入り、道雪から家督を譲られた。

 天正14年(1586年)、島津軍が勢力拡大を狙って筑前に攻め込んできた。この戦で父親の高橋紹運は岩屋城にこもり戦死するが、宗茂は島津軍の本陣を奇襲攻撃するなど、勇猛果敢(ゆうもうかかん)に戦い、ついに島津軍を撤退に追い込んだ。その後も、宗茂は豊臣秀吉の九州平定で戦い、その戦功により秀吉から筑後の柳川を与えられる。立花氏はこれで、大友氏から独立した大名となったことになる。

 宗茂は秀吉の朝鮮遠征にも参戦している。明・朝鮮の連合軍約3万人が攻めてきて加藤清正軍が孤立した際、わずか1,000の兵で救出に向かい成功するなど、めざましい活躍をした。また、関ケ原の戦いでは、豊臣秀吉に恩義を受けていることを理由に、徳川家康からの誘いを断って西軍についた。そして、京極高次(きょうごく・ たかつぐ)の守る大津城攻めに、毛利元康(もうり・もとやす)らとともに参戦した。しかし、関ケ原の本戦には、大津攻めのため加わっていない。西軍は関ケ原で破れ、宗茂は島津義弘(しまづ・よしひろ)とともに柳川に引き上げる。

 この後、宗茂を攻めてきた鍋島軍との戦いになるが、抵抗して鍋島軍を苦しめる。しかし、加藤清正(かとう・きよまさ)の説得を受け入れて、柳川城を明け渡し、宗茂は浪人する。浪人とはなったものの、宗茂の器量を知る大名からは、家臣への誘いがきた。しかし、宗茂はそのいずれをも断り、朝鮮での戦いで恩義のある加藤清正の食客となっていた。そうした中、大阪勢に加わることを恐れた家康は宗茂に陸奥国棚倉を与える。

 宗茂のあと、柳川城には関ケ原の戦いで石田三成を捕らえた三河国岡崎の田中吉政(たなか・よしまさ)が入る。しかし、吉政は慶長14年(1609年)江戸に向かう途中で死去する。その跡を継いだ忠政(ただまさ)も元和6年(1620年)に没す。田中家には継嗣がいなかった。このため、柳川には再び宗茂が入ることになり、以降立花家が柳川の城主を務めることとなる。

 


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