【知の庭】諸藩見聞録

第42回諸藩見聞録  滋賀県/彦根藩[ 後編 ]

鳥羽伏見の戦いで彦根藩は新政府軍に

写真

小江戸彦根の城まつり
(©びわこビジターズビューロー)

 井伊直澄(いい・なおずみ)は江戸幕府の大老に就任したが、延宝4年(1676年)在職のまま死去した。井伊家の家督を継いで、第4代藩主となったのは直興(なおおき)であった。これは直澄の父・直孝の遺言によるものといわれる。

 松平定信が寛政の改革を断行したころ、彦根藩主は第13代の井伊直中(いい・なおなか)の時世にあった。彦根藩もこのころから、財政が逼迫(ひっぱく)してきていた。直中は、自ら節約に努め、藩内での倹約実施のために改革を進めた。また、浜縮緬(はまちりめん)など国産の奨励・専売政策をすすめる国産方を設けるなど、藩の経済活動の活性化にも務めた。また、 教育の面にも力を注ぎ、熊本藩の時習館に習って、彦根にも藩校稽古(はんこうけいこ)館を創設した。

 直中の後、第14代藩主となったのは3男の直亮(なおあき)であった。直亮は、天保6年(1835年)から同12年(1841年)まで大老を務めている。この直亮は、嘉永3年(1850年)に亡くなる。そして、その後を継いで、第15代の藩主となったのが、井伊直弼(なおすけ)である。

 直弼は、直中の14男ではあったが、庶子の扱いをされていた。このため、父の直中が没すると、兄である直亮の指示で城外の北の屋敷に移され、家臣並みの生活を余儀なくされた。家督を継ぐ世子以外はこのように厳しく扱われるのが、井伊家の家風でもあったようだ。直弼は、この屋敷を埋木舎と呼んでいた。こんな歌を詠んでいる。

「 世の中をよそに見つつも埋れ木の 埋もれておらん心なき身は 」

 直弼は北の屋敷で過ごす間に、茶道などの諸芸を身につけ、学問も学んでいる。国学者の長野主膳(ながの・しゅぜん)にも師事した。また、将軍継嗣問題では、薩摩藩主の島津斉彬(しまづ・なりあきら)らと対立、さらに外交政策をめぐっては攘夷(じょうい)運動の渦中の人となり、安政5年(1858年)から翌年にかけて江戸幕府が行なった「安政の大獄(あんせいのたいごく)」の弾圧もからんで、万延元年(1860年)に桜田門外で暗殺される。

 直弼の後を継いだのは、第16代藩主の井伊直憲(いい・なおのり)である。この直憲は文久3年(1863年)、王政復古の号令が発せられると、朝廷側につく決断をする。徳川四天王の一人といわれた井伊直政から15代にいたって、彦根藩は鳥羽伏見の戦いにおいて新政府軍につくことになったのである。

小江戸彦根の城まつり:井伊直弼(なおすけ)の誕生日である10月29日を中心に行われる彦根市最大の祭り

 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.