【知の庭】諸藩見聞録

第41回諸藩見聞録  滋賀県/彦根藩[ 前編 ]

徳川四天王の一人、井伊直正が藩主に

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紅葉の彦根城(©びわこビジターズビューロー)

 井伊直政は、徳川家康に長く仕え、徳川四天王の一人ともいわれていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍の島津義弘を追撃するなどの功績をあげ、石田三成の居城であった佐和山城を引き継ぐ。だが、直政は西軍の将であった三成の居城を嫌い、琵琶湖畔の磯山に築城を考えるが、島津軍追撃の際に受けた鉄砲傷がもとで、慶長7年(1602年)に没し、嫡子の井伊直継(いい・なおつぐ、後に井伊直勝=いい・なおかつ)が彦根山に新城を築く。その際、天守閣は大津城から西の丸、櫓(ろ)の一部は小谷城から、など多くを移築によって造ったと伝えられる。天守閣は3重地下一階の複合式望楼型で、最上階には外廻り縁と高欄がある。

 しかし、直継は病弱だったため、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には弟の直孝(なおたか)が代わって出陣、井伊軍を指揮した。これを節目に、家康は、病弱な直継に代わって直孝に彦根藩を継がせるように命じ、直継には上野国安中藩を与えた。直継は藩主を抹消され、第2代彦根藩主は直孝となる。直孝は翌年の大阪夏の陣で先鋒を務め、木村重成、長宗我部盛親を打ち破るなど戦功をあげた。

 井直孝は、家康以降も、秀忠、家光、家綱の各将軍に仕え、幕府の信頼を得て幕府の諸制度の基礎を固める役割を果たし、幕政を補佐した。朝鮮通信使の記録によると、伊井直孝は、将軍の側近の扱いで筆頭の座につき、次いで保科正之、酒井忠清らの順になっていたという。彦根藩の領地も、近江国、犬上、神崎、坂田など7郡あり、禄高も譜代大名の中でもトップ級であった。

 直孝が将軍の補佐をして幕政にあたっている間は、嫡男の直滋(なおしげ)が、父親に代わって藩政を遂行していた。しかし、この直滋は出家して、第3代彦根藩主の座には、五男の直澄(なおずみ)がついた。直孝が直澄に残した藩主の心得を示した 「 久昌院様御遺言 」 には、幕府に仕え、武道を奨励し、人材を登用すべきことなどが記されており、これが以降の彦根藩の藩政の基礎となる。

 


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