【知の庭】諸藩見聞録

第40回諸藩見聞録  福島県/会津藩[ 後編 ]

将軍家光の補佐役、保科正行が会津藩主に

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天守が郷土博物館となっている若松城

 関ヶ原の戦いの後、若松城(通称 会津若松城あるいは鶴ヶ城)には蒲生氏郷(がもう・うじさと)の子である秀行(ひでゆき)が入り、蒲生家が返り咲いたが、秀行の家督を継いだ忠郷(たださと)には継嗣(けいし)がなく、寛永3年(1626年)に蒲生家は断絶する。

 その後には、伊予松山から加藤嘉明(かとう・よしあきら)が入るが、嘉明は寛永8年(1630年)に死去、その子の明成(あきなり)が会津加藤家の2代目となる。明成は蒲生秀行時代に地震の被害にあっていた天守閣など、若松城の改修を行い、7層だった天守閣は5層に改築された。

 ところが、加藤明成は、父の嘉明時代から重臣であった堀主水(ほり・もんど)との確執がもとで、局寛永20年(1643年)に除封となってしまう。そこで、将軍家光は奥羽諸藩に対する事実上の目付け役にも当たる会津藩主に保科正之(ほしな・まさゆき)を充てる。こうして会津藩は以降、幕末まで保科家の治世となる。

 保科正之は、二代将軍の徳川秀忠が侍女に生ませた子で、三代将軍の家光とは異母兄弟にあたり、家光の信頼が厚かったといわれる。正之は7歳の時に、信濃の高遠藩主・保科正光の養子に出され、保科姓となっていた。そうしたいきさつから、正之は家光の幕政の補佐役的な地位にあり、尾張、水戸、紀伊の徳川御三家に次ぐ力を持っていた、とされる。家光の死後も遺言により、将軍家綱の補佐役もつとめることになる。

 若松城に入った保科正之は、さっそく明暦元年(1655年)に領内の総検地を行い、農民に低利で米穀を貸与する社倉法を実施するなどの施策を実行、藩内の基盤を固めていった。また正之は、高遠藩時代に建福寺の僧であった鉄舟から儒学を学んでいたことから、会津藩でも儒教道徳を広めていった。

 保科正之は寛文8年(1668年)に、「 家訓 」 を自ら起草している。これによると「 大君(将軍)の義、一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例をもって自ら処すべからず 」 とあり、徳川将軍家に忠誠をつくすよう、厳しく教えを残している。これが、幕末での会津藩の行動につながってゆく。

 元禄2年(1689年)に、保科家は将軍家から松平の姓をあたえられ、同時に葵の紋の使用を許された。しかし、この元禄のころから藩の財政は悪化した。さらに、城下で発生した大火や凶作が、これに追い討ちをかけた。藩政の改革も行われたが、藩の財政は幕末まで本格的に立ち直ることはなかった。

 


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