【知の庭】諸藩見聞録

第39回諸藩見聞録  福島県/会津藩[ 前編 ]

蒲生氏郷が金箔をあしらった鶴ヶ城を築く

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鶴ヶ城(通称・会津若松城)

 会津若松は、出羽、越後、陸奥など東北、北陸の地を睨(にら)むためには、きわめて重要な位置にある。鎌倉時代の源頼朝、さらには戦国時代を生きた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑にも注目され、会津城主は歴史の大きなうねりの中で何度か変わっている。

 源頼朝に従っていた三浦一族である佐原(さはら)氏の流れをくむ蘆名(あしな)氏が、当時黒川と呼ばれていた会津の地を領地とし、蘆名氏第7代目の直盛(なおもり)が黒川城の前身となる東黒川館を造った。これが後の若松城(通称 会津若松城あるいは鶴ヶ城とも呼ばれる)となる。15世紀の半ばごろまでには蘆名氏により、その城下町が形成されていたといわれる。第16代蘆名盛氏(あしな・もりうじ)の時代にこの城を軸に大きな勢力を築く。

 しかし、20代蘆名義広(あしな・よしひろ)の時代になると、東北で力を伸ばしてきた伊達政宗と衝突し、蘆名氏は政宗の軍門に下る。伊達政宗の東北地方での勢力拡大を警戒していた豊臣秀吉は、その権威で、政宗から会津を召し上げて、蒲生氏郷(がもう・うじさと)にあたえる。

 蒲生氏郷は近江蒲生郡日野の生まれで、幼名を鶴千代と称していた。その頃、主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、岐阜の織田信長に人質に出されていたが、信長に認められて、信長の次女の冬姫と結ばれている。これにより、蒲生氏郷は信長の一門として処遇され、伊勢大河内城攻めをはじめ、姉川の戦い、長篠の戦い(ながしののたたかい)などに参戦して、武勇をあげている。

 信長が明智光秀による本能寺の変で亡くなると、氏郷は信長の妻子を保護して居城である日野城に入り、光秀と敵対する。光秀が秀吉によって殺された後は秀吉に仕え、伊勢松ヶ島をあたえられる。天正12年(1584年)の小牧・長久手(ながくて)の戦いや、九州の島津攻めなどにも参戦し、天正18年(1590年)、蒲生氏郷は要衝の地、陸奥会津を秀吉から任されることになった。

 会津に入った蒲生氏郷は、伊達政宗らに備えるために城の大改修を行い、文禄2年(1592年)には7重(5重で地下2階との説もある)の望楼型天守閣ができあがった。鬼瓦(おにがわら)などには金箔が施されていた。蒲生氏郷はこれを機に、蒲生の出身地である近江にあった地名を取って、黒川を「若松」と改め、城名も若松城となる。

 しかし、蒲生氏郷の子、秀行の代になり、家中騒動が起こって、蒲生家は下野の宇都宮に移封され、会津には上杉景勝が入る。この上杉景勝も関ヶ原の戦いで、西軍についたため、徳川家康によって会津から米沢に移され、翌慶長6年(1601年)には再び氏郷の子、蒲生秀行が会津若松に入城することになる。

 


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