【知の庭】諸藩見聞録

第38回諸藩見聞録  佐賀県/佐賀藩[後編]

鍋島勝茂が初代佐賀藩主に

写真

松原神社(佐賀市)/佐賀藩の藩祖、鍋島直茂とその先祖戦国期の佐賀城主龍造寺隆信などを祭っている。

 鍋島直茂(なべしま・なおしげ)は、関ヶ原の役の後、徳川家康から肥前を安堵(あんど)されたものの、領地内では依然龍造寺(りゅうぞうじ)氏の勢力が残っていたため藩内の体制はなかなか固まらなかった。直茂は幕府に働きかけ、慶長18年(1613年)に、第2代将軍秀忠から嫡男勝茂(かつしげ)に、肥前35万7千石の朱印状をもらう。これにより鍋島家は名実ともに肥前の国主となり、佐賀・鍋島藩が誕生する。したがって鍋島藩の初代藩主は鍋島勝茂で、直茂は 「 藩祖 」 といわれるようになる。これも政略家であった直茂の龍造寺の勢力に配慮した狙いがあったためといわれる。

 鍋島藩の石高は35万7千石あったが、勝茂は鹿島、小城、蓮池を支藩とし、さらに政治的配慮などから龍造寺四分家などにも各自治領を許したため、藩主が保有する実質的な知行(ちぎょう)高は限られた。このため本藩の財政には当初から厳しいものがあった。佐賀藩第2代藩主、鍋島光茂(なべしま・みつしげ)は、鹿島、小城、蓮池の三支藩について 「 三家格式 」 を定めて、本藩の統制下に置く施策をとった。こうした背景もあってか、光茂の時代に、光茂の小姓を務めた山本常朝(やまもと・じょうちょう)の話したものを田代陣基がまとめた 「 葉隠聞書(はがくれききがき)」 が表される。豊かではなくとも誇りを持って生き抜いてゆく武士道の精神論を説いたもので、佐賀藩武士の生き方の範となった。

 3代藩主には綱重が就くが、勝茂、光茂時代の諸工事など、財政の放漫化のつけがあり、藩の借財は膨れあがっていた。綱重はじめ4代藩主の吉茂、5代藩主の宗茂らは財政の健全化に努めたが、享保11年(1726年)には佐賀城が火災にあい、また飢饉(ききん)がおこるなど思うように改革は進まなかった。

 佐賀藩で中興の祖ともいわれるのは8代藩主の鍋島治茂(なべしま・はるしげ)である。治茂が藩主についた時は、借財がさらに膨れ上がっていただけではなく、藩士の間に退廃した空気が流れ、2代藩主光茂のころの葉隠精神もどこかに消え去っていた。このため治茂は干拓や陶器製造などを行い、新田の開発もした。また、人材育成のために藩校・弘道館を創設、藩祖の時代を思い起こさせることを狙いとして勝茂を祭る松原神社を建立した。

 鍋島家で出色の藩主といわれるのは10代藩主の鍋島直正(なべしま・なおまさ)である。17歳で藩主に就任し、まず 「 粗衣粗食令 」 を出し、華美をいましめ、大幅な人員整理も敢行(かんこう)した。また、陶器、茶などの輸出など海外との交易による利潤獲得に努め、洋式の軍事工場も開設、鉄砲の製造、大砲の鋳造も行い、蒸気船 「 凌風丸(りょうふまる) 」 を進水させている。幕末の佐賀藩は、陸海軍ともにすぐれた兵力を持ったが、尊王攘夷(そんのうじょうい)や倒幕運動などには、薩長土の各藩に比べると比較的消極的な姿勢を取った。

写真提供:(社)佐賀県観光連盟

 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.