【知の庭】諸藩見聞録

第37回諸藩見聞録  佐賀県/佐賀藩[前編]

龍造寺隆信が肥前を中心に勢力を伸ばす

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高伝寺(佐賀市)/鍋島家や龍造寺家の菩提寺として佐賀藩と深い関係を持つ寺。日本に二幅しかない貴重な大涅槃像の所蔵や梅の名所としても有名。

 戦国時代に、現在の佐賀県に当たる肥前の東部で勢力を伸ばしてきたのが龍造寺(りゅうぞうじ)一族である。龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)の時代に肥前一帯を制圧し、その勢力を九州の中央部に向けて拡大することを狙っていた。

 隆信は、大友宗麟(おおとも・よししげ=そうりん)ら大友軍が、島津義久(しまづ・よしひさ)らの島津軍と、天正6年(1578年)に日向の高城川原を主戦場にして戦った、いわゆる 「 耳川の戦い 」 で大友軍が敗れるや、機を逃さず大友氏の勢力圏だった筑後にも侵攻した。このように龍造寺隆信は戦国大名として隆盛を極め、肥前を本拠地として、肥後の半国、筑前、それに豊前の一部も領国とし、さらに筑後にも入ったのである。(写真:鍋島家や龍造寺家の菩提寺として佐賀藩と深い関係を持つお寺。日本に二幅しかない貴重な大涅槃(だいねはん)像の所蔵や梅の名所としても有名。

 このころの九州は龍造寺氏のほか、島津、大友両氏の勢力が拮抗(きっこう)し、竜造寺氏は肥後の領有をめぐって島津氏と対立した。結局、龍造寺、島津の二つの勢力は天正12年(1584年)に長崎県の島原城近くの沖田畷(おきたなわて)で衝突してしまう。合戦ははじめ、龍造寺軍が優勢と見られていたが、結局は島津・有馬軍の鉄砲隊の襲撃や島津軍の 「 釣り野伏せ 」 という戦術に翻弄(ほんろう)された龍造寺軍の敗北に終わる。この戦で龍造寺隆信は討ち死にして龍造寺軍は総崩れとなり、この後、島津氏は急速に九州で勢力を拡大してゆくことになる。

 天正15年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉が、沖田畷で戦死した龍造寺隆信の嫡男である龍造寺政家に肥前を与える。だが、政家は天正18年(1590年)に病気を理由に隠退(いんたい)してしまう。このため家臣の鍋島直茂(なべしま・ なおしげ)が秀吉から肥前の国政を任されることになる。龍造寺政家には高房という嫡子がいたが、軍役を任せられていた鍋島直茂が事実上の肥前の領主となっており、秀吉も直茂に国政を任せるのが妥当と見たのであろう。

 秀吉の死後に起こった慶長5年(1600年)の天下分け目の 「 関ケ原の役 」 では、鍋島隊は西軍の石田三成方につく。このため領地を失いかねない危機に見舞われたが、筑後の柳川城に立てこもった立花宗茂(たちばな・むねしげ)を加藤清正らとともに攻めた功績により、肥前35万7千石を徳川家康から安堵(あんど)された。関ヶ原の役の後、鍋島直茂の政権は次第に固まってゆく。だが、一方の龍造寺高房は鍋島直茂に領地を奪われたことを恨み、慶長12年(1607年)に22歳の若さで憤死してしまう。また、政家も病死するなど、一時は肥前を中心に九州で勢力を広げた龍造寺家もその本家は絶えることになる。

写真提供:(社)佐賀県観光連盟

 


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