【知の庭】諸藩見聞録

第36回 諸藩見聞録/福井県:福井藩[後編]

家康の孫、松平忠直が北ノ庄藩主に

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一乗谷・朝倉氏遺跡

 下総から北ノ庄城に入った徳川家康の次男、結城( 松平 )秀康は67万石の大名として、越前の国づくりを進めた。諸国から有能な人材を集め、民政や城下町の形成に力を入れた。だが、秀康は慶長12年(1607年)に34歳で死去し、嫡男の忠直が後を継ぐ。忠直は慶長16年(1611年)に将軍秀忠の三女・勝子(高田姫)を正室に迎える。越前松平家は「 制外の家 」といわれ、諸大名から特別視される家筋となる。

 しかしその越前松平家でさえも、高録の家臣を多く抱えており、それぞれが力を持っていたため、藩内の権力争いが続いていた。慶長17年(1612年)、農民の間に起こったいさかいをきっかけにそれが表面化し、主席家老の本多富正と次席家老の今村盛次の抗争に広がってしまう。結局、この争いは大御所の家康が介入することとなり、今村派は全員、封禄を召し上げられて決着したが、藩を揺るがす騒動となってしまった。

 元和元年(1615年)の大阪夏の陣ではこんな話がある。藤堂高虎、伊井直孝らの部隊が八尾・若江で、長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)ら大阪方に攻められて苦戦していた際に、忠直隊は傍観して、藤堂、伊井の部隊を援護しなかった。これを聞いた家康は激怒して、翌朝の総攻撃から忠直隊を外す決意をした。それを知った忠直は、抜けがけを敢行、大阪城の大手口を攻めて戦功を挙げる。この忠直の戦いについて、家康は口では褒めたものの、目立った褒賞は与えなかった。その後、忠直は将軍になれなかったという不満もあったのか、乱行が続いて豊後国へ配流となる。

 忠直配流の後、越前には忠直の弟の松平忠昌(まつだいら・ただまさ)が越後高田から入ることになる。越後高田には忠直の嫡男光長が移されるという措置が取られた。元禄16年(1703年)にいたって、ようやく越前松平家は尾張、紀伊、水戸の御三家と列座して、江戸城の拝賀式に参加できる家格に復した。このときの藩主は松平昌親(まつだいら・まさちか)で、5代将軍綱吉に謁見して、昌親は吉品(よしのり)と改名した。

 しかし、吉品のころには福井城下で起こった大火の影響などにより、藩の財政は悪化してきていた。このため吉品の後を継いだ松平吉邦(まつだいら・よしくに)は、供応、衣服などを簡素にするなどを盛り込んだ簡略令を出すなど藩政の改革に本格的に取り組んだ。だが、その後も飢饉で米の価格が急騰し、藩財政の改善は容易ではなかった。藩財政建て直しへの期待を担って登場したのが松平慶永(まつだいら・よしなが)だ。慶永は人材の登用を実践し、藩士中根雪江(なかね・ゆきえ=せっこう)を抜擢(ばってき)して藩政の改革にあたらせた。倹約の奨励などを行い、財政の徹底改善などに着手した。また、慶永は幕府に建言書を提出するなど幕政にも力を注いだ。

写真提供:(社)福井県観光連盟

 


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