【知の庭】諸藩見聞録

第35回 諸藩見聞録/福井県 : 福井藩[前編]

柴田勝家が9層の天守閣を持つ北の庄城を築く

写真

北の庄城址・柴田公園にある柴田勝家像

 福井はもともと斯波(しば)氏が鎌倉幕府の管領として支配していた。その後、斯波氏の守護代として朝倉氏が入り、斯波氏の力が次第に衰えたところで、朝倉氏が統一を図って権力を握る。その朝倉氏も、織田信長の総攻撃にあって滅ぼされ、柴田勝家が引き継ぐことになる。

 柴田勝家は、尾張国愛知郡に生まれたとされ、織田信秀の家臣だった。信秀の跡目相続の際には、信長の弟の信勝を推して画策するが、信長に攻められて敗れる。だが、剃髪(ていはつ)して信長に詫びを入れ、信勝の死後、信長の家臣となった。こうしたいきさつがあることから、柴田勝家は一時期、美濃の斎藤攻めなど重要な戦に起用されなかった。しかし、もともと実力があった勝家は、信長の足利義昭(あしかが・よしあき)襲撃のころから起用されるようになり、越前の朝倉攻めにも参加する。その後、秀吉が先鋒を務めた浅井長政攻めにも加わった。

 朝倉氏滅亡後の信長は、前波吉継(まえば・よしつぐ)を越前の守護としたが、吉継は朝倉の旧家臣・富田長繁(とみた ながしげ)が一向一揆を引き込んで起こした内乱によって殺される。この一揆は信長が兵をあげて平定する。その後、信長は越後の上杉謙信と対峙(たいじ)させるために、勝家に越前8郡を与える。柴田勝家の治世はここから始まる。

 勝家は、本拠地を朝倉氏がいた一乗谷から北の庄に移し、そこに築城する。この北の庄城は、現在の足羽(あすわ)川の右岸に造られ、柴田神社のあるあたりに9層の天守閣があったといわれる本丸が築かれていた。宣教師ルイス・フロイスが 『 イエズス会日本年報 』 に残した記述では「 城の屋根が立派で輝いていた 」 とあり、見事な城だったようだ。

 北の庄に入った勝家は、依然一揆がたえないため、その対策もあって、農民らが持っていた武器を供出させて、これを鋳(い)つぶして農具や鉄鎖などを造ったりした。このときの鉄鎖が柴田神社に残されている。また、勝家は九頭竜川(くずりゅうがわ)に船橋を造ったり、足羽川に架橋したり、越前の国づくりを積極的に行った。だが、この勝家も、天正10年(1582年)、織田信長が明智光秀に本能寺で襲われて倒れた後は、覇権争いとなり、秀吉に攻められる。

 天正11年(1583年)にはじまった賤ケ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で敗れた柴田勝家は、北ノ庄城に逃れるものの、前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲される。秀吉は北の庄城が一望できる足羽山(あすわやま)に陣を敷いた。平野に築かれていた北の庄城だったことから、攻撃されると弱い。そこで勝家は勇猛にも打って出たが、敗れてお市の方とともに城中で自刃する。この戦で、北の庄城も焼失した。このとき、勝家とお市の娘、茶々(千姫)らは、城中から出て、秀吉によって助けられる。

 越前には関ヶ原の戦の功績により、徳川家康の次男である結城秀康(ゆうき ひでやす)が藩主として入り、新しく北の庄城を造る。慶長9年(1604年)に結城秀康は松平姓を名乗ることを許される。また、三代藩主の松平忠昌は、「 北 」 の字を嫌って北の庄を 「 福居 」 と改め、のちに 「 福井 」 と呼ばれるようになった。

 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.