【知の庭】諸藩見聞録

第34回 諸藩見聞録/岡山県:岡山藩〔後編〕

池田光政が岡山藩主に入り、安定政権となる

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日本三名園の一つ、岡山後楽園

 筑前国名島の城主から入った小早川秀秋が死去して、お家断絶となった後、岡山藩は、備前国姫路藩主の池田輝政の次男で、徳川家康の外孫(家康の次女の子)の忠継に与えられた。ところが、忠継は当時5歳と、幼少だったために長兄の姫路藩主の利隆が岡山城の城代を兼ねた。その後、岡山城は池田輝政の弟の池田忠雄が継ぐことになる。また、この岡山城で生まれた池田利隆の長男である光政は、元和2年(1616年)の利隆の死去により姫路藩主となったが、翌元和3年、幼少だったことから、鳥取藩に国替えされた。しかし、寛永9年(1632年)、岡山藩主であった池田忠雄が死去したため、光政が第5代岡山藩主として入り、以降岡山藩はこの池田光政の流れで続くことになる。

 池田光政は岡山藩主になると、新田の開発や殖産振興に努め、財政面では緊縮を実施して、「 備前風 」 といわれる質素を旨とした気風を作っていった。また、光政は学究の士といわれ、教育的にも熱心であった。政治と教育の両輪で領国を支配しようとしたようだ。そのため正保2年(1645年)に、陽明学者として知られていた熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん)を岡山に招いて、花畠教場(はなばたけきょうじょう)、閑谷学校(しずたにがっこう)を開き、学問に力を入れた。

 光政は寛文12年(1672年)に、突如その子の綱政に家督を譲ってしまう。その理由は明らかではないが、幕閣との意見の対立が背景にあったのではないか、といわれている。その証拠に家督を譲られた綱政は、幕府との対立があった政策の調整に努めている。池田綱政は、新田開発や治山・治水を、土木関係に強かった津田永忠を起用して、積極的に推進する。また、名園として現代にも残る後楽園の造営にも着手した。菩提寺(ぼだいじ)である曹源寺の建立や、光政が創設した閑谷学校の改築も行った。

 池田綱政は正徳4年(1714年)に死去し、その子の継政が家督を継いだ。しかし、その後、岡山藩には、洪水や、凶作、飢饉(ききん)などが続いて、藩財政はさらに逼迫(ひっぱく)する。享保14年(1729年)に洪水が襲った時には、藩の年貢収入の落ち込みを心配した領民が、献米を申し出たという。このとき継政は、光政・綱政の政治を偲んで感謝する歌を詠んだ、という逸話が残っている。その後も、凶作、飢饉は続き、財政改革はうまく進まなかった。特に、寛永6年(1853年)にペリーの黒船が浦賀に来航した際には、岡山藩は房総の防御を命じられた。しかし、そのための出費がかさんで財政は破たんし、財政の大改革に着手せざるを得なくなった。この改革で、岡山藩は領民に衣服の制限、差別化策を実施しようとしたが、領民の反発が激しく、一揆(渋染一揆)を引き起こしてしまう。いずれにしても、本格的な財政の立て直しはできないまま、藩政の時代は終わる。

 


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