【知の庭】諸藩見聞録

第33回 諸藩見聞録 / 岡山県:岡山藩〔前編〕

関ケ原の戦功で小早川秀秋が岡山城主に

写真

岡山城

 天下分け目戦、関ケ原の戦いの功績で、徳川家康から備前、備中、それに美作を与えられて、岡山城に入城したのは小早川秀秋だ。小早川秀秋は安土桃山時代からの家柄である木下家定の5男として生まれ、元服時は木下秀俊と称した。天正13年(1585年)に、羽柴秀吉の養子となった。その後、秀吉のはからいで、文禄3年(1594年)に小早川隆景の養子として小早川家に入り、小早川秀秋と改名する。

 関ケ原の戦いでは、西軍として参戦した。決戦当日、秀秋は松尾山に1万5千の兵を率いて陣を構えた。西軍として参戦してはいたものの、秀秋の心は東軍にあったとされる。いずれにしても秀秋は、西軍の宇喜多秀家が東軍の福島正則隊を撃破するという戦況にあっても動こうとしなかった。このため、痺れ(しびれ)を切らした徳川家康が、秀秋の陣のある松尾山に大砲を放つなどの催促をしたと伝えられる。これによりようやく、秀秋は東軍への加担を決意、西軍の大谷吉継隊を攻撃する。秀秋の裏切りを知った脇坂安冶(わきさか・やすはる〉ら西軍の諸将が、これをきっかけに東軍方につき始めて、戦況は一変、東軍有利の展開となる。

 この 「 裏切り 」 についての評価は別にして、小早川秀秋の動きが、関ケ原の戦での決定的な流れを決めたことは間違いなく、秀秋は筑前国、名島33万6千石の城主から一気に岡山城の城主になる。小早川秀秋が入った岡山城は、もともと秀吉時代に五大老の一人であった宇喜多秀家の父、直家の居城だった。備前の西部を中心に勢力をのばしていた直家は、天正元年(1573年)にそれまでの居城だった亀山城から、石山城(のちにこの地に岡山城が造られる)に移った。そして、城の改築と城下町の形成に着手した。直家は、西国街道を岡山城下に導くなど城下の整備を熱心におこない、商人たちを処遇するなどの政策をとった。直家の子、秀家は天正18年(1590年)ころから、8年前後をかけて、石山城の大改修を実行、岡山城と呼ばれるようになる。岡山城は、金箔(きんぱく)の瓦を使った4重6階の望楼型の天主を持ち、石山城の本丸は二の丸内郭として取り込んだ。また、旭川の本流が城の北から東側に、沿って流れるようにして自然の堀として使っている。

 宇喜多秀家は関ケ原の戦いに西軍の将として参加したことから、一時は薩摩の島津義弘を頼って落ち延びたとされるが、結局、家康によって伊豆諸島の八丈島に流された。宇喜多秀家の後、岡山城に入った小早川秀秋は、入城後岡山城の改築に着手して、外堀を二倍の大きさに仕上げた。また、農地の整備や寺社の復興などにも努めた。しかし、関ケ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)に、死去している。そして、秀秋には継嗣がなかったため、小早川家は断絶となった。

【 写真提供:( 社 ) 岡山県観光連盟 】

 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.