【知の庭】諸藩見聞録

第32回 諸藩見聞録/広島県:広島藩〔後編〕

紀伊から浅野長政の次男、長晟が広島藩主に

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縮景園(しゅっけいえん)
広島市にある広島藩主浅野長晟の別邸庭園。1940年に国の名勝に指定された。

 福島氏の改易の後に、広島城に入ったのは紀伊国・和歌山の浅野長晟(あさの・ながあきら)であった。浅野氏は安芸一国と備後半国をもらった。残る備後には大和国郡山から水野勝成が入って福山藩を立藩した。

 浅野長晟は豊臣政権時の五奉行の一人であった浅野長政の次男である。長晟の兄の浅野幸長(あさの・よしなが)は紀伊国の初代藩主となったが、男児が生まれなかったために、その没後、長晟が後を継いでいた。赤穂の浅野家は浅野長政の三男である長重の流れで、浅野長矩(あさの・ながのり)は長重を初代とすると3代目の赤穂浅野家を継いだことになる。

 広島城に入った浅野長晟は、紀伊国38万国から42万6千石の大名となり、山陽道の要所をまかされる。長晟は大阪の陣の後、元和2年(1616年)に家康の娘と結婚しており、そうしたことも、この人選に影響していたと思われる。長晟の治世は、最初から安泰だったわけではなく、広島城に入った後、父である浅野長政の甥であった浅野良重が、長晟の政策に反発して、立てこもり事件を起こす。しかし、長晟はこの騒動を、良重を謀殺することでおさめて、難関を乗り切る。また政策面では、強かった家臣の力の分散を狙って、ひとつの村を何人かの共有知行地とする入会知行制度を導入する。また、元和6年(1620年)には「郡中法度」を布達して、郡奉行、代官らに農村支配の指針を示し、農民をその土地に固定させて、税制、司法制度などをこの法度を基本として整備していった。

 次男であった長晟について、父である浅井長政は、立派な武将に育った幸長と比較して、その成長ぶりに不安を抱いていたといわれる。兄の幸長の死後その相続についても、家中から異論が出たといわれ、良重の事件もそのあらわれの一つであろう。長晟の亡き後は、次男の光晟(みつあきら)が16歳で第二代の藩主となる。この際、兄の長冶には備後の国の三次(みよし)に支藩を立てて、光晟の後ろ盾を期待するとともに浅野家継嗣の断絶に備えた。

 浅野家分家の浅野長矩(あさの・ながのり)が起こした江戸城・松の廊下の事件は、第4代長綱のときに起こる。赤穂藩主の浅野長矩が高家・吉良義央(きら・よしひさ)に刃傷におよび、将軍綱吉に即日切腹、改易を申し渡されたため、その累が及ぶことも心配されたが、それはなく結局は大石内蔵助らの動きを裏で助けたといわれる。

 浅野家の累世中の名君といわれているのは、第7代藩主の浅野重晟(あさの・しげあきら)である。重晟は第6代藩主の宗恒(むねつね)の長男として生まれた。母は正室の徳川宗勝の五女・福子である。このころ藩の財政は、立て直し策を実行するもなかなかうまく行かず、きわめて厳しい状態にあった。そこで、重晟は自らも節約を実施して、倹約令を徹底させた。しかし、幕府の公役負担が重くのしかかってきた上に、風水害などもあり、藩の財政は、危機的状況から脱しきることはできなかった。しかし、その一方で、重晟は学問を奨励して、天明3年(1783年)に藩校の修道館を創設し、講師には民間から儒者の頼春水(らい・しゅんすい)、香川南浜(かがわ・なんぴん)らを講師として登用した。また、藩政の歴史をまとめた『済美録』などの編纂 ( へんさん )も行っている。

 


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