【知の庭】諸藩見聞録

第31回 諸藩見聞録/広島県:広島藩〔前編〕

関ケ原の戦功で、福島正則が広島城主に

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広島城(写真提供:広島県)

 中国地方で実権を握った毛利輝元は、その居城としていた吉田郡山城が山間部にあって、政権の執行にそぐわなくなってきたため、平野が広がる海沿いに築城することを決めた。三角州の埋め立てなどを行い、毛利120万石にふさわしい 「 広島城 」 が造られた。城の構造などは大阪城を参考にして決められたという。

 しかし、毛利輝元は関ケ原の役で徳川家康に敗れたため、おおきく減封され、長門、周防に押し込められる。慶長6年(1601年)、毛利に代わって広島城には、関ケ原の役でおおいに戦功をあげた福島正則が入った。

 福島正則は武勇にすぐれ、天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦( しずがたけのたたかい )では、「 賤ケ岳の七本槍 」 (福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋(かすや)武則、片桐且元) の中でも抜きん出た戦功をあげ、秀吉から5千石を与えられている。その後も主要な戦には全て加わり、秀吉の信任を得た。朝鮮半島にも出兵し、文禄4年(1595年)には尾張国清洲24万石の大名となっている。だが、福島正則は、朝鮮出兵あたりを契機に、文治派といわれた石田三成と意見が合わなくなり、豊臣秀吉の死後は加藤清正らとともに三成との対立が激しくなる。

 慶長5年(1600年)、正則は徳川家康の会津・上杉討伐軍に際して、豊臣恩顧の大名でありながら6千もの軍を率いて参加した。その途中で石田三成の挙兵の知らせが入ったため、いちはやく徳川家康方について、三成との戦に臨む決断をし、反転して西に向かった。

 福島正則隊は、関ケ原の役でも宇喜多勢との困難な戦に挑み、これを破っている。家康はこの戦を評価し、山陽道の要所である安芸、備後を与えた。正則は入封後、領内の総検地や刀狩りなどを実施、領内を固めていった。しかし正則は、石田三成に反感を抱いていたものの、豊臣家を主筋とする考え方は捨てきれないでいた。このため、加藤清正とともに淀殿を説得して、家康と豊臣秀頼の京都二条城での会見を実現させるなど、豊臣家と徳川家との間の調整役をつとめた。

 この二条城の会見後、豊臣恩顧の大名たち、加藤清正、池田輝政らが相次いでこの世を去る。そうした流れの中、かつての豊臣恩顧の大名に対する幕府の警戒感は次第に強くなる。徳川家康に恭順の意を伝えていた正則も、徳川幕府内での立場は微妙なものとなっていく。大阪の陣の際には、正則の直接参戦は家康から認められず、江戸の留守居役となった。

 そして、広島城修復事件が起こる。福島正則は元和5年(1619年)に、台風で破壊された広島城の修理をしたいと考えて、幕府に願い出る。しかし、幕府から修理の許しが出ないまま、必要な石垣などの工事を行ってしまう。正則はこれを理由に幕府にとがめられ、安芸、備後を没収されたうえで、信濃国川中島四郡の中の高井郡高井野藩など4万5千石に減封という厳しい措置がとられた。正則が去った後に広島城に入ったのは、徳川親藩の浅野長晟(あさの・ながあきら)である。

 


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